2007年11月22日木曜日

大阪

久しぶりに大阪を訪れたら、その変貌振りにびっくり。もう、どこが何だか全然わからない。
JRの大阪駅近辺は大幅に変わっていて、「東口」なんてなくなってしまって、「御堂筋口」とか「北口中央」とか、知らない改札がいっぱい登場。

また阪急百貨店も改装中で、谷町線へまっすぐ抜けられず、地下で迂回。地下に降りると、あれ~ここはどこやねん? 「あのぅ、谷町線はどこでしょう?」と、ばりばりの大阪弁で道を尋ねる妙な私。いやあ、参りました。

改めて驚いたことが、あとふたつ。

まず、帰宅ラッシュアワーにJRの快速に乗ったのに、東京との違いにびっくり。確かに座れるまではいかないけれど、立っている自分の周りに十分なスペースがある。これでラッシュ? ああ、関西人が羨ましい。

その次は、さすが大阪人と称えるべきか、嘆くべきか。

先日、アメリカで中国のニュースを聞いて、夫と大いに笑い転げた。人とぶつかっても知らん顔、平気で前の人を押しのけて歩くのはあたりまえ。そんな国民の粗悪なマナーを、なんとか北京オリンピックまでに改めようと、中国が取り組みを始めたというのだ。

もっと洗練されている日本人のつもりで、「そんなん無理無理」と笑っていたら、なんと大阪人は、中国人と全然かわらへん! 後ろから、前から、がんがんぶつかるわ、電車の扉が開いて、降りてくる人もまたずに、どんどん乗り込んでくるわ・・・。

新しい大阪市長に、ぜひともマナー向上の取り組みをして欲しいわ。

2007年11月16日金曜日

Alli(アーライ)2

たった1錠で、もう3日間も、油が出る出る・・・。
毎回トイレの掃除だし、いい加減にいやになる。
気を許して、うっかりオナラなんて出来ません。

昨日、出張中の夫にそのことをメールでレポートしたら、
「ホテルでパンツ洗いました」だってさ。

Alliダイエット中の人は、一度は体験すること間違いなし。
(恥ずかしながら、この私も・・・。)

もう絶対飲まない!

「真剣にダイエットを考えている人だけにしか勧めません」と言う製薬会社の警告も、うなづけるぜ。
生半可な気持ちでは、パンツは洗えません!

公衆トイレでオレンジのリングを見たら、Alliダイエット者が使用したと思ってください。

1錠怖いもの見たさで、飲んでみたいと言う方、ご連絡下さい。持って帰りまっせ。

PS. 11月18日~12月8日まで、日本に一時帰国します。家族は置いて、私だけ。

2007年11月15日木曜日

Alli(アーライ)


先日、夫の会社の出張者から頂いた週刊誌を読んでいると、日本で「Alli」ダイエットが話題になっているという。
翌日、Costcoにお買物に行ったら、Alliのスターターセットが65ドルで売っていた。
「あっ、これだ、話題のダイエット薬!」
週刊誌を読んでいない夫に説明すると、使い方も効能もよくわからぬまま、流行に「敏感」な彼は、今風のメタボ体型には、話題のこの薬しかないと、早速お買い上げ~。
このお薬、腸内での脂肪の吸収を阻止するらしい。油分のある食事を取る際に、食事と一緒に1錠摂取。1日最高で3錠まで。
実は、私も、夫が出張中の昨日、試しに1錠飲んでみた。汚い話だけれど、注意書きにも、「オナラと一緒に油分が出ることも」などと書いてあったが・・・。まさに、イクラのような油が、トイレに行く度に出てくるのら! 油だから、水面に浮いて、流す時には便器の周りにオレンジ色がべったり・・・。そのたびに掃除をしなくちゃいけない。(ラー油を水面に浮かせたところを想像してください。)
たった1錠でこれ。毎回飲んでいる夫が、「これ、大変やわ・・・」と言っていたけど、出張先で大丈夫かな~。うっかりオナラなんてしたら、とんでもないことに。そのうち、生理用のナプキンが必要にならないかしらん・・・。
こうやって油分の摂取を阻み、体内の脂肪を燃やしていくってことなのか・・・。Alliは、飲んでいるだけではダメで、脂肪分の摂取を控え、同時に運動も必要らしい。販売元の製薬会社も、「本気でダイエットに取り組む人にだけ」勧めているようだ。
Betsyにもらったトレッドミル。地下においてあるけれど、夫が走っていたのは最初の1ヶ月だけ。彼は、今回どこまで本気か。(使用前、使用後の写真をこっそりブログに掲載したいな。)

シナコ、バールミツバに行く

バールミツバ、なんて聞きなれない名前でしょ。

何人かユダヤ人の知人がいるから、少しは聞き知っていたものの、実際に「体験」したのはこれが初めて。体験ったって、したのは私じゃなくて、シナコですけど。(さすが、オハイオではない体験。)

バールミツバは、13歳で行なわれる、ユダヤ教の男子の成人のお祝い。日本で言えば元服かな。これに対して、女の子のためのお祝いはバットミツバと呼ばれ、12歳で行なう。日本で言えば13参りかな。そもそもユダヤ教もイスラム教徒同じ土地を発祥の地としているため、男尊女卑的な伝統があるため(これらの宗教に限らず、古来からどこでも基本的には男尊女卑だけど)、バットミツバのお祝いを大々的に行なうのは、アメリカのユダヤ人の間での話らしい。

ユダヤ教に関して、興味ある方は、この方のウェブサイトをご覧下あれ。ユダヤ教に改宗されたスカースデールというグリニッチに近いNY州の町に住む日本人の女性のサイト。バールミツバについて詳しく調べようと検索していて見つけたサイト。勉強になります。
http://www.scarsdalemura-kara.com/

さて、シナコは、のたまう。「バールミツバのための、ドレスを買わなくちゃ! その後すぐにコーラスのグループでのフォーマルディナーもあるし、クリスマスダンスパーティーもあるから、いいでしょ?」

ドレスを買いに行ったのが、バールミツバが行なわれた土曜日の昼間。近くの店を何軒もはしごして、数時間かけてようやくシナコのサイズにあう洋服を買った。私が誕生日に、夫とシナコからもらったギフトカードを使って! ま、出費はゼロってことで、いいんだけどね。

さて、何をプレゼントに持っていくか? シナコ曰く、「みんな、お金をあげるんだって。」
「幾ら?」
「100ドルくらい」
「え~?! 100ドルも!友達の、しかも弟でしょ? 多すぎるよ!」


しかし、前日にシナコのお友達に会ったときに聞いてみた。
「いくら持っていくの?」
「あの子のお家には、〇〇コンサートにも連れて行ってもらったし、あれも何百ドルかしてたと思うし、108ドル。18の倍数がユダヤ教では、縁起のいい数字なの。」
「あなたもユダヤ人?」
「私はハーフ。お父さんはユダヤ人。でも、お父さんはバールミツバはしてないって。」

100ドル以上も・・・。子供のお付き合いで100ドルというのは法外。しかし、確かにシナコもそのコンサートには連れて行ってもらってる。こっちの常識もわからないし、どうしたものか。
結局、判断は夫に任せた。
無論、横並びの108ドル。

夕方5時。会場へは地図を見ながら行った。シナコを降ろしたところは、カントリークラブの中にあるホテルの前だった。ストレッチリムジンが停まり、その他の車から降りてくる人も、一様に正装している。さながら結婚式の披露宴みたい。

そうなんだ。きっと、バールミツバは、結婚式に匹敵する重要性を帯びているのだ。そう思うと、108ドルも妥当な額に思えてきた・・・。

10時に再びシナコを迎えに行った。さながら引き出物のごとく、大きな紙袋を持ち、中には写真を合成した額が2つ。パーティー会場に、業者が来ていて、子供たちの写真をお土産に撮ってくれたんだって。

インセンティブ - アメリカの大学事情9

先日、日本のテレビ番組で、アメリカの医療保険事情を特集していた。

アメリカの医療保険は、個人で買うもの。但し、低所得者にはメディケイド、高齢者にはメディケアという医療保障があるから、一番困っているのが中流層である。保険料があまりに高額なため医療保険に加入していない人がとても多い。

そういう意味では、国民全員に医療が保障されている日本はすばらしい。「郵政民営化」に続いて、「社会保険民営化」とか「国民健康保険民営化」とかが、起きないことを切実に願うわ。

医療保険と同じように、今の大学の学費に一番苦しんでいるのは中流家庭。 所得が少なければ、ファイナンシャルエイドを得ることができる。でも、ある程度の所得があれば、「支払可能」とみなされてしまう。実際にはそうでないから、プライベートの学費ローンを組んだりする。利率も高い。

ファイナンシャルエイドとして、無償のグラントと、通常はパッケージでオファーされる、連邦政府の学生に対するローンの利率は、年間4000ドルまで、合計20000ドルで、年率5%。在学中の利息は政府が肩代わりしてくれる。これ以上に必要なら6.8%で、倍額まで借りることが出来る。

この利率も決して低くはないと思うけれど、これに対して、援助が必要でないとみなされた場合に、両親が連邦政府から借りる場合の利率は8.5%。連邦政府にしてこの利率。学生相手のプライベートローンも、最低でもこのくらいの利率。また「悪質」なローンもあると聞く。学生の中には、卒業後からの月々の返済金が300ドル以上になり、支払不能に陥っている人も多いらしい。驚いたことに、学費ローンだけは自己破産しても免除されないらしい。

学費で頭を悩ませている中流層が増えている中で、最近ではいろいろなところから、雇用確保を目指して、学費を対象とした「インセンティブ」が提示されている。

まずは、社員を対象とした奨学金や授業料払戻しシステム。その会社で働きながら大学に通うような場合だ。多くの会社が社員のスキルやキャリア向上のために、奨学金を出しているが、これらは既に社員となってその会社で仕事をしている「大人」を対象としており、学士より、修士以上の学位が対象の場合が多い。これは、キニコのように、これから大学生になろうという者には使えない。

そんな中で、ひとつ大胆な取り組みをしている会社がある。アルバイト社員に対する学費支援システム。総額で、最大年間6000ドル。UPSという会社だ。日本で言えば差し詰めクロネコヤマト。フォーーチュン500にも含まれる大企業である。UPSのウェブサイトで見つけた支援内容は下記の通り:

3000ドル/年 パートタイム従業員(週20時間)
4000ドル/年 (パートタイム・スーパーバイザーの場合)
2000ドル/年 学生ローン
医療・生命保険
401Kプラン
土日祝休み、有給休暇あり
割引株式購入プラン

週20時間というのは、決して簡単ではないが、それでもこれはかなり大胆なオファーと言える。
(日本では、新聞配達をして学費を稼ぐ制度があったような気がする。どのくらいもらえるのかな。)

以前に噂で、AT&Tの社員には、社員の子供のための学費援助があると聞いたことがある。インターネットを駆使して調べたのだか、事の真偽はわからなかった。

企業が社員の子供の大学費用に対して補助を提供している例として見つけたのは、保険会社のGEICOとAflacだった。いずれも年間1000ドルとか2000ドル程度。

従業員の子供に対する補助・援助として手厚いのは、公的機関や大学である。殆どの大学では、職員やスタッフの子供に対しては、大幅な割引から無料まで、寛大なサポートがある。

そう言えば、高校の例だけれど、キニコの去年のルームメイトのベッカは、デイスチューデントだった。つまり、寮に机はあるものの、ベッドはない。近所に自宅があるので、夜は自宅に帰るからだ。ベッカのお父さんは、キニコの学校のグラウンドキーパー。校庭の整備のほか、夏は校内の芝生の手入れ、秋は落ち葉掃除、冬は雪かきの仕事がある。ゴルフ場もある広大な土地だから、複数のスタッフがおり、彼はそのチームのヘッド。ベッカには2人の兄がいて、2人ともキニコの学校を卒業している。普通の学生と同様に、合格しなければ入れないが、合格した場合の学費はゼロ。今年の授業料は30000ドルだから、社員のベネフィットとしては、手厚い。ベッカのお父さんがこの仕事を選んだ理由も、このベネフィットが目的だったと言う。

さて、様々な雇用促進のインセンティブがある中で、最もユニークなのは、「カラマズープロミス」と呼ばれるもの。ミシガン州にカラマンズーという名の町がある。ケロッグの本社があるバトルクリークのお隣。優秀な人材が、田舎から流出してしまうことを防ぎ、同時に若い人材を外から取り入れるための試みである。

1年ほど前に始まったこの新しい施策の内容は、カラマズー市内の公立学校と高校に規定の期間在籍し卒業した者には、ミシガン州内の公立大学の授業料が最大で無料になるというもの。補助の割合は在籍年数で決まる。

幼稚園(1年生になる前の1年)から高校の最終年である12年生まで13年間通えば100%で、無料。
1年生―3年生~12年生までなら、95%の補助。
4年生~12年生 90%
5年生~12年生 85%
6年生~12年生 80%
7年生~12年生 75%
8年生~12年生 70%
9年生(高校)~12年生 65% 

10年生以降の在籍では全く補助は出ない。カラマズーの公立学校に通うには、カラマズーの居住者でなければならない。つまりこれは子供の小さい若い家族をこの土地に誘致するための対策である。実際、これがどのような成果をもたらすのかわからないため、この試みは10年後には見直しがかけられることになっている。

あー、こういうことを、もっと早く知っていたら、カラマズーに移住するか、どこかの大学の掃除夫か何かの口を探すんだったのに・・・。

2007年11月8日木曜日

冷蔵庫

ある日、冷蔵庫を開けると、内側の壁を水が伝って流れた跡。このところ、冷蔵庫の底に水が溜まっていることがあったが、原因はこれ? どうやら、上の冷凍庫の方から来ているみたい。

早速、大家さんにその旨Eメールをした。
「別に、このまま使えますけれど・・・そろそろ寿命でしょうか。」と書いたところ、
「あの冷蔵庫は、もう30年くらい使っているから、買い換えましょう。冷蔵庫の入るスペースのサイズを測って教えてください。」

やった~!! 
確かに、色も今どきの色じゃなかったし、省エネの前世代のものだから、これからは電気代も安くなる!

新しい冷蔵庫の配達が2,3日後に迫った頃、大家さんが家の手入れにやって来ることになった。その朝、冷蔵庫を確認すると、あら不思議。水が伝わった跡も、水も溜まってもいない。(あの日は、シナコが氷を作っていたかも・・・トレイの水をこぼしたのが原因だったか・・・。) 別段今更、冷蔵庫がキャンセルされるはずでもないのだが、なんとなく後ろめたく、あわててコップで水を汲んで、内壁にたらし、一番底にも水溜りを形成。大家さんはそこまで確認もしなかったけど。

とうとう新しい冷蔵庫の配達! 
今度の冷蔵庫は、自動の製氷システムがついている。これでシナコが水をこぼす心配もない。

冷蔵庫が設置された。が、ふと疑問がわいた。
「あの・・・自動製氷ってことだけど、一体どこから水がやってくるの?」と、シアーズの配達員に尋ねる。
「これは、『自動』なんです。自動ってことは、それも自動なの。だから自動なんです。」

ええー? ひょっとして、冷蔵庫の中の食品から蒸発する水分でも集めて、氷にしているわけ? ならば画期的。でも、そんなに大量の水分が出るか? 納得がいかないので、メカニズムを説明してよとか、しつこく尋ねる。
「マダム、僕は1日に十何台も冷蔵庫を配達しているんですよ! これは自動なんです!」

でも、やっぱ、納得できないよ。
いらだっている配達員を尻目に、必死になって説明書のページを繰る。

「ほら、あった! やっぱり後ろのパイプに、水道を繋がなくちゃいけないんじゃないの!」
幾ら技術が進んでいるったって、氷の元となる水がなくっちゃ、氷なんて出来るわけないじゃん!

さっきまで自信満々だった配達員君。ふてくされながらも、早速、冷蔵庫の裏側を確認。
「あ、ありますね。でも、お宅は水道管が近くにないから、繋げません。」

果たして、自動製氷機能は使えないまま、相変わらず製氷皿で氷を作っている。

でも、それよりももっと重大なことが。
私が大家さんに伝えたサイズと、大家さん理解したサイズに行き違いがあり、新しい冷蔵庫は、以前よりも、さらに一回り小さくなってしまったのだ!

つまり、無駄な買い物をせず、悪くなった食品をいつまでも後生大事に取っておくなってことか・・・。

2007年11月7日水曜日

アメリカの大学受験と早期申し込み - 大学事情8

日本で流行のAO(アドミッションオフィス)入学というのは、そもそも通常のアメリカの大学受験を模倣したものらしい。アメリカの受験は、日本のように各校にて試験を受けたり、面接を受けたりはしない。合否の判定は、各大学のアドミッションオフィスに提出する一連の書類(アプリケーション)とSATの得点で決まる。SATの得点よりも、学校の成績、先生からの推薦状、受験者のエッセイなどで構成されるアプリケーションの内容の方が比重は高いと言える。その証拠に、ハーバードを受験した生徒の中で、SATが満点だった生徒でも何十人も不合格となっている。

日本の試験での一発合格とは違い、高校生活の4年間(実際には11年生までの3年間もしくは、12年生の前半までの3年半)の学業および課外活動の内容が、評価の対象となる。故に、成績はかりではなく、学校内外での活動実績(スポーツ、クラブ活動、ボランティア、夏季休暇中の仕事やその他の体験など)が重視されるため、本来の高尚な動機を外れて、計算高い気持ちでボランティア活動に参加する生徒も多い。(動機はどうあれ、ボランティアをしてくれるのだから、文句を言う筋合いはないのだが・・・。)

有名な私大では、本人の実力とは別に「レガシー」が考慮されるところがある。つまり、歴代この大学の卒業生であるとか、寄付金の多い家族といった具合に。ブッシュ大統領がエール大学というのも、頷けますね。

すべてのアプリケーションは、郵送またはオンラインでの提出であり、エッセイも自筆ではなくタイプであるから、誰が書いてもわからない。そこで、親が替わりにエッセイを書くといったことも、実際にはあるらしい。しかし、文章の上手下手を問うよりは、その生徒がどういう人物であるかを伺うための資料となるので、上滑りの上手な文章よりは、下手でも、個人の意見や考えを綴った内容が求められている。
アドミッションオフィスに提出された資料は、地区毎の担当者が隅々まで見て、推薦できる生徒のファイルを選ぶ。が、推薦しない生徒のファイルも、次の担当官へ渡される。こうして、だいたい3段階くらいの人の目を経て、最終的な合格者が選出される。文句なく合格というファイルは簡単に選べるのだが、ボーダーラインの中から、誰を合格にして不合格にするかが一番難しいらしい。そういう場合は、最終的な選考会でのディスカッションになる。
どうして知っているか? キニコの高校で、ハーバード、シカゴ、ボストンカレッジ、ユニオン大学のアドミッションオフィスの担当者が来て、説明会があったのだ。その際、模擬アプリケーションを渡され、参加した親たちがアドミッションの担当者という設定で、誰を合格にするか、不合格にするか、ディスかションをしたのである。

「A子ちゃんは、確かにB子ちゃんよりも成績は少し悪いけれど、この子はどうやら片親だし、エッセイを読んでも、XXを勉強して、病気の母の役に立ちたいという気持ちがあるので、私はA子ちゃんを合格させたいと思う。」
「C男は、成績はひどいが、ボート部のキャプテンで州大会でも優勝している。しかも彼の父親は、医者だし、大学としても寄付金は大事ですからね・・・。」
などと、まことしやかに話し合い、最終的には皆で多数決で決めたのである。


さて、受験の過程に、面接があるが、一般的に面接は必ずしも受ける必要はない。面接を希望する場合は、大学を訪問した際や、大学側がカレッジフェア(大学説明会)として高校を訪れる際、または遠方の場合は、各地域別に大学を代表する人物がいて、面接を受けることができる。面接官の評価は、個人の主観によって差があるため、合否にはあまり影響はなく、逆にその大学に興味がある生徒が、大学について質問する場としても利用される。であるから、必ずしも面接を受けた大学を受験する必要もない。

その昔、私が日本の大学を受験した時、受験会場として大学を訪れたのが初めての大学訪問だった。その時に、「げっ、この大学、こんなボロいの・・・」とか思っても、時既に遅し。実際に入学した大学は、受験会場が別のところだったから、入学式で初めてその大学を訪れた。「ひぇ~、なんて辺鄙なところにあるねん!」と思ったものの、あとの祭りだった。
通常、アメリカの場合は、早い人で11年生になる前の夏休みあたりから、遅くとも12年生になる前の夏休みには、大学訪問をする。我家の場合も、11年生の春休みにようやく重い腰をあげて、車で行けるところの大学を、4校一度に見学した。

ちなみに、そのうちの1校は、全くの冷やかしのハーバード。ギフトショップでミーハーに、ハーバードグッズでも買おうかな~と、近くをうろついていたら、キニコの同級生に出くわした。「うちはTシャツを買いに・・・」っと、得意になって言いかけたら、キニコにぎろっと睨まれて、母は沈黙。父親と一緒だったその青年は、「UPennとジョージタウンとコロンビアと・・・」と一流大学ばかりを見て回っていたようだ。
この夏休みにも、2回に分けて、キニコと2人で、合計7校ほど訪れた。まともに見学ツアーに参加し、面接まで受けたところもあれば、チラッと見て、ここはもういっか・・・と去ったところもある。ある街中にある大学では、ツアーの途中で、「ねぇ、キニコ、あんたここで勉強できると思う?」と聞くと、
「・・・私もそう思ってた。」
「でしょ。こんな誘惑の多いところじゃ、絶対ダメやわ。時間の無駄だから、抜けようか?」と、ツアーの途中で脱落。
大学の申し込み時期は、早期と一般の2種類がある。早期の申込締切は11月1日~15日あたり、一般は1月1日~15日あたりというのが標準。合格発表は、早期が12月15~末、一般は3月半ば~4月半ば。
日本なら、早期=推薦入学ということで、合格確率が高い場合が多いが、アメリカの場合はあながちそうでもない。大学進学が加熱している昨今は、早く決まってストレスから解放されたいと望む「親子」が増え、早期申込者が増えて、競争率が高くなっていると言う。早期で取る生徒の人数は、大学によって差があるが、一説には3分の1とも言われている。
早期申し込みにも、幾つも種類があってややこしい。扱う種類は大学によって違う。主な種類は下記の3つ。

Early Decision
Early Action
Early Action 2

ひとつ目のEarly Decisionは、受験して合格したら、必ずこの学校に行かなければならない。つまり、1校しか受験できない。但し、ファイナンシャルエイドを申し込んでいる場合に、エイドの額が少ないと言う経済的な理由での辞退は許されている。

Early Actionは、受かっても必ず行く必要はないので、複数校受験できる。Early Action 2というのは、通常の早期より申し込み時期が遅く、1月1日まで。つまり、12年生の1学期の成績まで、SATももう少し遅い時期までの結果を送ることができる。1月1日は通常の申し込み期限とほぼ同じだが、発表が早い。受かっても必ずしも入学しなくてよい。

早期で受けた場合の、合否の種類も、合格、不合格のほかに、「延期」というのがある。つまり、早期での合格は認められなかったが、次回の一般受験者に加え、改めて合否を判定するというもの。但し、「延期」された場合に合格することはあまりないらしい。


ということで、わが娘のアプリケーションの話になるのだが、まず学業成績は平均がB。スポーツも、女子サッカー部のマネージャー、冬はアイスホッケークラブ(チームではない!)と、アスリートじゃないし、生徒会だとか、スピーチコンテストで華々しい成績を修めた、な~んてこともない。唯一書けるのは、一昨年の夏休みに中国で英語を教えるボランティアをした、今年の春休みにフロリダで、家のない人のために家を建てるHabita for Humanityのボランティアをした。(素人の子供が釘を打って建てた家なんて、怖くて住めないよ・・・まして、ハリケーンがしょっちゅうやってくるフロリダだぜ!)

望み薄とはわかっていながら、上記の「早く決まってストレスから解放されたいと望む親子」である私たちは、早期申し込みをしてしまったのですよね。

本当のことを言うと、大学の合否もさることながら、ファイナンシャルエイドが一体もらえるのかどうか、もらえたとしたらどのくらい出るのか、早く知りたかったのだ。望みを4月末まで持ち越したくなかったのだ。但し、一般の時期なら、「他校のエイドパッケージと比較して交渉も出来る」と言われたのだが、幾らなんでもその差が大幅に違うと言うことはなさそうに感じた。

キニコが申し込んだ大学は、合否が12月15日、合格した場合にはファイナンシャルエイドの見積もり額が12月末にはわかる。不合格になったらなったで、あきらめてくれるし、合格してもエイドの額が大幅に少なければ、あるいは出なければ、今後どの私学を受けても、内容は大差ないと思えるので、そこで、娘には現実を知って、早期にあきらめてもらいたい・・・そんな思いがあったのだ。

さて、キニコの運命やいかに。

2007年11月6日火曜日

エレクションデー

と言うことで、昨日は学校がお休みだった。きっと学校が選挙会場にでもなるのだろう。

日本の選挙と違って、アメリカの選挙は毎年この日と決まっている。来年の大統領選も、同じくエレクションデーに行なわれる。すべての選挙と投票が、同時に行なわれるから、効率はいいと思う。

解散のたび、あるいは補欠選挙を、年がら年中やっているどこかの国に比べれば、選挙のコストが必ずしも少ないとは言わないが、少なくとも管理費用は抑えられているはず。

連邦法では、大統領が、大統領の職務を遂行できなくなれば、副大統領が大統領になるし、議員が任期中に死亡したような場合には、州知事がその任期を遂行する代理人を任命することが多いため、補欠選挙はあまり行なわれないからだ。

日本では、選挙前には、駅前でタスキをつけた候補者が、握手を求めてきたり、宣伝カーが、最後の最後まで、「最後のお願いに参りました」と大声を張り上げて回って来たり、七三分けか、九一で頭の隅から無理やり中央まで引っ張った髪型の、脂ぎった顔の男性、はたまたレトロ感溢れた化粧またはパーマの女性の、たいていは町の美化に貢献しない笑顔がいたるところに並んでいる。

それに比べると、こちらの選挙はおとなしいものだ。(あ、大統領選だけは、派手はバスツアーなんかがあるけど。)


これが選挙ポスター。こんな風に、直接地面に立てられいる。

写真もないから、これじゃ容姿や年齢はわからない。もちろん人種も。場合によっては、男性か女性かもわからない場合もある。

まさか、それが意図なのかな~。(小さい町だと、たいてい誰が誰か知っているものだけれど。)

2007年11月3日土曜日

ファイナンシャルエイド1 - 大学事情7

アメリカの大学生の65%は、何らかのファイナンシャルエイドを受けていると言われている。
でも、逆に言うと、残りの35%は受けていないわけ??? べらぼうに高い授業料を、丸々ポンと払える人がいるって言う方が驚きだけど・・・。

ファイナンシャルエイドには、次の3種類がある。
連邦政府のエイド
州政府のエイド
私的機関(私大)のエイド

連邦政府の奨学金は、私立大学、公立大学に関わらず、すべての市民と永住権保有者が対象。
州政府のエイドは、あまり良く知らないが、恐らく州立大学の場合に、個別の大学が出すものと思う。私大のエイドは、自校の生徒に対するエイドである。

殆どのエイドは、Need-based(必要に応じた)エイドであり、幾ら成績が優秀でも、家庭が裕福であれば受けることはできない。しかし、成績がとても悪ければ、エイドを払ってまで学校に来て欲しくもないわけで、同じ成績なら、エイドの不要な生徒を取るのは当然のこと。たまに、Need-blindと言って、大学の合否と、エイドを出すかどうかは、全く区別して審議する学校もある。

エイドは、たいていが下記の3種類で構成されたパッケージでオファーされる:
1.無償のグラントまたはスカラーシップと呼ばれるもの
2.ローン
3. ワークスタディー

1.は返済不要だが、2.は学生が借主となる借金。多くの学生は卒業してからも、20~30年くらいかけて返済を続けている。今は、月々100ドルくらいの返済のようだが、どのくらい借してくれるのか、利率はどのくらいなのか詳しいことは知らない。現在の学費では、今後の返済額はこんなものでは済まないかもしれない。3.のワークスタディーは、キャンパス内での仕事。一般的にはワークスタディーをしている学生の方が、していない学生より成績がいいらしい。外に遊びに行く時間もお金も制約されるから?

ファイナンシャルエイドの推奨額を決定するのは、連邦政府のFAFSAと言う機関と、SATという標準テストを行なっているカレッジボード。エイドを希望する者は、必要な情報と確定申告のコピーを添えて、入学年度の2月1日までに申し込みを行なう。申し込み書には、収入や家のローンのほかにも、兄弟姉妹の学費事情や、その他の細かな財務情報を書き込む。また、申込書の項目だけでは書き表せない特殊な事情を説明することができる空欄もある。

我家は、この奨学金のために永住権を申し込み、現在は最終段階。恐らく2月1日の申し込み期限までには、間に合わないが、事情を説明すれば考慮してくれるだろう、というのがカレッジボードの説明だった。

うちの場合は「見せ掛け」の給料は多いのに、可処分所得はものすごく少ない。実際には毎月赤字のこの状況を、出来るだけ細かに説明しなければならないのだが・・・果たしてどこまで理解してもらえるだろうか。

FAISAやカレッジボードの推奨エイド額の情報が、各大学に送られ、実際のエイドの額は、個々の大学が決定する。だから、多少は交渉の余地もあるようだ。是非この学生が欲しい!と思えば、ちょっとは色をつけてくれることもある。複数の学校からオファーをもらった学生は、各校と交渉して、少しずつ吊り上げ、出来るだけたくさんエイドが出る学校を選んだりするのだ。

うちのキニコも、このくらいやってくれたら・・・。私たちを、打ち出の小槌とでも思ってるんじゃないか。逆さに振っても血も出ないのにさ。

行き倒れ

聞きたいことがあってメールをしたら、電話がかかってきた。

リヤド以来、家族ぐるみで付き合ってりる友達が何組かある。その中の一軒。

日本は夜。取りとめもなく話をしていたら、随分遅い時間になってしまった。向こうの子供たちはまだ小さい。

「子供たちもう寝ささんとアカンのちゃうの?」
「あぁ、もうとっくに行き倒れてるよ。」
「ほんなら、お布団に入れないと、風邪引かすやん。」
「ええねん、しょっちゅうやから。そう言えば、シナコこそ、いっつも行き倒れてやん。ようゲームしてたテーブルの下で寝てたで。」

数家族集まって、しょっちゅうトランプをしていた。たいていは「ナポレオン」。ポイントあたり小額をかけて。勝っても負けても100リヤルとかそんなものだったけど。
何故か弱い我が家は、みんなのカモだった。

「えぇ? そうやったっけー。。。」
「そうやん、放ったらかして、ずっとゲームしてたやん。」

そうか、シナコの行き倒れ癖は、この頃に端を発していたのか。ってことは、シナコの行き倒れの責任の一端は私にあるってこと?

一昨日は、私が遅くまで「内職」をしていて、ふと不吉な予感がしてファミリールームを覗きに行くと、電気は煌々、テレビは大音量でついたまま、ラップトップもつけたまま、おまけにそのラップトップのキーボードの上に両足を乗っけて、洋服のまま、メガネもかけて、グーグー寝ている。シナコが風邪を引こうが、宿題のエッセイが途中から、踵でタイプした訳のわからない文字の羅列になっていようが、そんなことはどうでもいいけど、コンピュータが壊れるじゃない!!!

シナコは、1回や2回声をかけても起きない。優しくゆすぶるだけじゃ全然ダメ。おまけに寝ぼけるのだ。だから寝入る前に、何とかベッドに行くように仕向けないといけないのだが、不覚にも内職に没頭していた。大声でたたき起こしたら、夢遊病者のように、部屋に戻っていった。果たして、洋服のまま、歯磨きもしないで寝てしまった。朝になって、宿題が終わってない、どうして起こしてくれなかったのよ~と、騒ぐことも日常茶飯。

数年前のこと。床で行き倒れているシナコを起こして、「着替えなさい!」と言ったら、なにやら落ちていた雑誌を拾い上げ、ページを広げて、その下に腕を通している。ページを繰っては、また腕をその下に。
「何してるの・・・?」
「・・・・うん・・・着替え・・・・」
思わず大爆笑したら、とうとう我に返って、「???」という顔をしていた。

一体何歳まで寝ぼけるつもりか。

ところで、この友達に、「ねえ、ブログ読んでくれてる?」と聞いたら、
「だって、長いねんもん。」

そやなぁ、もっと短く笑わしたいねんけど、なかなか難しいんよね。

あ、ついでに今朝の話。目が覚めたら8時24分。
びっくりして、シナコの部屋に。
「シナコ、ごめん! 8時24分! 目覚しならなかったみたい!」
「・・・・・」
「起きてよ、大変!」
「・・・ママ、今日、土曜日だよ・・・」

さすがの母子。

2007年11月1日木曜日

グリニッチ

結局、昨日は全部で2組、合計4人の子供・・・と言っても高校生くらい・・・が、お菓子をもらいに来ただけだった。残りのお菓子は、さぞかし私の想像妊娠に貢献してくれることだろう。

シナコは袋一杯のお菓子を満足気に抱えて帰宅。
「ほんまに、えー加減な恰好して回ったんでしょ?」
「えーかげんじゃないよ。オレンジのシャツに枕を入れて、髪の毛に緑のリボンをしてかぼちゃになった。アレックスは黄色の洋服でバナナ、他の子が赤いTシャツに枕を入れて、緑の葉っぱをフェルトでつけてりんご、あと2人がグリーンの風船と紫の風船を身体に一杯つけてブドウ。」
「そんじゃ、あの後必死になって変装してたわけ?」
「そうでもない。10分で終わった」
・・・10分で。やっぱりええ加減な変装のような気もするが、変装しないでお菓子だけもらいに来る子もいるから、まあ頑張ったか。

ところで、さっき郵便局に出かけた。常々感じていることだけれど、つくづくこの辺りは外車が多い。どこの家でも少なくとも1台は外車。日本車も走っているが、レクサスかアキュラ。あ、オデッセは、案外多い。

今日も、帰る道々、交差点で止まるたびに対向車を見たら、ベンツかBMWかアウディーかレクサス。私は、友達から譲り受けたカローラ。この車で迎えに行くと、見栄っ張りのシナコは、「オデッセで来てよ!」と言う。

ガソリンが高騰している中、近所をうろつくにはオデッセはガソリンを食うのだ。郵便局へ行ったり、買い物したり、シナコの送り迎えにはカロ子ちゃんがうってつけなのだ。

実家の芦屋に帰ったときも、いつも外車が多いなーと思う。それでも芦屋の方が市民の層の幅が広い。芦屋じゃ小市民でも、この辺りじゃ極小市民。そして極小なのは日本人とほんの一部の人々で、他は富豪ばかり。

彼らには私大の授業料なんて、簡単に支払えちゃうんだろうなぁ~、と、私はまたしても学費のことを考えている・・・。タメイキ。

2007年10月31日水曜日

ハロウィーン

今日はハロウィーン。

シナコは、間際になって、友達の家に、ありあわせの洋服を持って出かけて行った。ちらっと見たらオレンジのセーターに黒いスカートか何かをバッグに詰めていた。あれで何になるつもり? えー加減なコスチュームで、お菓子のみを目当てに回るつもりらしい。

で、私とジョダコだけが、ひっそりと家に取り残された。私の方も、それほどやる気なし。夕方にスーパーで一応お菓子を買って、今は外灯を灯し、家の中には幾つもキャンドルをたいて、にわかに前向きになったのに・・・。

何なんだ! もう7時を30分も回ったと言うのに! 来たのはたった一組だけ! しかも斜め向かえのシナコの同級生とその友達。
こういう行き止まりの小さな通りは、効率が悪いから、子供たちも心得たもので、家が密集したところにしか行かないのだ。それでも去年は20組は来たのにな・・・。

ああ、またお菓子が売れ残る・・・。

親子とも熱の入っていたリヤドやカリフォルニア時代が懐かしいな~。

2007年10月30日火曜日

フランス - 大学事情6

シンガポールの友人が、キニコを送り込まれては大変と、「フランス語やりたければ、フランスに行けばいいじゃない」と言って、何とか矛先をよそに向けようと、焦ったメールを寄越した。

フランスの大学に入れるくらい、フランス語は出来ないよ。
でも、この際、一応学費状況は調べてみるかと、いろいろと検索した。

わかったことは、さすが社会主義が浸透した国だけあって、大学の学費は殆ど無料! 払っても100とか200ユーロとからしい。(これでも学費が値上がりしたと、大学生がデモしたとか。)もちろん、これはフランス国民の話。

そこで、留学生は幾らぐらい払うのか、あちこち調べたけれど、とうとうはっきりとはわからなかった。
パリ大学の北キャンパスって言うのか、Universite Paris -Nordというところのサイトで、外国人学生からスタートして、徐々に質問に答えて、最終的に申し込みに何が必要か・・・までは出たものの、実際の数字にはお目にかかれなかった。

質問も、学士か修士か博士か、から始まって、フランス国内の高校を卒業しているか、フランス語の検定試験を受けているか・・・などなど、多岐にわたっていた。答えによって、次の質問が出てきて、段階的に知りたい情報にたどり着くようになっている。

留学生としては、EU圏内や、旧フランス領のアフリカからの学生を想定しているのだろう。恐らく彼らの授業料は低く設定されていると思う。もしかするとフランス国民と変わらない可能性もある。

非フランス語圏からの語学留学でないパリ大学への正規の個人留学生はかなり少ないのだろう。私が最終的に行き着いたところは、特定の申し込む書を請求するサイトだった。フランス語検定の結果と卒業証明は必要なようだ。

個人でパリ大学のソルボンヌで勉強する方法はあるようだ。しかし、これも直接大学に行って、申し込みをする。行って見なければ、どのコースに空きがあるか、どのフランス語特訓コースに入れるかわからないようだ。でも、ソルボンヌでオファーされる授業は取れるらしい。授業料は単位ごとに支払うようで、200から2300ユーロと、あるジャーナルストが書いていた。短期ではいいけれど、長期はビザの問題もあるから、複雑そう。住む所も個人手配だ。

アメリカからの留学はたいていがフランスの大学とアメリカの大学で提携している「交換留学」の形になる。この場合は、ビザもちゃんと発行されるし、フランスで取得した単位もアメリカの大学の単位となる。レジデンスはきちんと確保されているが、学費はアメリカの学校に支払うため、年間の費用は上がりも下がりもしない。まあ、休みごとに帰省してこない分安くなるだろうが、どうせ、「せっかくだからXXに旅行したい」などと言って来て、さらに負担が嵩むのは目に見えている。

淳ちゃん、悪いけどやっぱり、キニコはシンガポールだな。よろしく!

2007年10月29日月曜日

カナダ - 大学事情5

カナダの学校も、キニコの志望校リストに入っていた。未だに入っているのかどうかは知らないが、カナダドルが強くなってきた最近でも、居住州外のアメリカの州立大学に行くよりは安い。(ちなみに、本日のレートは1CAD=120.54、1USD=114.19)

下記は、カナダでも有名なトロント大学(オンタリオ州)とマギル大学(ケベック州)の、2008-2009どの文系学部の学費である。

<トロント大学>
カナダ市民・永住権保持者 CAD5,836 (USD5,594)
留学生             CAD18,906 (USD18,121)
食事つき宿舎         CAD8,400~12,278
(カッコ内のUSDは、トロント大学のウェブサイトの数字。USDで支払うオプションもあるのだろう。)

<マギル大学>
ケベック州民          CAD1,768
州外市民・永住権保持者   CAD5,140
留学生             CAD14,700

マギルの寮費は見つけられなかったが、トロントの範囲と変わらないだろう。
キニコはフランス語の勉強を続けたいと言っているから、ケベック州のマギルがいいじゃん! シンガポールがだめなら、カナダだ! ・・・入れてもらえたらだけど。

(ちなみに、キニコが大学で勉強したい科目は、フランス語と生物。なんで、こんな全然かけ離れた科目なの・・・。将来はパスツール研究所でアフリカの病原菌でも研究するか?)

お金で大学を選ぶのは悲しいけれど、これが現実。払える範囲内で選んで欲しいよ、本当に。

じゃあ、どうして比較的安い日本が選択肢に入らないの?という疑問の声が聞こえそうですね。
パパは残念そうだが、どうやらキニコの選択肢には、日本は全く入っていないようだ。本人が日本や日本語に興味があれば、大学の4年間で、なんとかまともな日本人に戻ることも可能だと、私は思っているけれど、興味がない限りは中途半端に終わりそうでもある。キニコ自身は、もはや日本語で勉強をする自信はないらしい。4年前に今の学校を選んだ時に、将来は、アメリカの大学に行く、つまり英語で勉強を続けていこうと、決心した訳で、それ以降、彼女の考えは変わっていない。

キニコが終わっても、あと2年後にシナコが控えていると思うと・・・。シナコはパパの願いどおり、素直に日本の大学に行ってくれるでしょうか・・・。

友人2

頭が$$$$になり過ぎて、少し疲れたので、ここらでまた私のお友達を紹介しよう。

その名を、Cちゃんと言う、マンハッタンに住む彼女とは、ウン十年来のお付き合い。大学生だった頃、KDDのオペレーターという、とても待遇の良いアルバイトをしていた。当時は、国際電話はKDDの独占市場。電話代も今とは比較にならないほど高く、それゆえ家から直接電話をかける人も少なかった。間違い電話だったり、相手が出るまでに時間がかかったりしても、すべてが電話料金に跳ね返るからだ。

記憶があいまいだけれど、当初はアメリカへの直通電話(単に番号を繋ぐだけ)で、3分間、3400円くらい、指名通話で5400円くらいしていたように思う。それも私がオペレーターとして仕事をしていたわずか3年間に、どんどん安くなっていった。最終的には、直通で1000円台、指名で3000円台まで下がったようにに思うけれど・・・。今、ネットで当時の国際電話料金を調べたけれど、出てこなかった。誰か、覚えていない?

ついでに、もう少しKDDのバイトの話をすると、当時KDDは独占がゆえに儲かって儲かって仕方がなかった。そこで、私たちアルバイトの身分も、「短時間制職員」と言うもので、ちゃんと厚生年金手帳ももらい、会社の福利厚生施設も、社員と同様に利用できた。毎年ひとつ配ってくれた、中に乾パンや非常時のグッズが詰まった銀色の「非常袋」。嬉しがりの私は、お出かけ時の鞄に使っていたっけ。あと、年に1-2回、レクリエーションと称して、高級レストランでご飯が食べられたり、ハイキングがあったり、六甲山荘でお泊りしたり・・・。

私の就業時間は午後8時から12時。別に9時から午前1時というシフトもあった。3日制と5日制のアルバイトがあり(6日もあったっけ?)、私は月水金の3日制。お給料も普通のバイトより全然良いので、学生のみならず、今で言うフリーターのような人もいました。今のフリーターと違うところは、彼らは昼間は、司法試験や弁理士になるための勉強をしていたな。また、昼間は別の仕事をしている人もいました。

深夜に仕事が終わるのだが、帰りは全員タクシー。相乗りだったけれど、楽チンでした。

C ちゃんとは、入社の時期は少しずれていたし、シフトも違っていたように思うけれど、休憩やレクリエーションで一緒になって、仲良くなった。確か90分に1回の休憩があったので、1日2回は休憩。休憩は15分だったっけ? そうそう、会社にはお風呂も食堂もあったので、クラブを終えて来る学生や、下宿にお風呂がない学生は、KDDをもっぱら銭湯代わりにしてたよね。私も時々お風呂に入りました。結構立派な浴場だったと思う。

まあ、類は友を呼ぶって言うか、お互い英語が好きだし、アメリカが好きだし、ってことで仲良くなり、一時は一緒に教会にも足を運んだね。カナダから宣教師が来ていて、彼らと話すのが楽しかった。

私はKDDのほかに、ポスターの輸入をしている小さな会社の輸入事務兼社長秘書みたいなバイトもしていた。大学を卒業するに当たり、このアルバイトの後任として、Cちゃんを紹介。

私がパリに駐在になった年、彼女も日本での仕事をやめて、ニューヨークの大学に留学することになった。アメリカに渡るとき、パリ経由で、私のパリのアパートに1週間ほどいたっけ。その時ヴァレリーにも紹介した。(今月Cちゃんはパリに旅行に行き、そこでヴァレリーとマリアに会った。私はまだ1度もマリアに会ったことないのに!)

以来、彼女は日本に戻ることなく、ニューヨークで結婚し、現在に至っている。これまでは、殆ど手紙やカード(電子革命以降はEメール)のやり取りに加え、お互いが、アメリカや日本にいるときに、2年に1度会う程度だったけれど、去年8月に私がコネチカットに来てからは、2週間と空けず、会っている。

私がモントレーに留学したのは、実は彼女がきっかけ。彼女は私が入学する1年前にこの学校を卒業した。

私がここにCちゃんのことを挙げようと思ったのは、実は、Cちゃんと言うよりは、ご主人のMのことを紹介したいと思ったから。とにかくスゴイ人物だと思う。いろんな意味で。

CちゃんがMと出会ったのはNYCに到着して直後。彼らは私と夫が結婚した翌年に結婚したが、当時Mは60歳を越えていた。Cちゃんのお父さんよりも年上。私もびっくりしたもん。実は、その前年だったかな、イギリスにいるもう一人の友人が、55歳の男性と結婚。その時もびっくりしたけれど、Mはそれより10歳近く年上だったから。結婚するって聞くまでは、Mと付き合っていることは知らなかったように思う。確かずっと「下宿先のオジサン」という風に聞いていたよね?

最初は面食らったし、お金持ちのMだから、Cちゃん、お金に目がくらんだの・・・と思わないこともなかった。でもあれから、ウン十年。オシドリ夫婦の2人を見ていると、本当に幸せそうだ。

驚くのは、Mのバイタリティー。とにかく、寸暇を惜しんで何かをしている。とっくに仕事は辞めているけれど、彼が何もしていない時って全くない。ニュースレターを発行したり、本を書いたり。流石ユダヤ人だけあって、絶対に無料ではくれないけれど。真面目な貢献者の私は、ちゃんとニュースレターも購読したし、彼の著作も何冊か買っています。但し、内容は、面白い。語彙が豊富だから、辞書引かないと読めないんだけれどさ。

とにかく元気で、年に何度も旅行に出かける。ホテルや食事にはお金は惜しまないのに、飛行機のビジネスクラスにお金を使うのはもったいないと、いつもエコノミー。身長も体重もそこそこあるし、あのエコノミーで国際線はしんどいんじゃないかと思うのだけれど・・・。

NY市内でも、いつも地下鉄とバスを利用している。流石に85歳の今年は、ちょっと背中が痛かったり、肩が痛かったりで、医者通いをするようになっているけれど、でも、やっぱり世間の85歳と比較すると元気元気です。

頭がいいだけに、頑固者でもある。こうと決めたら譲らない。それを上手に操作しているのがCちゃんなのだ。いつもMを立ててながら、でも何となく上手に舵取りをしているかな。

最近Mは、こんなことをよく言う。「Cに料理を習えと言ってるんだ、俺が死んだら、どうやって食べていくか心配だから。」

この2人。ほんの数年前までは、毎日、昼と夜を外食していました。本当に毎日だよ! しかも、どちらの食事もしっかり食べるの。朝ごはんも、コーヒーだけなんてことなく、しっかり。

そう言えば、うちの娘たちは、未だに10年以上前に彼らの家に泊まった翌朝にMが用意してくれた朝食を忘れていない。確か、ベーグルにスモークサーモン、シリアルにはブルーベリーやラズベリー、ヨーグルトに、フレッシュオレンジジュース・・・。何たって晩御飯にシリアルを食べているような私たちだから、子供は「すっごーい!」と感激していた。でも、私は、リビングの床のペルシャ絨毯をシナコが汚すのではと、はらはらしていたんだ。

ここ数年は、ようやく1日2回の外食に疲れ、お得なメニューがあり、比較的混まないランチを外食にし、夜はずっとMが料理。私も何回か夕食を一緒にさせてもらったけれど、結構おしゃれなものを作ってくれます。

で、先のMの発言となるわけです。
先週、ランチを一緒にしたときは、最近はCちゃんが時々料理を一緒にしているとのこと。
「Cは、俺が死ぬ話をすると嫌がるんだよ。」
私は、自分もいつ死ぬかわからないし、これだけは娘に知っていて欲しいってことがあるから、一応遺書は作成した。まだプリントアウトして署名してないけれど。
「そうだよね、準備しておかないと、いつ誰が死ぬかは、これだけはわからないもん。私は、お葬式はして欲しくないし、お墓も建てて欲しくない。だって、お金かけたくないし、娘が墓の守をするために、どこに住むかわからないのに、遠路はるばるそのために来なくちゃいけないというのは気の毒だから。」と言うと、
「俺は、火葬してもらうことになっている。で、散骨してもらう。」
アメリカでは、確か高温で焼くから、骨は残らずに灰になる。(日本の場合は、一旦骨になったのを砕くらしい。)
「でも、Cが希望するなら、家に持って帰ってもいいし・・・。」
「そんなん、持って帰って、邪魔にならへん?」
「アパートの窓からNYCに撒いてあげよか?」
「でも、外から風が拭いて、アパート中に灰が散らばったりして」
「そしたら、掃除機で吸うわ。」
「どうせ、掃除機の後ろから一杯出てくるから、家中Mだらけになるなぁ・・・」
三人で大爆笑しました。

私の目にはMは、まだまだ長生きしてくれそうです。案外私たちの方が先かもって思うくらい。

つい最近、Mは本を2冊続けて出版しました。
私はそのうち1冊しか読んでいないけれど、面白かった。2日で読んじゃった。内容は、賛否両論ありそうだけれど、エンターテイニングだと思うし、娘にも読ませたいと思う。(キニコに、読めばと言ったら、今はいいとすげなく断られた。ま、確かに今、学校で読むにはちょっと問題があるかな。教育方針が違うと、よその親御さんに、キニコからこんな本を借りた!と非難されないとも限らないからね。)

興味のある方は、Barns & Noble のサイトで、Womanizer, Knowing wonderful women で検索してください。

私は今、この本を翻訳させてもらおうかなって思ってます。乗り気じゃないCちゃんを無理やり誘って、一緒に。

シンガポール!? - 大学事情4

シンガポールに住む友達が、冗談で、「シンガポールにキニコを寄越したら?」と提案してきた。

シンガポールは、ここからは遠いから、万一そうなったら、休みの度に、キニコを彼らの家に転がり込ませればいいか! そうすれば、交通費は安く済む。日本も近いし。

シンガポールは、教育熱心な国として知られている。資源のない国だからこそ、人材がすべてなのだ。シンガポール国立大学は、かなりレベルの高い大学としても知られている。ただし、本当に優秀な学生で、家が裕福であれば、皆アメリカの大学に進学してしまうために、世界ランキングで見ると102~150位、アジアの大学で見ると10から18位の間になる。ちなみに、同列の大学としては、筑波大学がある。

ランキングの話は次回にするが、友達の提案に触発されて、すぐさまシンガポール国立大学の学費を調査してみた。そこでの大発見!!

な、な、なんと、シンガポールの政府は、この大学の授業料の大半を肩代わりしてくれるのだ!

2007-2008年度 <市民権・永住権所有者>  単位はシンガポールドル
               授業料全額  奨学金  負担額
文系             25,110    19,000  6,110
理系(医・歯を除く)    28,510    22,400  6,110
医・歯            97,020    79,500  17,520

これで驚いていてはいけない。シンガポール政府は、留学生に対しても寛大なのだ。

2007-2008年度 <留学生>  単位はシンガポールドル
               授業料全額  奨学金  負担額
文系             25,720    19,000  6,720
理系(医・歯を除く)    29,120    22,400  6,720
医・歯            98,770    79,500  19,270

これを米ドルに換算すると、概算の負担額は、文系と理系で、4,700ドル、医・歯で、13,489ドルなのだ!

但し、いい話には、必ず条件があります。

シンガポールとしては、優秀な人材を育てるだけでなく、やはり自国に貢献して欲しいと考えるのは当たり前。奨学金と引き換えに、下記の条件が課されます。

文系・理系の留学生は、卒業後3年間、シンガポールの企業で働くこと。医科・歯科の学生は、国籍に関係なく、卒業後一定期間、シンガポールの厚生省の下で仕事に就くこと。この一定期間は、医学生の場合は、市民・永住権保有者が5年、留学生が6年、歯学生の場合は、市民・永住権保有者が4年、留学生が5年となっている。

しかし、文系・理系なら卒業後、就職先が確保されているようなもの。オイシイ話だと思いませんか。

キニコは中国語を勉強しているし、もってこいじゃないの。上記には寮費が含まれていないけれど、そうだ、提案した友達に「責任を取って」もらおう。彼らの家に下宿させようじゃないの。よし、シンガポール国立大に決まりだ!と、早速キニコにメールを送った私でした。

・・・しかし、狭き門に決まってるよなぁ。それに、きっとキニコは、$$$の目になっている私の話には乗ってこないだろう・・・。

2007年10月28日日曜日

実際の授業料 - 大学事情3

では、具体的に、今の授業料が、各校で一体どのくらいなのか、代表的な数字を見ていこう。

まずは私立大学。学費はアイビーリーグであってもなくても、リベラアーツカレッジでも、そう大差がないので、取り合えず10校を選んだ。

            授業料   寮費
ハーバード     34,988  10,622
プリンストン    33,000  10,980
スタンフォード   34,800  10,808
MIT        34,986  10,400
ジョーンズホプキンズ 35,900  11,092
ボストンカレッジ 35,674  11,720
シカゴ       34,005  10,608      
NYU       35,283  11,780
ウィリアムズ   35,670   9,470
ウェルズリー   34,994  10,826

次は、州立大学の学費である。先に説明したように、州立の場合は、居住者と非居住者で、授業料が違う。寮費は同じである。

ちなみに、下記は、US News & World Report誌が、今年8月に発表した「ベストカレッジ」で、州立大学のトップ10にランキングした大学である。一番最後の<>の数字は、私立大学も含めた時のランキング。57位のオハイオステートと、64位のコネチカットもデータに加えた。カッコ内はキャンパス名。

            授業料(州内) (州外)    寮費
UC(バークレー)     8,384   27,452   13,848  <21>
バージニア        8,500   27,750    7,435  <23>
UC(LA)         7,034   26,102    12,420 <25>
ミシガン(アンナーバー) 10,341   30,154    8,230  <25>
ノースカロライナ(チャペルヒル)5,340   20,988    7,696  <28>
ウィリアム&メアリー  9,164   26,725    7,385  <33>
UC(サンディエゴ)   14,912   26,524  10,237  <38>
イリノイ(アーベイナ)   10,503   23,896   8,196  <38>
ウィスコンシン(マディソン)   8,808   21,438   7,574  <38>
オハイオステート(コロンバス)  8,565   21,177    7,365  <57>
コネチカット       8,842   22,786   8,850  <64>

上記のように、州立大学の方が、授業料や寮費にばらつきがある。

州外の授業料は、私学より5000ドル~1万ドル安いとは言え、それでもかなり高い。私学の方が資金力があるので、公立よりは援助金を出してくれる可能性がなきにしもあらずである。

それにしても、上の数字だけを見れば、正直言って、キニコの進学先は決まったようなものである。コネチカット州立大学に進学してくれたら、本当に楽なのだ。しかし、それしか選択肢がないというのも、日本の事情と比べると、ちょっとかわいそうな話である。

このアメリカの現状を、日本と比較してみよう。
下記は、現在の日本の代表的な大学の学費である。
先のグラフのデータと同様に、入学金の4分の1を授業料に加えた。国立は標準の授業料と4分の1の入学金、私学は、すべて文学部、もしくは文系の学部の費用で、4分の1の入学金のほか設備費を加えたものである。(ちなみに、国立大学87校のうち、学士で標準額と異なった授業料を設定した学校は全くなかった。つまり独立法人後も、一律授業料の状況が続いている。)

2007年入学
        授+入+設  ドル換算(1$=115円)
国立大学    606,300   5,272
慶応       898,650   7,814
早稲田    1,011,000   8,791
上智       972,250   8,454
ICU      1,392,000  12,104
同志社     888,500    7,726
津田沼    1,010,150   8,783
関学       924,500   8,039

こうしてみると、日本の私立の学費が、アメリカの居住者が支払う州立大学の授業料と大差ないことがよくわかってもらえると思う。

だからこそ、アメリカでは、家庭の経済的ニーズに基づいた援助金、ファイナンシャルエイドの役割が大きい。

大学のコスト - 大学事情2

前のブログのグラフの数字について説明しよう。

すべては私がかき集めた、平均の数字である。円からドルへの換算は1ドル115円として計算した。

まず、日本の数字から説明するが、ここには下宿費用や食費は含まれない。入学金の4分の1を、1年分の入学金として換算し、授業料に加えた。残念ながら、ここ数年の私学の平均費用のデータは、みつけることは出来なかったが、同じような推移を継続していると考えられる。

一方、アメリカの「授+寮」というのは、授業料に寮費(部屋代と食費)を加えた数字である。アメリカの場合は、殆どの学生がキャンパス内の寮に暮らす。その割合は、特に1-2年生では100%に近い。この食費は、学校に支払うキャンパス内での食費であり、外食は含まれていない。また、これ以外に、教科書代、文具教材費、交通費、小遣いが必要であり、カレッジボード(SATテストを行なう機関)の試算では、年間平均3500ドルとなっている。

3500ドルは一見高そうだが、多くの学生が自宅から離れて暮らすことを考えると、妥当な数字だと言えるだろう。現在キニコですら、交通費を除いて、年間の教科書・教材費とお小遣い(洗濯代、日用品を含む)で、年間1500ドルは使っている。これに遠距離の交通費が加わるのだ。

キニコが現在希望している幾つかの大学を想定して考えても、やはり飛行機かアムトラックでないと帰宅できない。感謝祭、クリスマス、春休みなどの長期休暇に帰宅することを考えると、交通費も馬鹿にならない。正直言って、帰って欲しくないのだ。

州立大学の授業料は、州内に居住する学生の授業料である。アメリカの場合、州外の大学にも入ることが出来るが、授業料は大幅に高くなり、州外の学生の費用を払う。尚、この金額は海外からの留学生でも同じである。

頭痛 - 大学事情1

このところ、私を悩まし続けているのは、大学のことである。キニコがどの大学に入ってくれるのか、それによって、私たちの生活が大きく左右される。

本来ならば出来るだけ優秀な大学に入って欲しいと望むところなのだろうが、私たちの悩みは、いかに経済的に、できるだけ我々にとって負担の少ない進学先を、キニコが納得して選んでくれるか・・・。

高校生活をプレップスクール、すなわち優秀な大学への進学を前提とする学校に行ってしまった(行かせてしまった)が故に、同輩たちと同様の進学を望むことが、娘にとっては、極当然のことなのだ。 私とて、キニコが今の学校に入った時点で、ここまで考えは及ばなかったし、また、あの時点から比較しても、事情は更に悪化した。

そんな現実的なことを考えるよりは、当時は、浅はかにも、「末はハーバードかプリンストンか」とさえ一瞬思ったのだった。

まぁ、そんな夢は、キニコがプレップスクールに入って間もなく、きれいさっぱりと崩れ去った。フランス語ではいきなりCは取るは、他も今までに見たことのないBのオンパレード。やはり上には上がいる。全国各地から集まった優秀な生徒たちの中で、キニコ自身、現実の厳しさを意識しただろう。あれから3年余り。キニコは何とか学校でも中の中というレベルは保っているものの、有名大学から、「無料でいいですから、是非我が校に来てください」というオファーが来るほどの成績もタレントも持ち合わせてはいない。

そんな中、キニコが望む進学先と、我々の経済的余裕の間に大きな隔たりがあり、非常に頭が痛い。勿論、ない袖は振れない。払えないものは払えないのだが、今の我家の一筋の望みは、一体どのくらい奨学金(経済的援助金)が出て、そのギャップを埋めることが出来るか。

しかし、データを見る限りは、殆ど望みがない。それでも温情に訴えて、どのくらい得ることができるか、それだけである。そして、それでも尚且つ支払えない場合、素直にキニコに理解してもらうこと。そこが一番頭の痛いところである。現実的には、キニコにあきらめてもらう可能性が、今のところは一番高そうである。

こうやって、文字を並べていても、なかなか今のアメリカの大学事情は、その場に身を置く者でないとわかってもらえないと思い、私が調査したデータをご紹介しよう。 下は、ここ30年間の、アメリカと日本の学費の傾向である。

ご覧のように、アメリカの学費は年々うなぎのぼりで、特にここ10年間の上昇は凄まじい。平均で私学は、1万ドルの上昇、州立でも3000ドル上がって倍額になっている。

日本の場合は、通常入学時の授業料がそのまま4年間保持されるが、アメリカの場合は年々上昇する。キニコの高校でも、入学時と比較すると、4年目の今年では、6000ドル上がった。

現在のキニコの学費は、奨学金(援助金)をもらっているものの、やはり我々にはきつかった。それでも今のままなら、青息吐息ながらなんとかあと4年間続けられるかも知れない。しかし、私立大学の費用は、遥かにそれを上回るのだ。

2007年10月10日水曜日

ガールフレンド?

久しぶりに気和に会った。ちょっと痩せていたように思う。
それとも、ボクの方が太ったのかな。最近、中年太りか、お腹のあたりが出てきたんだよね。
いや、お腹の出具合では、ママちゃんの横に並ぶものはいない。この前、妊娠したって言ったら、ボクもシナコも信じたもん。

久々に会ったのに、気和はボクのにおいを嗅ごうともしないで、綱でお母さんを引っ張ってる。
気和のお母さんは、
「ゴメンね。今朝東京から帰ってきたばかりで、しばらくちゃんと散歩に連れて行ってもらってなかったものだから、気和、ちょっと待って。」

「東京!?」
「そうなの。夏に主人が転職して。東京のドイツ銀行なの。一応2年契約で、気に入れば更新するかもしれないけれど、次女があと2年で高校卒業だから、それまでは私は行ったり来たりするつもり。」

この家族とは、ボクを通じて知り合ったのだ。

ここに引っ越して間もなく、キニコがボクを散歩していると、向こうからボクそっくりな奴がやってきた。ボクは今までそっくりな奴に会ったことがなかったので驚いた。向こうも、初めてそっくりな奴を見るみたいだった。

向こうのお母さんが、「ラットテリア?」と、声をかけてきた。
それがきっかけで、仲良くなった。

ボクは、あいつの名前が「気和」なんて、超日本的なのに驚いた。アメリカ人の家族なのにさ。漢字まであてがわれちゃって。
気和は、アンタだって日本人に飼われているくせに、ジョーダンなんて、ハイカラな名前つけられちゃってさ、と言いたげだった。
気和の家族はお上品な感じで、この近くの大きな家に住んでいる。お父さんはアメリカ人だけれど、早稲田に留学していたらしく、家族で10年近く東京に住んだことがあるんだってさ。娘は2人とも結構日本語が話せるらしい。

「エリカがバレーボールの試合や練習で、帰宅が遅かったから、殆ど散歩に行ってないのよ。」
「あ、この前、バレーボール部で、洗車やってたでしょ。エリカちゃん、見たよ。」
「そうそう、オールドグリニッチで・・・わかった、わかった、気和」
気和が、うるさく催促するものだから、お母さんもママちゃんもおしゃべりをあきらめることにしたみたい。

2007年9月28日金曜日

友人1


私にはユニーク、あるいは著名な、あるいはその両方の友達や知り合い、知り合いの知り合いというのが比較的多い。


昔、同僚たちと知り合いの知り合いも含めた、「有名人自慢」というリストを作成したところ、ダントツで私が一番だった。(って言っても、参加者は私以外にはひとりだったけどさ。) このリストのルールは、どんなしょうもなくても、その有名人とちょっと関わりがあればOKだった。


私のリストの中には、今井美樹、岸恵子、もんたよしのり、萬田久子、トミースナイダー(ゴダイゴ)、舘ひろし・・・なーんて名前もあったのです。勿論、向こうは私のことなんか多分ぜーんぜん知らないか認識していないでしょ。(今井美樹は私の友達の従妹で、舘ひろしには「英語、お上手ですね」と言われたことがあった。)


そんなことは、さておき、私のユニークなお友達を少しずつ紹介していきましょう。


トップを飾るのは、私のフランス人の親友ヴァレリーちゃん。彼女とはパリで知り合った。当時私が勤めていた会社で働いていた。私より3歳くらい年下だったが、ずっと大人びていた。逆に、私は超子供に見えたので、二人でレストランに入った時に、「ボンジュール、レゾンフォン」(こんにちは、子供たち!)と言われて、「あんたがいるから、子供って言われた!」と憤慨していた。(あんたが老け顔なんだよ!)と、私は心の中で毒づいた。


ヴァレリーは、今で言う日本オタク。ソルボンヌ大学で日本語を専攻した後、日本は名古屋に留学。と言っても、昼間、語学学校で学ぶ傍ら、夜はバーで接客。殆ど実践的な日本語はこの夜の稼業を通して学んだという。お陰でヴァレリーの日本語は、名古屋弁。「~だで」というのが口癖で、私にもうつって、パリで私たちが話していた日本語は、「あかん、あかん。〇〇だでー」ってな調子だった。


ヴァレリーが会社で日本語を話すお陰で、私のフランス語はちっとも上達しないというのが私の不満だった。ある時、お役所に行かねばならない仕事があって、「私がいると上達しないって言うんだったら、ひとりで行ってくれば」と突き放された。よし、ここぞ、と頑張ってひとりで出かけたのだが、例によって例のごとく、お役所の中で、たらい回しにされ、結局目的は果たせず。事務所に戻って悔し泣きして、ヴァレリーに慰められたこともあったっけ。


会社ではライバル的存在でもあったのだけれど、夜は2人でよく飲んで遊んでしゃべった。お互い一人暮らしで、アパートが歩いて5分しか離れていなかったこともあり、ワインとお惣菜を買い込み、しょっちゅうどちらかの家で、飲んだり、そのまま泊まったりした。一緒に出かけて、家についてから電話でぐだぐおしゃべりし、気がついたら受話器を握り締めたまま、朝だったってことも。


2人の会話? 勿論関西弁と名古屋弁のちゃんぽん。1年後にヴァレリーが別の会社に移るまでは、私は殆どフランス語を話す機会がなかった。ヴァレリーが移ったきっかけのひとつも、私がこのままじゃフランス語が上手くならないと文句を言ってたからなのだけれど、明らかにヴァレリーのせいではなかったことは、後にしっかり証明されましたね。


ヴァレリーのアパートにはシャワーしかなく、冷蔵庫も洗濯機もなかった。フランスの家には通常ビデがついている。ヴァレリーは、「ビデって本当に便利!」と言って、家に帰ってまず、汚れた足をビデで洗い、その後ビデに水を張って、買ってきたワインを冷やし、寝る前には洗濯物をビデでつけ置き洗い。当初は、ぎょえっと思っていたけれど、慣れると「便利」と思えるのが不思議だ・・・。


ヴァレリーには、娘がひとりいる。この秋、娘のマリアが入学。嬉しそうに送ってきたマリアの背中には。


相変わらずのオタクぶり。夏休み、マリアを連れて日本に行ったらしいが、どうやら2代目オタクの誕生らしい。(ちなみにヴァレリーは現在、会社を興し、日本の顧客を相手にビジネスをしている。)

飛行機4

私はブラックベリーという携帯を使用しているのだけれど、これは通常のEメールを携帯上で見られる機能があるため、アメリカのビジネス人の多くがこれを使用している。

夫も例に漏れず。お陰で、いつでもどこでもEメールが確認できることから、24時間7日間、仕事から逃れることが出来ない。

かく言う私も、ブラックベリーを枕元で充電しながら、朝は目覚ましにも使用。目覚めると同時に、メールをチェックしたりして。

今朝も6時に目覚ましが鳴った。眠たくて、眠たくて・・・とりあえず、目覚ましを止めて、後5分、再び眠りにつこうかと思いながらも、一応メールをチェック。

すると、「コネ通」にアラレちゃんからの投稿あり、とお知らせが入っているじゃないか。ブログの設定で、誰かから書き込みがあると、メッセージ・メールが送られてくることになっている。

早速、そのコメントを、眠さのあまり、半分しか開かない目で読んだ。
アラレちゃんのコメントは、ブログの投稿欄からも読めるけれど、敢えて下に掲載します。

「飛行機つながりで、先日こんなことがありました。 出張で伊丹から羽田まで飛行機に乗ったところ、その便の羽田到着が遅れてしまいました。 到着時のアナウンスで「本日は羽田到着が遅れたことお詫びいたします。 なお、羽田空港からお乗り継ぎのお客様で、関西空港にご出発のお客様、出発の時間が迫っておりますので、地上係員へお申し出下さいませ。」と言ったの聞いて、私は、「いま伊丹から来てんで、何が悲しくて関空便に乗り継がなあかんねん」と思ったのでした。(これって機内での何らかの隠語なのかなあ?) 」

もう、おかしくて、おかしくて、ベッドの中で大笑い。一気に眠気が吹き飛んだ!
あんまり面白いから、横で寝ている夫に、
「ねぇ、聞きたい? 聞きたい? めっちゃおかしいねん」
「・・・えぇ・・・別に・・・」と、迷惑そう。
「えー、でも、面白いでぇ。ねぇ、聞いてよ、聞いてよ。」と、強引にコメントを読み上げる。

夫は眠たいし、絶対に笑うもんかと硬く心に決めて聞いていたに違いないが、やっぱり不覚にもブッと噴出してしまっていた。

なんやこれ!ほんまにこんなことあるわけ。これがジョークだったら、日本も粋な国になってきたなぁって話になるのに。それとも、アラレちゃんが言うように、「テロリスト出現」かなんかの隠語やったりして。

しっかし、おもろい。朝からくすぐられて、今日も楽しい1日になりそうや。

2007年8月16日木曜日

飛行機 3

[ラガールディア2]

フランクフルトから帰った翌朝、キニコがオハイオに遊びに行くので、ラガールディアに送りに行くことになっていた。

しかし私が夜に家に帰ると、間もなく航空会社から電話があり、翌朝のキニコの便はキャンセルになったとのこと。その日私も、着陸してから2時間、ルフトハンザの機内で待たされた。空港のシステムがダウンしたとか。きっとその影響でのキャンセルだろう。

夜の便に変更したと言われたが、オハイオ到着が夜中になるので、1日遅らせて、朝の便に変えてもらった。

翌々日の朝のこと。6時半に家を出て、7時に空港に到着、まずはキニコを降ろして、私は駐車場へ。出発時刻は8時半なので、十分に時間はある。車を停めて、キニコのところへ戻ると、すっかり手続きを済ませていると思っていたのに、なぜかまだ長い荷物のチェックインの列の後ろに並んでいる。

「なんで、イージーチェックインしなかったの?」

「やったんだけれど、出来なくて、係りを呼んだら、『便が変更になっているから、ここでは出来ない、こっちに並べ』って言われたの。」
私だったら、便が変更になったのは、そっちのせいでしょ。さっさか、チェックインさせてよ、と交渉するところだが、娘は素直に長い列の後ろに並んだらしい。

暫く待って、ようやくカウンターが目の前に現れた。
「ま、出発は8時半だし、時間はあるね。」

「ママ、何を言ってるの。8時のフライトだよ!」

ぎょえ。時間を勘違いしていた。でも時計を見たら7:25。
大丈夫、ぎりぎり間に合う。

すると、キニコの順番。

「このフライトのチェックインは、もう締め切られました。次もその次の便も満席ですが、とにかく次の便にスタンバイしてください。」

えーっ?!

なんでだよー。自分たちが遅延するときは、幾らだって乗客を待たせるくせに、こっちがちょっと遅れただけで、締め切りだとぉ?

「だって、まだ35分あるんですよ!」
「でも、2時間前に来ることになっています。」
「そんなこと言ったって、あっちに並んでたら、こっちに並べって言われて、1時間前にはここに居たのに!」
「でも、2時間前には来ることになっています。」

「自分たちが遅れるときは・・・。」 ううん、そんなことを言っても始まらない。「どうせスタンバイするなら、この便にスタンバイさせてよ!」

「あなたは、どなたですか? あなたが乗客ですか?」
「私は、この子の母親です!」(こんなときだけは、母親面をする。でも「母」という言葉に、結構アメリカ人は弱い。)

「35分あって、乗れないなんて絶対におかしい!」
「静かにしてください。静かにしなければ、港湾局員を呼びますよ!」
空港は港湾局の管轄で、ここでは警察の役割も果たすのだ。

「むむ。分かったわよ。静かにするけれど、ひとつだけ質問させて。」
「どうぞ。」
「この子の席を、他の乗客に与えたでしょ?」
「いいえ。」
「じゃ、まだ空いているって言うの?」
「そうです。」

大嘘つきめ。絶対にダブルブッキングしていたに決まっている。私が前夜なまけて、自宅からのチェックインをしなかったから、今朝の段階ではもう席がなかったのかも。しかも、キニコのチケットは私のマイレージで取った無料の航空券だし、優先は低いに決まっている。

煮えくり返る腹を抱えて、しかたなく引き下がった。とにかくキニコはスタンバイすると言うので、セキュリティーに向った。スタンバイする場合は、乗れるかどうか分からないので、預ける大きな荷物も持ったまま、セキュリティーを通らなければならない。

キニコは預けるつもりだったので、ローションや洗顔石鹸、歯磨き粉やシャンプーなどの「液体」を、大きなボトルのまま鞄に詰めていた。それらは全て没収となるはずだったが、セキュリティーのお姉さんが優しい人で、「これは、ここに置いておいてあげるから、乗れなかったら戻っておいで。」と言ってくれたそうな。キニコが、「母が空港にいるので、渡したい」と言うと、キニコはもう外には出られないので、お姉さんが自ら、私に手渡しに来てくれた。あー、なんと心温まる話でしょう。

次の便、その次の便まで待って、それでも飛べなかったので、あきらめてキニコは帰ることに。

その間、私はずーっと空港で待っていた。フードコートのプラスチックの硬い椅子に腰掛けて、コーヒーを2杯。お尻が痛くなった。ブックストアを見つけて中に入る。革張りの椅子があるではないか! よし、本を買って、ここで読もう。色々選んでいると、気に入った本が3冊もあって、50ドル近く使ってしまう。ようやく革張りの椅子に腰掛け、リラックス。キニコの様子を探ろうと、携帯を取り出すと、あれれ、ここは電波が届かないじゃないの!

仕方なく柔らかな椅子をあきらめて、再びフードコートの硬い椅子へ。本を読む。でも、どうしてもお尻が痛くなって、お腹は空かないけれど、昼時だし、隣のレストランへ。皮のソファーに腰掛けて、食べたくもないピザを注文。少し手をつけたピザがすっかりさめた頃、キニコから「もう、あきらめた」と電話。

さて、帰ろうと駐車場から車を出すとき、あれれれ・・・、駐車券がない。携帯を出し入れしたときに、落としてしまったみたい。出口で、「失くしました」と言うと、超嫌な顔をされた。当然、最高額の30ドルを支払うことに。でも単に罰金を払うだけじゃ足りないみたいで、免許書や、車の名義証書まで提示しなければならない。手続きに時間がかかり、列を成した後続の車にクラクションを鳴らされる。すみません・・・。

30ドルは悔しいけれど、空港には7時間居たわけだから、まともに駐車代を払っていても24ドルだった。よし、殆ど元は取っている、と、悔しさ半減。

しかし腹が立つなぁ。飛行機に乗れないお陰で、駐車場30ドル、本50ドル、コーヒー10ドル、ピザ20ドル、と散財させられたのだ! 

「そんなの、飛行機のせいじゃないじゃない。だいたい、もともと、ママが30分間違ってた訳だし。」
7時間も待ってあげた優しい母に、娘は手厳しい。

(翌朝、夫の運転で、無事に娘はオハイオへ飛び立ちました。めでたし、めでたし。)

飛行機 2

[フランクフルト]

空港のセキュリティチェックが随分と厳しくなって、X線の手荷物チェックを受けるに当たって、コンピュータは鞄から取り出し、液体は、大きい容器のものは没収されるから、小さい容器に入ったものだけをまとめてジプロック(チャック付いたビニール袋)に入れて、やはり鞄の外に取り出す。自分も靴とジャケットを脱いで、ベルトも外して、チェックポイントを通る、なんてことはもう慣れっこになっていたものの、フランクフルトからの帰りのセキュリティーチェックには、たまげた。

フロリダで休暇をちょっと楽しんだ後、急にフランクフルトでの仕事が出来て、直接出かけたのだが、その帰りの話。

アメリカ国内では、いつも手荷物でOKだったキャリーオンバッグが、「大きすぎる」と言う理由で、ルフトハンザでは持込みが許してもらえない。
「えー、今までずっとキャリーオンでOKだったんですよ。アメリカの航空会社とは違う基準なの?」
「多分。」
「えー。それに、これ、クルー用バッグの規格で、ほら、ほら、あそこのクルーも持ってるでしょ?」と食い下がった。
「でも、あなたは、クルーじゃないでしょう。」
ごもっともで・・・。

渋々、預けることにしたけれど、
「あなたはラッキーよ。今日はエコノミーが満席で、ビジネスにアップグレードされました」と言われて、すっかり機嫌を直した。(やっぱり粘り勝ち?)

で、ゲートに赴くべく、セキュリティーを通る。セキュリティーは長蛇の列。でも私はビジネスだから、みんなよりはずっと短い、別の列に並ぶ。るんるん。

しかし、これが遅々として進まない。勿論、エコノミークラスの列も全然進まない。30分ほど並んで、ようやく自分の番になって、謎が解けた。

コンピュータや液体を外に出し、ジャケットを脱ぐのは、いつもと同じ。ベルトと靴はなぜか、着用したままOKだったけれど、時計は外さねばならない。でも、これがノロノロの原因ではない。

問題はコンピュータ。X線を通ったコンピュータは係員が取り上げ、持ち主が荷物をまとめ、身づくろいするのを待って、別室に連れて行かれる。

そこで、コンピュータの周りの「火薬チェック」が行われるのだ。小さな布をつけたプラスチックの棒で、周りを拭いて、その布だけを特殊な機械に通す。

ビジネスやファーストに乗るビジネスマン・ウーマンは、たいていコンピュータを持っている。故に、どうしても時間がかかる。だいたい、とっくにボーディング時間になっている乗客が殆どなので、あるオジサンは大声で怒鳴りだし、警察に取り囲まれていた。

やっとこさ、セキュリティーを抜けて、出国手続きをする。さて、ゲートは、と見渡すと、ゲートがない。私のゲートを指す矢印の先には、セキュリティーがある。

あれれ、間違った入り口から入ったのかな? 仕方なく、「ゲート28には、どうやって行くのですか?」と尋ねると、「このセキュリティーを通るんだよ。」
「え、だって今さっき、セキュリティーを通ったばかりです。」
「もう1回あるの。」
えー??
 
てな訳で、コンピュータの火薬チェックを除いては、全て同じ手順で再びチェックを受け、ようやくゲートか、と思いきや、その前に再び改札みたいなものがある。航空会社のお姉さんたちがが、乗客のパスポートとボーディングパスを再度チェックしている。

むずむず。
どうしても質問したくなって、聞いてみた。
「ひょっとして、この先のゲートは全部アメリカ行きの便だけ?」
「そうです。」

なぁるほど。アメリカ政府から、「1人たりともテロリストを入れるな!」と厳しく言われて、真面目に対応しているんでしょう。

ゲートに到着したときは、既に出発時間を過ぎていた。でも案の定、遅れている。
私は、無料の飲み物と食べ物にありつこうと、フルトハンザのビジネス用ラウンジに向ったのでした。るんるん。

飛行機 1

昨今は、飛行機の遅れなんて日常茶飯事。遅延もなく、ハプニングもなく、まともに飛んで着陸したら、ラッキー!と思わずにいられない。いや、記憶にある限り、全てスケジュール通りに行ったことなんて、ここのところないなぁ。

と言うわけで、飛行場でのエピソードなんて特筆するほどのこともないけれど、それでもちょっとユニークだった体験を綴りましょう。

[ラガールディア1]

マイアミへ出発する際のこと。空港に着くと、空港の入り口からカウンター前まで、人、人、人で埋まっている。あれほどの混雑は、今までに体験したことがない。まるで感謝祭前の空港のような混み具合。

で、すぐ近くにいた女性に尋ねた。
「はて、今日って、なんか特別の週末でしたっけ?」
「さぁ・・・どうしてこんなに混んでるんでしょうねぇ」と彼女も首をかしげる。

すると、隣にいた男性が、「昨夜の飛行機が、天候で全てキャンセルになったんだよ。」

なるほど、それでこれだけの人が。

私たちは、イージーチェックインだから、何重にも列を成している人たちの後に並ぶ必要はない。

イージーチェックイン(航空会社によって呼び名は異なる)とは、Eチケットを持っている人が、カウンターとは別の場所に設置された、キヨスクと呼ばれる複数のコンピュータディスプレイから、セルフチェックインが出来るシステム。手荷物しかない場合は、ここでボーディングパスがプリントアウトされるので、カウンターへは行かず、そのままゲートに進める。

最近は、数日前に航空会社から、チェックインサイトへのリンクのついたE-mailが送られて来て、自宅でそこからチェックインして、ボーディングパスを印刷しておけば、空港到着後は何もしないで、直接ゲートに赴くことも出来る。

しかし、どちらの場合も、預ける荷物がある場合は、やはりキヨスクにて、預ける荷物の個数を入力し、荷物に付ける目的地のシールが、カウンターにある印刷機からプリントアウトされるので、そこで荷物を預ける必要がある。

私たちは、既に家でチェックインは行っていたものの、預ける荷物があった。見れば、キオスクの周りも人で埋まってはいるけれど、誰も使用していない。そこで、私は人並みをかき分けて、ようやく画面の前に陣取った。

そこまで辿りつくまで、生真面目なシナコは、「ママ、順番抜かししないで! ちゃんと並ばなきゃ!」と背後から叫んでいる。

「違うの、この人たちは、セルフチェックインの人たちじゃないの!」と言っても、シナコには分からない。説明するのももどかしく、とにかく荷物のチェックインを済ませたが、今度はその荷物を実際に預けに、カウンターにまでたどり着かねばならない。

カウンター前は荷物を持った人でびっしり埋まっているので、なかなか近寄れない。それでも強引に前進していると、またもやシナコが叫ぶ。「ママー!ちゃんと並びなさいよ!!」

「違うよ。この人たちは荷物をチェックインする人たちじゃないんだよぉ!」後ろを向いて、叫ぶ。

実際、チェックインする人たちに紛れて、キャンセルされたフライトから、別の便に予約を変更しようと並んでいる人たちがいる。彼らが、ようやくの思いで、カウンターに到達すると、「ここでは予約変更はできません。予約係りに電話するか、あちらのカスタマーサービスに行ってください!」と、つれなく宣言されるのがオチなのだ。

それでも、ここまで並んだのだから、と食い下がる乗客。ここでは、どうにも出来ません、と言い放つ係員との間で押し問答。係員は後ろに並んでいる人たちにも、「ここでは予約変更は出来ませ~ん。予約係りに電話してくださ~い!」と叫ぶけれど、ざわつくカウンター周辺には、その肉声も届かない。

そんな中、私はボーディングパスを振りかざして、「○○(苗字)です。荷物のチェックイン!」と叫ぶ。

後ろから、シナコが「ママ、止めて!ちゃんと待ちなさいよ!」

「待ってたら、いつまでたっても順番が来ないのよ!」

ようやくの思いで、荷物のチェックイン・シールを貼ってもらう。

真横では、若い女の子が泣いている。「ここまで待ったのに・・・。今日中に帰らなくちゃいけないのに・・・。」 気の毒に。

そのまま荷物を預かってくれるかと思いきや、「あちらのカウンターに持って行って下さい」と、遥か向こうの別のカウンターを指差す。

何で?!と思うけれど、しかたなく、再び人と荷物で埋もれたところを、荷物を引きずり、掻き分けて、別のカウンターへ。は~、疲れた。

2007年8月3日金曜日

オーランド

一昨日、マイアミでの仕事を終え、最終の仕事はオーランドなので、お客様と同じ便で移動。

実は、キニコとシナコも同じ便に乗り、私と同じホテルの部屋に泊まる予定。

出張に家族を連れて行くことは、アメリカではそう珍しい話でもないけれど、こんなこと、なかなか日本から来た人には理解してもらえなさそうなので、黙っていたほうが得策かなと、子連れで来ていることは内緒。「他人の振りをすること」と、子供には最初から釘を刺してあった。

当日、私は仕事場から、お客様と一緒の車で直接マイアミ空港へ。キニコとシナコは、ホテルからタクシーで空港へ。

空港のカウンター周辺や、ゲートでも何度も顔を合わせたが、そ知らぬ振りを通す。飛行機に乗り込むと、偶然にも私の横がお客様の1人。もう1人がその真後ろの座席で、何とその隣の2席がキニコとシナコ。

二人は事の成り行きにおかしくて、くすくす笑っているし・・・ひやひやものでした。シナコが私と似ていると言われることもあるので、気付かれるかも・・・と思いつつ。

オーランドの空港からホテルまでも、私はお客様のタクシーに同乗。キニコとシナコも別のタクシーで、無事にホテルにチェックイン。多分ばれてないでしょう。

しかし、今回は普段使い慣れていない言葉が多くて、お客様にしょっちゅう訂正されましたわ。

「地方政府」と言えば、「地方自治体ですね。」

「・・・あのぅ、家の所有者の集まり、あの・・・アソシエーションって言うんですが・・・」
「あ、ホームオーナーズ・アソシエーションね」 (なんだ、知ってるの・・・)

おまけに、「郡」と「軍」って言葉が、しょっちゅう出てきて、私の頭の中には、漢字が浮かんでいるけれど、聞く方にはわからないだろうから、いちいち、「XXXX郡」と長ったらしい名前をいい、「軍隊」と言い直し。おまけに、ついつい「群」って字をノートに書いて、「あらら・・・」と書き直していたら、脳みそがそれに奪われて、聞き逃していたり。

夕食の時、二人のお客様の部署の関係を説明してもらった時、
「二人とも国家公務員で、元は彼女もボクと同じところにいたのですが、今は彼女は東京で仕事しているんです。日本語で出向って言うんですが。」
と、「出向」を説明され、そこまでわたしの日本語って粗末だったのかしら・・・と、愕然。

ま、最後には、「大活躍でしたねー。とっても助かりました。」と、嘘でもいいから言ってもらえて、楽しく仕事を終えた昨日でした。

さ、今日からはバケーションだっ! 今夜、夫もNYから参加し、明日からはパーク巡りの始まりです。

2007年7月31日火曜日

マイアミ2

実は今回の仕事、私はびびりまくって臨んだのでした。
というのは、お客様は政府の方で、しかも参加される方の中に、「内閣府、事務官のNakasoneさん」という女性のお名前があったからなのでした。
何たって、視察を「偵察」なんていう日本語の貧しい私ですから、政府高官だったらどうしよう・・・出来れば逃げたい・・・と思っていたのですが、現れた女性の苗字には「にんべん」がついていました!
どれだけ胸をなでおろしたか・・・。

しかも20代後半か30代前半の「若い」(私の目からは・・・)方で、とっても感じの良い人なのでした。
あー、私っていつもお仕事する相手には恵まれている!って思いました。

お客様は、それほど英語がお得意でもないようで、今のところはボロが出ずにいます。

るんるん! (今のところ)

2007年7月30日月曜日

マイアミ

なぜか、今マイアミにいます。一応、仕事で来ています。

いろいろと背景情報や経緯を説明していると、一向にブログが進まないので、気の向くままに、適当に書くのがいいのかな・・・と、思い始め、とにかく最新の事項を書いていきます。

先日書いた夫の会社の話は尻切れトンボですが、それはまた後日に機会があれば書くと言う事で、今日は今いるマイアミの話を書きます。

マイアミに来るのは初めて。以前にオーランド(もち、ディズニーワールド!)への経由地として空港は利用したことがあるけれど。
来てみてびっくりしたのは、ここは「アメリカじゃない!」と言うこと。

マンハッタンも別の意味で、アメリカの他のところと全く趣を異にしている別世界だけれど、ここマイアミはまるで「外国」です。英語が通じないことすら、しばしばあるのですから。

じゃあ、スペイン語なのか、と言えば、それだけでなく、今朝、ホテルのエレベーターで一緒になった、ホテルのハウスキーピングのスタッフは、全く聞き慣れない言葉をしゃべっていました。何語か聞いてみると(私は好奇心旺盛なので、質問せずにはいられない)、クレオールだそう。彼らはハイチ出身でした。

昨日乗ったタクシーの運転手さんは、もとはコロンビア出身で、その後ベネズエラに移り、その後マイアミに観光ビザで来て住み着き、レーガン大統領の「恩赦」にて、アメリカの市民権を獲得したそう。

以前はキューバ人が、のしていたこのあたりも、今は中南米の人が多いそうです。

今日は、仕事の後、人から聞いた「一押し」のレストラン(Tabel 8)に行ってみました。ところがレストランそのものは日・月とお休みで、外のバーしか開いてなかったのです。でも食事はレストランのメニューの一部を出すということで、バーでカクテルとワインを飲み、食事もしました。

噂どおり、食事はとってもおいしかった!!! (このレストランはRegentホテルの一部です。)

バーテンが、他のお客さんと話していて、彼がオハイオ出身ということを聞きつけた私は、彼に話しかけずにいられませんでした。ロバートという名のバーテンは、オハイオ州のヤングスタウン出身です。ヤングスタウンはオハイオの北東に位置した、工業都市・・・と言ってもいい町だと思います。

オハイオから来て、マイアミがとっても気に入っていると言う彼がちょっと不思議でした。私は、「オハイオほど人が親切なところはないのに、どうしてここが気に入っているの? サービスだってレベルが低いし・・・」なんて言ったら、「貴女の基準をここにあてはめちゃいけないよ。アメリカの一般的な基準はここには当てはまらないんだよ。」と言われてしまいました。確かにそうです。

私は現在、仕事の時に普段は泊まらないような安めのホテルに滞在しているのですが(というのも、クライアントが日本のお役所で、予算がきついらしい・・・)、とにかく唖然とすることが多いのです。一日の仕事を終えて、夕方部屋に戻っても、タオルが一枚もなかったり、朝食の勘定のレシートが他のお客さんのレシートと一緒になっていたり・・・。(私のカードにチャージされているわけじゃないのですが、レシートは1枚で、他のお客さんの払った分まで載っている・・・。ちょっと想像しがたい状況です。)

でも、ロバート曰く、これがマイアミのいいところで、彼の気に入っている点だそうです。

ロバートに、「オハイオには、あんなに親切な人が一杯いたのに、どうしてマイアミのほうがいいの?」と質問したら、「親切と言う意味ではオハイオ以上のところはないだろうけれど、閉鎖的な人々だし、視野が狭い」と言いました。確かに、彼の言う通りではあります。とっても保守的な環境だったから。

そこで、「個人的で政治的な質問だけれど、構わない?」と聞いたら、
彼は、「ぼくも、この会話を楽しんでいるからどうぞ」とのこと。
それで思い切って聞いてみました。
「あなた、民主党でしょ?」
彼の答えは、「Yes」
「やっぱりね。あなたが育った環境も民主党の環境だしね。」と、私。
「確かに」と、ロバート。でも、彼曰く、今の民主党には、共和党ほど方向性が決まっていなくて、足並みも揃っていないとのこと。そして、彼が付け加えたのは、「ボクは、日本の政治方針がとても良いと感じている。長期的なビジョンがあって、それに向って進んでいるから。」

勿論、私は「それは誤解だよ!」と言いましたよ。日本の政治に長期的なビジョンなんてあるものですか!

私が、彼に言ったのは、「少なくとも、アメリカじゃ大統領が変わると方針が変わるよね。でも日本じゃ誰が首相になっても、結局は同じなのよ。」

それに対するロバートの意見は、「アメリカだって、同じようなものだよ」

でも、私は彼に、言いました。「でも、もしも、現在まだクリントンが大統領だったら、イラク戦争は起きていなかったよね?」

「確かに、そうだね」と言うのが彼の答え。

でも、私が何より感銘を受けたのは、日本で、もしもこんな話を私がバーテンに仕向けたなら、多分「政治には興味ない」とか言って、私の会話には乗らなかったでしょう。そのことをロバートに告げると、彼はこういいました。

「意見を持っていることがアメリカ市民の義務なんだよ。市民の意見に基づいてアメリカは成り立っているんだ。民が意見を持っていることが、アメリカの国を支えている原動力で、そうじゃなければ、アメリカは成り立たない。」

いちバーテンダーにこれだけのことを言わしめる国、アメリカを再度見直した体験でした。

これからもっと、夜な夜なバーに出向こうかな。

2007年6月29日金曜日

疲れました(欠航)

先週の水曜から1週間、シンシナチに出稼ぎに行ってた。

キニコがいるので、安心して家を空けられる。

シナコは夕食を用意して冷蔵庫に入れ、チンしたら食べられる状態にして出かけても、夜10時過ぎに私が帰宅しても食べていない。チンするのが面倒だから、という理由で。

キニコに比べ、シナコのほうが外見も中身も私に似ている。

小さいときに高野豆腐をスポンジのごとく、おつゆを吸っては、再び鉢の中の汁に漬けて食べているのを発見した時には、我が目を疑った。・・・私が小さかったときと同じことをしている・・・。

ちなみに、姉の長男も私と似ているとよく言われていた。何と彼も同じように高野豆腐を食べていた・・・。

話は逸れたが、家族フリーの快適な1週間をシンシナチで過ごし、帰りの飛行場でのこと。7時のフライトに間に合うべく、途中で会議を抜け、空港へ。途中渋滞していたものの、なんとか間に合った。

出発までは30分。ゲートの側のMax & Ermaのカウンターに腰掛け、「取りあえずビール」を注文。「何でもいいからすぐに出来るものは?」

で、フレンチフライをあてに(「あて」って、関西弁だそう。つまみのことよ)、ビールを素早く流し込む。これで機内でグーグー寝られる。今日の席は3人掛けの真ん中。寝るでもして、さっさと時間が過ぎて欲しい。

15分前にゲートに戻る。しかし、私の目の前で出発予定時刻が8:30に変更。その後、8:50に。

しかし、お約束どおり8:50にはボーディングが始まり、エンジンが掛かり、滑走路へ向けて動き出した。早くも睡魔が襲ってくる。

が、しかし。これでは書くに値しないストーリー。

パイロットのアナウンスが入る。「ニューヨークが悪天候のため、ゲートに戻ります。次の状況アップデートは10時半です。空港の飲食店などは既に閉店していますが、希望とあれば一旦降りていただいても結構です。」

果たして、乗客の8割は機外に出て行った。私は3人席を独り占めし、斜め座りして本を読む。ニューヨークでお迎えを頼んでいたリムジン会社や自宅に連絡。

11時過ぎ、とうとうフライトは欠航に。

馬鹿な私は、一旦チェックインした荷物を戻してもらい、郊外のホテルに泊まろうと思った。翌日の予定は特にないし、ゆっくりと帰れば良いと思ったからだ。

とっころが、2時間待たされた挙句、「やっぱり一旦チェックインした荷物は、取り出せません」とのこと。しかたがない、空港の側のホテルに泊まるか・・・と、心を決めたのに、それから電話したホテルは全て満室。じゃ、レンタカーでも借りて、ちょっと離れたところのホテルに泊まろう、と思ったのだが、私の考えは甘かった。レンタカーは全て借りられていて、一台も残っていない。考えてみたら、そりゃそうだ。欠航で目的地にたどり着けなくなった人々が真っ先に考えるのは、陸路でたどり着くと言う事。

てな訳で、私は空港に足止めとなり、一夜を明かすことに。

しかし、驚いたのは、テレビで放映されている「空港の床に寝そべった人々」に私も成り下がるのかと覚悟を決めていたのに、空港側は手馴れたもので、簡易のキャンプ用寝台(多分、その上に寝袋を置く台座)、毛布、枕をたんまりと用意していて、床に寝ずに済んだのです。

最近のアメリカは、飛行機の欠航や遅れは日常茶飯事で、どうやら空港も慣れっこで、準備態勢が整っているよう。

しんどかったながらも、ユニークな体験で、私の好奇心を満たしてくれました。

2007年6月1日金曜日

コネチカット通信 その5

「ニューヨーク駐在妻ってさぞかし優雅な生活をおくっているんでしょう、レポートしてください」とのリクエストが何人からかあった。

ニューヨークの駐在員社会が華やかかりし頃は、きっと数十年前くらいまでで、最近は不況で人数は減ったとは言え、依然としてかなりの数の駐在者とその家族が住み、駐在層も幅広くなって、読んだことはないけれど、一昔前の本に描かれていた雰囲気とは全く違う、と思う。

逆にあまりの付き合いのなさに、驚いてしまうほど。

14年前にリヤドに夫が駐在となったときは、社内では5家族ほど、リヤド市内の日本人も100人程と、とても小さな日本人社会だったし、多くが同じ敷地内に住んでいたから、何かにつけ集まりがあり、それが楽しくもあり、場合によってはうっとおしくもあった。

オハイオ時代は、私自身は駐在員ではなく、単なる傍観者だったけれど、赴任家族に対しては会社が現地でオリエンテーションを行ったり、家族が利用できるセンターがあって、サポートが受けられる。まさに至れり尽くせり(と私の目には映った)の環境だった。

ま、そこまでのフォローはなくても、夫の会社は駐在員の数も、私が勤めたオハイオの会社と同程度だし、何らかの会社との係わりがあるのだろうと思っていたら、大きく予想が外れてしまった。

夫の転勤は4月。私たち家族が到着したのは8月。以降、会社からのコンタクトは一切なし。「ようこそ、いらしゃいました」も、「いかがされていますか」も、全くなし。

ま、これがめんどくさくなくていいって言う意見もあるでしょう。でも、なんちゅうか、本中華。「帯同家族には、ご主人をサポートしてほしい、それゆえ、これだけの補償しているんですから」なんて、人事に言われたんだから、そんなに私たちのサポートに期待しているなら、ちょっとくらい、ご機嫌伺いしてくれてもいいんじゃないの、なーんて思うのは私だけか。

つまり、家族が当地に馴染むも馴染まないも、全て夫の手腕にかかっている。我家の場合はたまたま私も娘も言葉には不自由しない。夫は着任直後から、週の殆どは出張している状態だし、こんな中で言葉の出来ない家族だったらどうなってたんだろう、と思ってしまう。それとも、そういう家族なら、ちゃぁんと会社のほうから、様子伺いとかあったのかしら。

でも、裏を返せば、強制的に参加しなくちゃいけないイベントもないわけで、超お気楽でもあるのだ。リヤド時代は、リヤドに住む全ての夫人を対象に、定期的に行われる食事会としての「婦人会」があり、当番制の準備も大変ながら、内容が充実していなければ文句を言う人すらいた。そんな中で、「婦人会に出たくありません!」なんて、所長夫人に訴えて、なだめられたこともあったっけ。

とにかく、こちらでは放ったらかしの中で、ちょっとぶつくさ言っていた9月ごろの話。ある奥様からお電話が。夫がそれなりの年齢に達したから、彼の肩書きには、ナンタラ長というものがついていて、会社の中で、この「ナンタラ長」という人たちの配偶者だけが集まる、花の名前を冠した会があるそうな。近々私ともう1人の歓迎会を開く、とのお知らせだった。

ナンタラ長は単身赴任者も多く、集まったのは5-6人。私は社内結婚じゃないし、夫の会社の奥方は上品でハイソな人が多いのではと、勝手にイメージして、緊張して参加したのだけど、なんかみんな、普通の人たちで安心してしまった。偶然1人は私と同じ大学だったし、もう1人はコロンビア大学で修士を取った人で、ふたりとも外国好きそうで、嬉しくなってしまった。って言っても、それ以降、特に深くお付き合いしているわけじゃないんですけど。

てなわけで、〇〇ざーますのよ、おほほほほ・・・なんてやらずに済んで、良かったぁ。その昔のリヤドの所長夫人は、そんな感じのとーってもお上品な方で、話すときには、私は緊張して、舌をかみそうになっていた。

お料理しました

交換留学生時代、南部出身の家族と暮らしたせいか、私は結構、南部料理が好き。

ってことで、昨日はブラックビーンスープを見よう見まねで作ってみた。一昨日マンハッタンで入ったパン屋さんが、ランチスペシャルでブラックビーンスープを出していたのだが、それを食べて自分でも作りたくなった。適当に作ったけれど、これがとても美味しかったのだ! おぜんざいが大好きなシナコも、美味しい美味しいと言ってた。ブラックビーンズは、お砂糖入れて作れば、立派なおぜんざいになる食感。

勿論スープには豆だけじゃなくて、ベーコン、トマト、人参、たまねぎ、オクラなんかも入っていたよ。これに、コーンミールを衣にしたオクラのフライも作った。もしもこれに、ナマズのフライやコーンブレッド、デザートにピーカンパイが付いたら、立派な南部ディナーになったなぁ。

でも夫が食べられるものも用意しなくちゃってことで、昨日はこれに、フライパンで作った牛フィレのたたき風+おろし醤油ソース、りんごとくるみ・レーズン・セロリのサラダ。おまけにポテトサラダやコロッケまであって、超豪勢だった。

ただ、シナコが、「ママって、豪勢なのはいいけど、なんかコンビネーションが悪いというか・・・。」生意気な。コロッケとポテトサラダは残っていたから、仕方なかったのさ。

その前日はって言うと、マンハッタンからの帰りに、チヨダ寿司ってところで、私とシナコにお寿司とお弁当を一つずつ買って、それでシナコが足りなかったら困るから、ポテトサラダとコロッケも買ったのに、お寿司だけでおなか一杯になっちゃって、残っちゃったんだよね。

夫の分? 夫はいつものように、白いご飯と鮭フレーク。嘘。彼はいつものように出張でした。

たまに、まともに料理したときくらい自慢しとかなくちゃ、私の株は下がる一方だからさ。

で、今夜のメニューはって? 勿論、ブラックビーンスープですがな。

インビジブル・フェンス

先日、ママちゃんがボクのためにInvisible Fenceを購入しようかと思い立ち、説明のためにセールスの人を家に呼んだ。このフェンスは、その名の通り目に見えないフェンス。Invisible Fenceは登録商標で、他にも類似品はたくさんある。類似品ではトラブルが起きていることもあり、ママちゃんは本家本元の会社の製品を購入しようとしたのだ。

説明を聞くと、家の四方を囲むようにワイヤを地中に埋め込み、ボクは特別な首輪をする。ワイヤに2mくらい近づくと、まずは首輪から警告音が出て、更に近づくと首輪の内側の電極の突起が僕の肌にビリビリってショックを与える仕組みらしい。

何でママちゃんがこのフェンスを買おうと思ったかというと、ボクのためというよりは、本当は自分のためなのだ。裏庭には木製のフェンスが張り巡らされているけれど、フェンスの下には隙間が空いているし、ある部分ではフェンスとフェンスの間にも隙間がある。ボクがこの隙間を見逃すはずはない。最初の頃はおとなしく庭の中にいたけれど、だんだん庭にも飽きちゃったし、隣の庭にはリスもウサギも走っているし、どうしても後を追いたくなるんだよね。

で、何度も庭からエスケープを繰り返していたら、業を煮やしたママちゃんは長~い綱にボクを繋ぐようになった。ところが庭には木が生えてるし、2段になった庭の、上の段のタイルとタイルの間の隙間に、しょっちゅうボクの綱が入り込んで、動けなくなってしまう。そのたびにボクは「く~ん」と悲しげな鳴き声をあげて、助けを求めるんだけれど、どうやら僕を助けに外に出て行くのがママちゃんはメンドクサイらしい。

Invisible Fenceの広告が入り、今なら599ドル!という文句に、興味をそそられて、早速電話したらしい。599ドルで2エーカーまでらしいけれど、うちの家の土地なんて1エーカーもないちっぽけなものだから、裏庭のみならず前の庭も全部カバーできる。自分でまがい物を買ってきて取り付けてもいいのだが、前庭にはアスファルトのドライブウェイがあり、ワイヤを埋め込むには、このアスファルトを切り込んでワイヤを埋めてから再びカバーするという作業が必要。これはなかなか素人じゃ難しい。

インビジブル・フェンスを導入しても、その後きちんと犬を訓練しなくちゃならないんだって。たいていの犬はすぐに学習するらしい。一番訓練が難しいのが、ジャックラッセルやビーグルの類。つまり、ジャックラッセルの親戚であるラットテリアのボクは、一番訓練が難しいタイプらしい。動物を見ると、どうにも我慢できなくなっちゃうんだもん。でも訓練用のビデオも付いているし、「99%の犬は、大丈夫です」とセールスのおばちゃんは自信を持っていた。「この子は頭はいいんですよ」と、決してキニコやシナコを褒めないくせに、僕のことは褒めていたので嬉しかった。

説明を聞いてすっかり買う気になったママちゃんだったが、そこはパパちゃんに相談してからと、一応パパちゃんを立てて、その時は契約にはサインしなかった。

夜、パパちゃんに話をしていた。パパちゃんは、だいたい元々ボクのことがあんまり好きじゃない。「ファミリールームのカーペットを敷きたいと思いながら、お金がないから我慢しているのに、このクソ犬のために600ドルだと。俺は反対だね」と冷たい。最近は自分の稼ぎがなくて、発言権が弱まったママちゃんは、あきらめきれないまでも、もう少し待つかって雰囲気。

そしたら、今日、アメリカのお母さんから電話があって、話しているのを聞いてしまった。「600ドルもするから、夫も二の足を踏んでいるのよ」とママちゃんが言うと、「それじゃあ、あの犬よりも高いじゃない!」 それを聞いて、「ほーんとだ、もったいない」と、ママちゃんはすっかり納得してしまったみたい。

ちぇ・・・。

でもさ、去年の暮れ、獣医に連れて行かれて予防接種を打たれたら、ひどいアレルギー反応で目が開かなくなるまで顔は腫れるわ、熱は出るわで、あわてて再び獣医に連れて行かれて、中和剤を打たれて、赤ちゃん用のアレルギーの飲み薬まで飲まされて。あの時の予防接種と中和剤・薬の値段がしめて400ドルだったから、ボクの価値は、もう800ドルは優に越えているんだけどなぁ。

コネチカット通信 その4 レス

いやはや、コネチカット通信その4の「ぐうたら主婦」に対する反響はそこそこ大きかったですね。私を知ってくれている人は、笑い飛ばしてくれるかと思いきや、意外に真面目に怒られたりして。
知人から寄せられた数々のコメントをここでご紹介します。青字は私のコメント。

事実に基づくものの、ちょっとしたアレンジが面白く、家内にも読まそうと思いましたが、これを読むと強気になりそうなので家内には見せませんでした。(50代会社役員)

なんだかサウジで一緒にすごしたあの頃がよみがえってきたわ。いまだにシナコは食欲がないの? いっぱいのシリアルを、オエオエいいながら食べてたもんね。(30代専業主婦、子供小学生2人)
*そう言えば当時は、「霞を食って生きている」と言われてましたっけ。今は育ち盛りか、結構食べます。なのに、まだ151センチの私より背が低い。私も154センチの母を抜けなかった。母娘三代徐々に身長が縮んでいるなんて、今のご時世にうちくらいのものでしょう。かわいそ。(シリアル晩御飯じゃ、背が伸びるはずもないか・・・。)

私の゛多忙な゛毎日を彷彿とさせる内容で、夫に読ませたいな。英語版の予定はないのですか? (40代フリーランス)

楽しく読ませていただきましたが、貴女のイメージがもろくも崩れ去った感じです。ダンナ様に優しい愛人が出来ないことを祈っております。(50代エンジニア)
*あらら、どんなイメージだったんでしょ。

私はこんな娘に育てた覚えはないと、あれを読んで情けなくなりました。もし、お義母さんがあれを読まれたら、どんなに息子が可哀相だと思わはるかしら・・・。私も合わす顔がありません。このごろ、我が家でも私が働きに行っている間にパパが掃除機をかけて、お茶碗を洗ったり、大分賢くなったはります。でも、私が帰ってくると玄関に仁王立ちして、今日は掃除をした、洗濯物も干したとうるさく言います。だから「パパが会社へ行ってた時、帰るなり、私が『今日は料理した掃除した洗濯した』というたか?」といってやります。(70代主婦・シルバーセンター派遣員・ボランティアワーカー)

長すぎるっちゅうねん、が感想。正直、おもろい。ちょっとずつ(くすぐり)がはいってておもろいねんけど、目で読むだけにな。もうちょっと短めで笑かして。(50代 会社社長)
*短くすることできひんのがわかったから、ブログにしました。これで、もう強制的に送りつけられることもなく、時間があって、読みたいときに読めるでしょ。あ、でも、メールのときは仕事の振りして読めたけど、仕事中にブログにアクセスは難しいねぇ・・・。希望者には、引き続きメールで送りますよ。

ビッグな主婦してるなあ。羨ましい限り。だけどさあ、主婦の仕事って、なあんにもなかったかのごとくにしておくことが仕事なんだよね。お料理して、食べさせて、洗って、片つけて。。。 汚れた衣類等を洗濯して、たたんで、しまって。。。 皆が帰ってくるころにはなあああんにもここでは起こってなかったということになっているんだよね。なんと生産性のないことか。。。といつも嘆いておるしだいです。(40代ワーキングマザー、子供3人)

「人生それでいいじゃん!」と感じました。旦那さんもお子さんも犬も理想の主婦像への期待は諦めているみたいで 、貴女の強さがとても現れています。(50代エンジニア)

まあ、、、何と言うか。…私のほうが、よっぽど主婦をしているのでは。。と安心しました。私の先週1週間は、平均睡眠時間が4時間。仕事とプライベート(主に運動と通訳学校での勉強)で時間がないので、週1度はお手伝いさんが来ていますが、それでもどなたかよりは…主婦しているかも。(40代ワーキングマザー、子供小学生1人)

「起きないとしらないよ」というフレーズは関西のおばさんのフレーズだそうです。関東では木に登っている子供を見たら「落ちると怪我するよ」と言って子供をいたわるそうですが、関西では「落ちても知らんで」と言って子供を脅すそうです。(40代会社社長) 
   
専業主婦だった頃は、家の事は全て私がやるのが当たり前になっていたので、あの当時、もうちょっと夫が家事を助けてくれるか、「ありがとう」の一言を言ってくれていたら、喧嘩も少なくてすんだんじゃないかと思います(笑)。コネチカット通信の冒頭にもありましたが、ほんっと、働けど働けど、お金はもらえるわけじゃないし、感謝されるわけでもないしで、全然うかばれないのが主婦の仕事ですよね。(20代ワーキングマザー、子供幼児2人)

貴方の旦那に『喝』を入れたい気分です。 接待も有り夜遅く疲れて帰って来たのに、食器が流し台に放置してあったら当たり前の様にそれを洗う??? 麦茶がなかったらそれを作る??? その行動が気に入らない、許せない。日本男児としてあるまじき行為。専業主婦ならいくら遅くなっても旦那が帰った時に 労いの気持ちで迎えて上げるそんな優しさが欲しい。私の妻なら既に三行半を突きつけていますね。(50代エンジニア)

面白おかしく優雅な生活を教えてくれてありがとう。『貧乏暇無し』生活を続けている私としてはうらやましい限り。それにしても、旦那さん、色々としてくれるんやね~。ほんまうらやましいなあ。読んでいると、あなたは何にもしてないようで、実はタイムキーパーであり、全体を見ている統括マネージャー。主婦としては一番大切なポイントだと思うよ。(40代ワーキングマザー、子供中学生1人)
*そっか。これからは自分のことを家事統括者って言おう。英語では、さしづめHouse choir managerかな。

12-13年前のサウジ時代のお宅の様子と全く変わらないですね。もう、そのままって感じです。旦那さんは、相変わらずポロシャツのボタンを一番上までキッチリとしめているのでしょうか? あなたのパジャマは、やはり相変わらずベローンって伸びちゃった大きいTシャツのことですか? そういえば、サウジに居たときに、家の前で育っていたバナナを狙っていたあなたが、ワーカーのフィリピン人に取られちゃって、相当な時間悔しがっていたのを、何故か突然思い出しました。「パパの仕事はテレビ」とキニコちゃんに幼稚園の作文で書かれた旦那さんも、相変わらずテレビ好きなんですね!本当に変わってないんだなぁ。うちでも洗濯や食器洗いは僕がやらされます・・・。平気でやってしまう自分がとても悔しい。何で、世の中の女どもは楽しているのに、洗濯や食器洗いをさせられなあかんねん。うちのこの生活習慣はお宅から輸入されたものであることも、思い出しました。(40代 起業家)
*あれはベローンって伸びたTシャツじゃないよ。オーバーサイズとお呼び。今はもう少し身体にフィットしたセクシーな感じの古びたTシャツです。そうそう、あのバナナ、もう少しで黄色く熟れるぞって、楽しみにしてたら、ある日突然消えてたんだよね。でも、その後で、同じく家の近くのナツメヤシの木から落ちた実を、エリトリア人だか、エチオピア人のメイドさんたちと一緒になって拾って食べていたら、通りかかった日本人の奥さんに、「すっごい量の害虫駆除の薬を撒いてるから、食べちゃダメだよ!」って言われて、あのバナナもきっと農薬の塊だったと、先に食ってくれたフィリピン人に感謝したよ。
                         
1週間で作ったのは、カレーとトーストだけ、ということですね... (40代ワーキングマザー、子供5人) *違います。ちゃんとチャーハンも作ってるでしょ。

かなりオーバーに書いてあって、そんなに怠けた主婦のはずはないと思うけど、なんていい旦那様なのでしょう!と思いました。(40代エンジニア)
*いえ、それほどオーバーでもないです。

相変わらず、だんな様がマメで優しいわね。羨ましいです。私は、ブリッジ、お茶のお稽古、ヨガ、と、お気楽主婦をしています。(40代主婦、子供大学生2人)

兼業主婦より専業主婦のほうが精神的にきついと言ったけれど、通信4を読んで前言撤回。やっぱり専業主婦(*就学前の子供がいる家庭を除く)のほうがず~~~~っと楽だと思う・・・。(30代ワーキングマザー、子供幼児1人)

コネチカット通信 その4

前回のコネチカット通信3は、かなりの反響を呼びました。

皆様から寄せられたコメントを少し取り上げてみましょう。
  • そういう半分に切ってつなげた車は、「ニコイチ」って言うねん。
  • 私もドライブウェイをバックして、積み上げた雪の山に泥よけが当たり、泥よけが取り付けられたバンパーが破損。泥よけをぶつけただけで、バンパー全体を交換なんて、どんな設計をしているのか!
  • バックセンサーは車の後部の死角部分の障害物を見つけるためのもの。相手がトラックなら、そんなものなくたって・・・。後ろを見ないでバックするような人のことまで考えて設計できないよ。
  • (フランス人の乾杯に関して)それなら、君も新たな犠牲者みつけて、乾杯すればよかったのに。
  • 運転しないほうがいいんじゃないか、と思ったのは私だけでしょうか・・・??
  • 非常に男勝りと思っていましたが、過去の失敗談を知り、普通の女性であったと言う事を痛感しました。

など、など。

では、その4をお届けします。今回は「専業主婦」ということにスポットライトを当ててみました。

アメリカに来て、専業主婦となり早9ヶ月。
最近、富に感じるのは、「専業主婦って、なーんて報われない職業なんだろう」ってこと。

先日、藤棚の腐った枝やツタを全部取り払った。踏み台に乗って見上げて作業すること3時間。取り除いた枝は、ゴミ箱に入るように細かく折らねばならない。そしてたっぷり大型のゴミ箱2杯分。ずっと上向きの作業で、顔から頭から埃を被り、翌日は筋肉痛。その日は、前庭、裏庭のタンポポの撲滅に奮闘すること3時間半。昼食も忘れ、もくもくと働いた。翌日、またあちこちにタンポポが。何とか引っこ抜き、その後、来る日も来る日もタンポポと格闘。こんなにすっきりさせているのに、だーれも何も言っちゃあくれない。料理をしてもあたりまえ。掃除をしてもあたりまえ。出来てない時だけ文句を言われる。

勤めていたときは、ちょっと早く作業ができたり、上手にこなしたときは、「助かります、ありがとう」とか、「今日もすばらしい出来だったね」とか、大げさに褒められて感謝される。おまけにお金までもらえるのだ。

世の夫諸君、ちゃんと奥様に感謝していますか? 例えお給金が出なくとも、「ありがとう」の一言で、どれだけ報われた気持ちになり、明日への活力に繋がるか。しっかり肝に銘じて、奥様をねぎらって欲しいと思う今日この頃です。

と言うことで、私の「典型的な主婦の一週間」をご紹介することで、皆様の専業主婦に対するご理解を深めて頂きたいと思います。

月曜日
午前6時に目覚ましが鳴る。ベッドを出て、娘の部屋のドアを開け、「6時だよ、起きなさい! 起きないと知らないよ。ママはまた寝るからね」と声をかける。再びベッドに戻る。
6時15分。再びベッドから出て、「起きなさい!」と声をかける。「わかった!うるさい!」と、娘の感謝の声。その声を子守唄に、再びベッドへ。
6時半。ベッドから、「シナコ、6時半だよ!」と叫ぶ。 「知ってる!」と洗面所から声。ああ、起きていると安心し、再び眠る。
6時40分。夫がベッドから出る。それを合図に、5分遅れて私もベッドを離れ、居間のソファーへ場所替え。テレビをつけ、横になる。6時46分。「シナコ、あと2分!」と優しい怒鳴り声をかける。
6時48分。娘がシリアルバーを手に、走って玄関を出る。「いってらっしゃーい!」と叫ぶ私の声が居間にこだまする。自分の声に元気付けられて起き上がり、主寝室の夫の様子を見に行く。夫は朝の支度を終え、自分でベッドメークしたベッドに腰かけて靴下を履いている。「じゃ、コーヒーを入れるね。」台所へ戻る私。朝の大仕事、朝食の準備に取り掛かる。コーヒーを入れトーストを焼く。
7時。コーヒーとパンの用意が整った頃、夫が食卓へ。TVジャパンで日本のニュースを見ながら、「今日は接待で遅くなるから夕食は要らないからね」と言う。朝食を終え、空になったマグとお皿を台所に下げ、洗う、夫。
7時26分。夫が出かける。私はつきっぱなしのTVをBGMに再び心地よい眠りに落ちる。
9時か10時ごろ。これ以上眠っていてはいけない。主婦は忙しいのだ、と日ごろの疲労がたまった身体に鞭打ち、コンピュータの前に陣取る。友人知人からのメールにさっと目を通し、返事を送る。コネチカット通信もちょっと書いてみる。コンピュータは切らないで、読みかけの推理小説を手に取る。面白い。横になって続きを読む。やたらと犬がクンクンうるさい。あ、おしっこに庭に出してあげるのを忘れていた。餌もまだだった。愛情を込めて、犬の世話をする。
2時。横になって本を読んでいたと思ったら、いつの間にか本が床に。家の中を見渡す。今日は特にすることもない。一週間のうちこんな日が一日くらいあってもいいだろう、と、床にあった本を拾い上げ、続きを読む。
3時。ちょっと肩が凝ってきた。伸びをしてから、コンピュータをチェックすると、メールがまた数通入っている。なんだ、ジャンクメールだ。削除。生きているのか死んでいるのか音沙汰のない長女キニコにメールを出す。
4時過ぎ。今日のシナコのお迎えは、お友達のお母さんの日。クラブ活動後のお迎えがない日は心からリラックスできる。
5時。シナコが学校から帰宅。「ピアノの前に、犬の散歩に行ってあげなさいよ。」と声をかける。子供の躾も忘れない。
6時。ピアノの先生が到着。「今日は、出かけることがありませんでしたので、パジャマで失礼します」と先生にご挨拶。「まあ、優雅でよろしいわね」と、先生の嫌味のない羨望のお言葉。ピアノのレッスン中、カレーを作る。
7時過ぎ。夕食。一日一所懸命働いた自分への労いに、ビールを一本つける。
9時。お風呂に入り、きれいなパジャマに着替える。「シナコ、早くお風呂に入って寝なさい。ママはもう寝るからね。」と愛情のこもった声をかけ、ベッドに入り熟睡。
深夜。夫が帰宅し、流しに残っている夕食のカレーの器などに気付き、洗う。また麦茶が減っているのを確認し、新たに水出しの麦茶を作って冷蔵庫へ。明日からの2泊3日の出張の用意を自分で整えて、夫も就寝。月曜日が幕を閉じる。

火曜日
いつもと同じ朝。
昼、着替えて化粧もする。たまったワイシャツをクリーニング屋へ。交換に先週出したワイシャツを受け取る。夫の身だしなみに気を配るのも妻の務めだ。
夕刻、今日は私がシナコを学校に迎えに行く当番。今夜から木曜の夜まで夫は出張で不在だ。夕食は、昨日のカレーを温める。今日も一日の疲れを癒すため、ビールを一本。いつもと同じ夜。キニコからの返信なし。

水曜日
いつもと同じ朝。しかし夫が不在なので私がベッドメークをするしかない。
いつもと同じ昼。
晩御飯のメニューはカレー。シナコの帰宅後、「今夜はカレーだよ」と言うと、「カレーはもう嫌だ!」と、だだをこねる。自分でも3日連続は辛いが、今日食べきればなくなる。2人でカレーを囲んだ和やかなディナー。今日は、ビールは休肝日にしよう。グラスに赤ワインを注ぐ。いつもと同じ夜。相変わらずキニコからは返信なし。

木曜
いつもと同じ朝。洗濯かごの蓋を開けて中を覗く。夫の分がないので、洗うにはちょっと量が少ない。蓋を閉じる。家の中を見渡す。掃除機は・・・まだ、2日は持ちそうだ。
今日はマンハッタンでお友達夫婦とランチの約束。12時半にイタリアンレストランで待ち合わせ。カウンターに腰掛けて、ワイン片手にルッコラのサラダ、アーティチョーク、この季節にしか出回らないランプというネギの一種が乗ったピッツァなどをつつきながら、おしゃべり。デザートにはオリーブオイルのジェラート。これが本当に美味! 1時間半後、ご主人は「じゃ、僕はお先に」と帰る。それまで頑張って英語で会話していた私たちだが、「あ~これで関西弁で思いっきりしゃべれるわぁ~。」カプチーノ1杯でぺちゃくちゃ。ぺちゃくちゃ。バーテンのフランクが、いつのものことと思いつつも、半分本気で嫌な視線を投げる。ぺちゃくちゃ。時計を見る。5時半。「あかん、もう帰らな。」後ろ髪を引かれる思いで、店を出る。地下鉄と電車でコネチカットへ戻る。
帰宅後。「ママは、今日は全然お腹空いてないんだよね。シリアル晩御飯でいい?」「え~、まったぁ。いやだよー。」と、忙しい母を思いやって、シナコは快諾。
今日もキニコからは音沙汰なし。夫は、飛行機が延着で、夜中の2時に帰宅。ドアが開き、犬が嬉しそうに彼を出迎える気配に、私は時計だけ確認して再び夢の世界に。夫はスーツケースの中身を空にして、シャワーを浴びて就寝。

金曜
「今日は早朝の会議がある」と、いつもより一本速い電車で、夫が出かける。それでもベッドメークは忘れない。
11時。夫の洗濯物がたくさん入り、洗濯かごの蓋が少し浮いているのに気付く。蓋を開け、中身をぎゅっと押し込む。蓋が閉まる。
いつもと同じ昼と夕方。シナコに、「今夜のごはんは・・・」と話しかけると、「カレーもシリアルも絶対に嫌だ!」と発言。ああ、一人前の意見を言うようになったものだ、と、娘の成長に目を細める。「大丈夫、カレーはもうなくなったから。ご飯が余っているので、チャーハンにしよう。」 腕によりをかけたチャーハンにシナコは舌鼓を打つ。チャーハンにビールは合う。夫は、今夜も出張者と外食のはず。
9時過ぎ。「出張者との夕食がキャンセルになった。今から帰る」とメールが入る。慌てる。かつかつお茶碗一杯のご飯がある。冷蔵庫を覗くと瓶詰めの鮭フレークもある。
10時過ぎ。夫が帰宅。手際よく、電子レンジでチンしたごはんと鮭フレークを食卓に並べる。サービスでインスタント味噌汁もつける。食後、自分のお皿と、私たちのチャーハンの器を洗う夫。夜遅くまでTVジャパンを見て楽しむ。

土曜日
長かった1週間の疲れを取るために、犬を含む家族全員が昼過ぎまで寝ている。
昼過ぎ、シナコはコーンフレークを食べる。私たちは、今日は夫が用意したコーヒーとトーストだ。だらだらテレビを見る。ふと気がつくと、夫は洗濯かごに一杯になった洗濯物を地下に運び、洗濯を始める。「濃色と淡色はちゃんと分けてね」と、ソファーに寝そべりながらも、主婦らしい助言を忘れない。
夕刻、空っぽの冷蔵庫を覗きながら、「おい、買い物に行かなくていいの?」と夫が尋ねる。「行かないとだめ」と私。「1人で買い物行くの嫌いだから、ついて来て。」 夫婦仲良く、近くのスーパーに出かける。
帰宅後、私が忙しくスーパーで買ったものを仕舞っている間、夫は洗濯物をたたんで片付ける。たまに夫に手伝ってもらうのも悪くない。あ、そういえば、掃除機をかけたい気分。「掃除機をかけたいんだけど・・・腰が痛いんだよね。アメリカの掃除機は重くってさ。」 夫、掃除機をかける。
夜。一週間毎日ずっとお料理をしてきたのだから、今日ぐらい手を抜くのもいいだろう、と、ピッツァのデリバリーを頼む。ピッツァを食べながら娘が、「ママ、今日の晩ご飯は何?」と聞く。「これじゃん」と私。「え、朝ごはんがコーンフレークだったから、これはランチだよ。だってこれが2回目のごはんだもん。」 朝食、昼食、夕食というのは、食べた時間に基づくもので、一日のうちの、最初のごはん、二度目のご飯、三度目のご飯という意味ではない、と娘を諭す。まだ納得していないので、「この後、アイスクリームを食べて、それを晩御飯と思えば」と提言する。
今日、日本食品店で借りてきた日本のドラマのビデオを見て、土曜日が幕れてゆく。

日曜日
同じく遅くまで寝ている。夫は先に起きて、給油と洗車に行く。
だらだらしているうちに、夕方になる。
一週間あくせく働いた妻をねぎらい、今夜は外食だ。近くの中華料理店へ足を運ぶ。
帰宅後、「明日はごみの日だよ」と優しく告げる私。家中のごみを集めて、ごみの容器を外に出し、空になったゴミ箱に新しい袋を入れるのも忘れない夫。
夜、明日からの出張に備えて、夫は荷造りをしている。私はベッドに横になり、本を読みながら、明日からの長い長い主婦の一週間に思いを馳せる。相変わらず音信普通のキニコ。便りのないのは良い便りと、安らかな眠りに就く。

注記: 上記の事柄は全て事実に基づいておりますが、面白おかしくするために、頻発しない事柄も全て一週間に凝縮して描きました。ですから、これが実際の1週間の様子を再現したと、誤解なきようお願いします。つまり、実際には、私がメモを渡して、夫がひとりで買い物に行くこともあります。


・・・うむ。おっかしいなぁ。超多忙を極めている主婦だったはずなのに・・・。これじゃぁ、世の主婦像をゆがめて伝達してるじゃないの。お友達よ、ごめんなさい。でも、ま、これで日頃の我家の様子はわかってもらえましたでしょ。

コネチカット通信 その3

(車)
11月の半ばに買い物に出かけようと、ドライブウェーからバックで前の通りに車を出した際、普段は何もないはずの向いの家の路肩に、庭師(夏は芝刈り、秋は落ち葉集めをしてくれる業者)のトラックが停まっていて、オデッセイのバンパーをぶつけてしまった。コネチカット通信1で、バンパーをこするのも時間の問題と予想したけれど、こするくらいで済まなかった。

うちのオデッセイにはバックアップセンサーが搭載されているので、後方に障害物があるとアラームが鳴って注意を促す仕組みになっている。ドライブウェーから通りに出るときは、我が家の植木が視界を遮断しているため、必ず通りの往来を確認しながらそろそろと下がる。その時も例に漏れず、どちらの方向からも車が来ていないのを十分確認した後、一気にバックしたら・・・ピ、ピ、ピピピピ、ドン。その間わずか2秒。つまりセンサーが鳴っていると認識した途端にぶつかったから、センサーは全然役に立たなかった。センサーが役に立つのは「何かあるかも・・・」とそろそろと後退しているときだけで、大丈夫と一気に下がった時にはセンサーが鳴ってもぶつかるのを止められない。(と、自分のミスは棚に上げて、まずはセンサーの役立たず振りを非難。)
 
教訓1 バックアップセンサーは安心しきっている時には役立ちません。

すぐさま車を降りて、相手のトラックと自分の車をチェック。ドッジのいかついトラックは全く無傷。一方、私のバンパーは幅20センチ縦10センチばかりが陥没し、中央に5センチ幅くらいの「かぎ型」の亀裂が生じている。・・・ああ。周りを見渡すと、様子に気付いたおじさんが近寄ってくる。
「ぶつけちゃったの?」 

庭師のおじさんは、さらっと自分のトラックを確認して、「なんともなってないな。ま、あんたに怪我がなくてよかった。」
「あのぅ、保険会社に電話しないといけないと思うんですが・・・」
「僕の車は大丈夫だから、別にいいよ。」
念のためと、彼の名刺をもらった。「あんたの連絡先は別にいらないよ。だってここに住んでるんだろ。」 と我が家のほうを見やる。
ああ、なんて気のいいおじさんだ。

保険会社の連絡先もわからないし、早速会社にいる夫に連絡し、ぶつけたと伝えた。庭師のおじさんみたいに、「君が無事でよかった」なーんて優しい言葉をかけてくれるどころか、非常に不機嫌になる。
「このくらいの傷、別に修理しないでも大丈夫だよ。だいたいバンパーなんてぶつけるためにあるんだもん」と、神経を逆なでするような私の言葉に、不機嫌を通り越して怒りも露わに。とにかく彼に保険会社に連絡してもらう。

数日後、スーパーの駐車場で偶然、同じ車種の似たような箇所に、かぎ裂きの亀裂を伴う類似の陥没を発見。
(なぁるほど。この箇所は軽くぶつけただけで亀裂が生じるようになっているのだ。つまりバンパーの裏側に突起があり、この箇所に当たると衝撃で内側から切れてしまうのだ!つまりこれは設計ミスなのだ!ぶつけるためにあるバンパーの裏側にぶつかったら亀裂が生じるものをそのままにしておくとは、設計ミスじゃないか。断じて私の運転ミスではないのだ!訴訟を起こすと勝てるかもしれない・・・!) という考えが頭をよぎった。数年前にマクドナルドで買ったコーヒーをこぼして火傷した人が、「コーヒーが熱すぎた!」とマクドナルドを相手取って訴訟を起こしたことがあった。自分のミスを棚に上げて相手を非難するという考えが、どうやら私の頭をも蝕み始めたらしい。

しかし訴訟にかける時間とエネルギーを考えると、バンパーの修理費を払ったほうが早い。ま、「コネ通」を強制的に送りつけられてしぶしぶ目を通している読者の中には、自動車専門家が少なくない。彼らに私の一方的な意見が届けばそれでよしとしよう。

バンパーと言えば、その昔は金属で出来ていて頑丈だったのに、最近はプラスチックで柔になってしまった。バンパーの役割は今では車を守るだけでなく、頑丈すぎて衝突時にむやみに歩行者を傷つけないように、歩行者に対する安全性も確保しなければいけない。まさに相反する二つの役割を果たさなきゃいけないのだから、中途半端になってしまうのも仕方ないよなぁ・・・と、ひとり納得。

「ぶつけるためのバンパー」という私の考え方はパリに住んでいた時代に培われた。私のお決まりの駐車スポットは自宅アパート前の通りの路肩。路肩には延々と縦列路上駐車が続く。路上駐車上のマナーは「ギヤをニュートラルに入れてサイドブレーキを引かない」こと。一台分ぎりぎりのスペースを見つけたら、迷うことなくバックで進入し、そろりと後ろの車を押しやりながら、我が車の身を沈める。同じように他の車も入ってくるものだから、翌朝には前後の車とのスペースがほとんどなくなっている。どうやって脱出するかって? 入ったときと同様に、前後に軽く当てながらどんどんスペースを広げていくのだ。

80年代の後半の話だから、いまだに同じようなことがフランスやヨーロッパで、まかり通っているのかどうか知らないけれど。当時はパニックアラームの付いている車なんてなかった。(いや、あってもその手の高級車はしっかりアパート下のガレージとかに納められていた。) アラームが付いていたら、パリでの縦列駐車用にパニックを切るボタンでも付いていないことには、一晩中うるさくて仕方がないだろう。しかもマニュアル車が9割以上を占めていた時代の話。今でもヨーロッパではマニュアル車が多いのは知っているが、オートマも増えている。オートマでパーキングギヤに入れてしまうと車は動かなくなってしまうから、忘れずに駐車時にはニュートラルに入なきゃならない。

そういえばパリに引っ越して間もなく、車を買おうと思い立ったときに、オートマ車がなくて苦労した。中古車広告の殆どはマニュアルで、オートマにすると選択の余地がなくなる。フランス語もわからないし、フランスのやり方も分からない私は、会社の友人、ヴァレリーに頼んで車を探した。当のヴァレリーは免許も持っていない、車に関してはド素人。彼女が新聞の個人広告で見つけてきてくれた車はルノーサンク(5)。私もこれまでに自分で車を買うなんて行為はしたことがなかった。日本で車を買っていたのは正規のディーラーからで、買主は父。免許を持っていない父は「自分の車」を買いに「運転手」の私を引き連れてディーラーに出向くのだ。一台目は中古のマークII。二台目も同じディーラーで新車のマークII。(ちなみに小柄な私にマークIIは不釣合いで、神戸の会社に通っている頃、「無人のマークIIが前を走っていると驚いたら、やっぱりお前だった」と揶揄された。)

日本のディーラーは世界のディーラーと文化が異なると言ってもいい。1回限りのお付き合いじゃなく、ちゃんとディーラーには「顔」がある。数年に1度しか買わないのに、年末にはわざわざ家までカレンダーや、時にはラジコンのプラモデルも持って来てくれるし、担当者が変わると挨拶に来る。アメリカでは「カーディーラー」と言えば嘘つきの代名詞。これはモントレーで最初に買った車で実証済み。車を持ち帰った翌朝、車の下にグレープジュース色の液体が溜まっているのを発見。間もなくハンドルが異常に重たくなる。パワステシステムのどこかに亀裂があったのだ。

この時は部品がない、とか、取り寄せた部品が違った、とか色々理由をつけて散々待たされた挙句に、「あんたにもっといい別の車を見つけたよ」と、親切ごかしに新たな中古車をあてがわれた。「私じゃ、この車がいいのか悪いのか判断できないから、友達に見てもらいます」と一応乗って帰って、お隣のご主人に見てもらった。早速車の下にもぐってくれて、その下から顔を覗かせた彼が、「これ、前半分と後ろ半分は違う車だよ。真ん中でひっつけてある」。

事故車の使える部分を張り合わせてあるなんて、あんまりだ!何にも知らない女だと思ってバカにしやがって! 何度も掛け合った挙句、ディーラーとのやり取りを録音したウォークマンをちらつかせ、「訴える!」と言うと、ようやくお金を返してくれた。カリフォルニア州にはレモン法(欠陥中古車を売った売主の責任を問う法律)が適用されていないので、勝ち目はなかったのだが、パフォーマンスのつもりだった。知人が調査してくれた結果、「このディーラーは別の顧客とも係争中」ということだったので、そのことを持ち出したら、すんなりあきらめたのだ。(持つべきものはこういう調査をしてくれる友人だ。感謝!)

教訓2 アメリカのディーラーで中古車を購入するとき、保証付きでない車は、まずは疑ってかかりましょう。(だいたい新聞などの個人の中古車販売広告欄に、「XX年型○○。走行距離XXXマイル。○○○ドル。走ります!」なんて堂々と書いてあるのが信じられない。走らないなら、売るな!)

ところで真半分に切った車を繋げるなんて、本当にそんなことあるのだろうか、と、いぶかしく感じていたが、実際にそういうことが行われていることを、なんと弟から知らされた。わが弟は、とある日本の自動車メーカーの関連会社だか下請け会社かに勤めているのだが、その会社が日本の中古車を東欧(だったと思う)に輸出している。輸出の際、車は真っ二つに分断される。そして陸揚げした後に、再び元の形に繋げられるのだ。何故?真っ二つに分断した車は、もはや車とはみなされず、「鉄くずとして課税」されるからだ。

パリの話に戻るが、結局この時も相手のアパートをヴァレリーとたずね、車も見ずに値段交渉もせずに、広告の額面どおりで、「じゃ、買います」と決めた。すぐさま相手夫婦は4つのグラスを出してきて、4人でカンパイをした。「これは交渉成立時のフランスのしきたりよ」と、酒好きのヴァレリーは満足げに解説する。しかしこのカンパイの本当の意味を理解するまでに、さほど時間はかからなかった。帰り道、手にしたルノーサンクを運転しながら、(なるほど、うまく騙せて相手はカンパイする気分になったはずだ・・・)と気付いたが、時既に遅し。もともとオートマは希少だから選択の余地はあまりなかったにせよ、高い買い物だった。と、そのおんぼろぶりを実感したのである。

その数ヶ月後、日本から出張で来た元上司を私の車に乗せた。「悪いこと言わへん。命が惜しかったら、この車すぐに買い換えたほうがええで。」 彼の親切なアドバイスに素直に従い、すぐさま今度はマニュアル車のルノーオンズ(11)に乗り換えた。

教訓3 フランス人が乾杯したいと言う時は、気をつけましょう。

マニュアル車なんて教習所を出て以来、運転したことがなかった。その日ルノーのディーラーを、がっくんがっくんと車を前後に揺らせながら後にして、何とか自宅まで辿り着いた。翌日からはクリスマス休暇。会社を出てそのままノルマンディーへヴァレリーと車を走らせ、続いて日本から遊びに来た友人を空港でピックアップして、ロンドンまで車で行った。高速走行では、なんとなく車がまっすぐに走らず、ハンドルもかなり振れる気がする。

(こりゃ車軸でも歪んでいるのかな、欠陥車かもしれない。休暇が終わったら早速ディーラーに持って行こう・・・)なんて思いながらのロンドンからの帰途。パリのペリフェリック(循環高速道路)に入る直前の急カーブで、速度を十分に落としていなかったためにガードレールに激突。時速40キロくらいで曲がらなくちゃいけないのを、80キロぐらいで突っ込んだんだから無理もない。それまで150キロくらい出していたから、スピードを落とした積もりでも十分じゃなかったのね。エンジンはなんとか掛かり、家には辿りつけたものの、ディーラーに修理に持って行ったら「車軸が歪みましたねぇ」・・・。元々歪んでいたかもしれない車軸の修理に、買った金額の50%くらいの費用がかかってしまった。またしても手痛いレッスンだった。

教訓4 車がおかしいと思ったら、遊んでから点検しようとと思わずに遊ぶ前に点検しましょう。
え、そうじゃないでしょって? じゃ、改めます。
教訓4 カーブに入る前には、十分にスピードを落としましょう。

死にそうな思い、と言えば、もう一件ありました。大学卒業前に、アリゾナに旅行したときの話。アリゾナは私が高校時代に1年間留学していたホストファミリーがいるところ。そこに大学時代の友人二人と遊びに行った。1人は小学校から大学まで、もう1人は交換留学から大学までが同じ友人。後者の友人はスペイン語が専攻で、メキシコをバス旅行した後、アメリカで私たちと落ち合うことになっていた。アリゾナ州とメキシコ国境にあるノーガレスと言う町にバスで着く彼女を、ピックアップする約束になっていた。無事に彼女と会った後、ホストファミリーの住むツーソンまでの帰途のこと。砂漠の中の一本道というのは非常にスピードを出しやすい。向こう何十キロも見渡せるし、対向車もほとんどない。調子に乗って猛スピードで走っていた。すると・・・ワーナーブラザーズの漫画でおなじみのロードランナーが「ウッウウッウー!」という声は上げていなかったと思うが、突然道路を横切った。

ロードランナーと言う鳥は、その名の通り、道を走って横切るのだ。慈悲深い私は、そのまま鳥に向って突っ込むことができず、急ハンドルを切ってしまった。その後、車は我が意に反して、右に左に揺れ、挙句の果てに大きく旋回して、砂漠の中に突っ込んだ。回転しなかっただけめっけもの。同乗の友人たちは生きた心地がしなかったようだ。幸いタイヤも歪まず、砂漠からも脱出でき、我々は無事ツーソンに帰り着くことが出来た。

教訓その5 運転中は殺生も致し方ない。
え、また違うでしょって? そうね、違いますね。もとい。
教訓その5 制限速度プラス20キロ、を守りましょう。

さて、再びオデッセイの話。見積もりの結果、修理費は900ドル弱。免責は500ドルなので我が家の負担は500ドル。幸いなことに修理費の合計が1000ドルを越えない場合は、翌年の保険料に影響することはない。問題の箇所は、バンパーの下の曲がり込んだ部分なので、パッと見では目立たないところなのだ。私としては、これしきのことでバンパー取替えはめちゃくちゃ惜しい。が、ぶつけたのは自分だし、もったいないと主張すると、夫の機嫌を損ねる。夫のご機嫌を500ドルで買うと思って泣く泣く修理することにした。

友人夫婦に、「これしきのことでバンパー取替えを主張するなんて信じらんない!」と訴えると、友人のご主人(アメリカ人)は、「何に価値を置くかは、男と女で違うからね。男性は往々にして車に価値を見出すから。」 妻である友人は、「そんなん、もったいない!でも、何で黙っておかへんかったん? 言わんかったら、わからへんかったのに。」 

そうだ、私が正直すぎたのだ! 駐車してる間にぶつけられた、と言い逃れもできたのに。
今回の最大の教訓。

教訓6 車をぶつけても夫には、知らぬ存ぜぬで通しましょう。

コネチカット通信 その2

2007年2月9日

長らくお待たせいたしました。(全然待ってへん、ちゅうねん)
あまりにもブランクが空きすぎて、あれは初版にて廃止になったと思われた方も多いでしょう。
私もそう思いました。

日本では、新型インフルエンザが今にも勃発しかねないと不安を煽る食品会社とスーパーの策略の下に、買いだめが奨励されているようですが、アメリカではそういう噂を聞かないのは何故だ?

ああ、そうだ。アメリカ人の家にあるフードパントリー(食料貯蔵用の棚)や、ガレージにある2台目の大型冷凍冷蔵庫の中には、恐らく2ヶ月やそこらは十分に持つだけの食品が常に詰まってますからね。量は2か月分でも、不二家じゃないけど賞味期限の切れたものを除くと大してないかも。

いや、しかし。数年前にアメリカのおばあちゃん(留学時代のホストファミリーの祖母)が老人専用マンションに移ったので、元いた家の冷凍庫をお母さんと大掃除した時のこと。2年前の牛肉の塊とかワンサカ出てきた。捨てるのかなと思いきや、立派にその夜の食卓を飾っていた・・・。恐るべしアメリカ人。

コネチカット通信 その2

次回は9月ごろなどと言っていたのに、あれよあれよと言ううちに月日は流れてしまった。では、8月からの3ヶ月を振り返ってみよう。

(げじげじ)
ゲジゲジなる生物を皆様はご存知だろうか? ゲジゲジ眉などと「可愛く」表現されたりするが、実物は初めて出会ったときには心臓が止まるかと思うようなグロテスクな様相。ここに来て間もないある日、例の怪しげな地下室に続くドアを開けた途端、右手の壁をさ、さ、さっとすばやく動くグレーの物体が目の隅に止まった。一瞬蜘蛛かなと思ったのだが、その目にも止まらぬスピード(止まってるがな)、何百本もあろうかという足の数(ほんまは30本)・・・ゲ、ゲジゲジではないか!

なぜか私はムカデとゲジゲジの違いを知っていた。その昔、一度だけどこかで見た気がする。が、断じて自分の居住空間の中ではなかった。夫が帰宅するや否や、「ゲジゲジが出てん!」(なんでこんな家借りてん!という意味。) 夫曰く、「あ、この前テレビ見てたら、足下を走ってたわ。」 冗談やない!

その夜、シナコが寝室で悲鳴をあげた。あんまりきゃーきゃーうるさいので覗いてみると、「へ、変なものが走った!」 見てみるとゲジゲジではないか! 夫を呼んで処分してもらう。日夜ゲジゲジの恐怖におののいていなければならないなんて、絶対にこんな家には住めない!

蜘蛛の巣だらけで、乱雑に不用品が置かれ、湿気に混じって、えも言われぬ臭気が漂っている地下室。回りの壁に沿ってありとあらゆる不用品と見受けられるものが放置されているガレージ。ファミリールームの壁と床の間には1センチほどの隙間があり、「虫様熱烈歓迎」状態。ファミリールームは後から増築された部分で、その昔はパティオだったらしい。床はレンガ。そのレンガのあちこちが欠けて、石ころのように転がっている。案の定、隙間からは蜘蛛が入り放題で、部屋の周りには蜘蛛の巣がいっぱい。ようやく掃除機は買ったものの、自分は気持ち悪いものだから、お小遣いあげるとそそのかし、キニコに掃除機をかけさせた。掃除機の先に蜘蛛の巣が団子になった・・・。しかしその甲斐なく間もなくまた新しい蜘蛛の巣が・・・。

引き渡された家の状態に不満を抱いていた私は、危険なゲジゲジが出没するような家など許せない!大家がちゃんと掃除しなかったからだ!と憤慨し、直接大家に電話で抗議。しかし、「ゲジゲジや蜘蛛なんてこの辺りでは当たり前の生物。共存できないようなら、出て行くしかないですね。僕は広島に住んでたことあるけど、日本にも蜘蛛はいましたよ」と高飛車な(?)大家の態度。

さんざん騒ぎまわっていた頃、日本の知人からゲジゲジについての知識を入手。判ったこと。まずゲジゲジは滅多に人間を攻撃しないし、毒はない。そ、怖がることはないのだ。また他の虫を食べることから、益虫とも言える。暗いところ、湿ったところを好む。つまり我が家、特に地下室はゲジゲジの恰好の棲家なのだ。適度な湿度(自動設定になっている除湿機が24時間休む間もなく稼動している!)、暗い、餌となる蜘蛛やカマドウマが豊富。最後の餌が豊富なのは、大家がちゃんと掃除しなかったせいだ! 自分ではどうしても怖くて気持ち悪くて掃除する気にもならない。そこでとうとう業者を雇って地下室を掃除してもらうことに。そして交渉の末、その掃除代だけは大家さんに持ってもらった。

しかし、その直後、私たちの寝室にゲジゲジが、シナコの寝室にも、バスルームにも出没。先日はベッドカバーをめくるとあわてて走り去った。ふん、またゲジゲジか、とティッシュでつまんでポイっとトイレに流せるくらい、私も成長したもんだ。

大家が言ったとおり、蜘蛛やゲジゲジなんてどこの家にも出るらしい。
「あら、ゲジゲジなんていいですよ。うちなんて、蛇が出ます」と、ある日本人の奥様。良かった、うちに蛇がいなくて。でも屋根裏でカサコソ音がするから、多分ねずみが住んでいると思う。でも毒を撒いちゃいけないらしい。毒を食べたねずみが、壁の間や屋根裏で死んで腐って・・・大変になるそう。ねずみはネズミ捕りを仕掛けて捕まえるらしい。ってことは、捕まえたら誰かがそれを捨てなければならない・・・。我が家には、我こそはと名乗りを上げる勇者がいないので、今のところねずみは飼っていると思うことにしている。あ、そう言えばジョダオはラットテリアだ。ジョダを屋根裏に放すべきか・・・。

ゲジゲジについてもっと知ってみたいという方は、「ウィキペディア」でお調べください。

(家)
掃除のあと、地下室の臭気は消え、ガレージも夫に不用品を納屋に押し込んでもらって、すっきりした。そうしてみると築80年と古いけど、うん、この家悪くないじゃない。なんと言っても一番のメリットは駅に至近と言うこと。

日本ではバス停まで徒歩8分、駅までバス20分、東京駅まで快速なら40分弱・・・、乗り継ぎを入れると通勤に2時間近くかかっていたわけだから、駅まで徒歩2分、快速でマンハッタンまで45分、鈍行で1時間と言うこの家の立地は素ん晴らしい! 

しかも駅に近いと言うとごちゃごちゃした繁華街を想像すると思うけれど、まず駅は無人。(ちなみに沿線の駅はみんな無人駅、検札は乗車後に車掌さんが回ってくる。) 沿線のほかの駅前はにぎやかなところも多いが、私の知っている限り、うちの最寄駅とひとつ手前の駅は、駅の周りにはなーんにもない。静寂そのもの。あるのはただホームと、ホームの周りに駐車スペースがあるだけ。券売機は下りホームにひとつ。コンビニはおろか、飲み物の自販機すらない。(自販機はそもそもアメリカの街角ではほぼ皆無。きっと盗み目的で壊されるのが落ちだからでしょ。)だから逆に夜は怖い。外灯すらほとんどない真っ暗な中を家まで2分の道のりは、ちょっと不気味。

ところで初っ端はお互いけんか腰になったものの、その後大家さんとは和解。この大家さん、家の手入れを人に任せるのが嫌なのか、お金を払うのが嫌なのか(多分かなりの確率で後者)、何でも自分でやる。車で5時間かかるニューハンプシャーに住んでいるので、何かが壊れたと言ってもすぐに走ってきてくれる距離ではないのだが、言えばたいていのものは自分で修理してくれる。だいたい1ヶ月に1回の割合でやってきて、あちこち修理したり、樋の掃除をし、植木を切って帰って行く。

先日、私たちの寝室のバスルームのシャワーの切り替えがバカになった。湯は蛇口からしか出ない。大家が着てくれるまでの数日間、夫と私は、這いつくばってバスルームの蛇口に頭を突っ込んで髪を洗ったのである。丁度、キニコが友達を連れて帰宅していたときで、もう一つのバスルームは子供たちに占領されていたから。この時も、大家はシャワーのハンドルを外して、中のナントカという部品が磨耗している・・・とか専門的な話をしながら修理してくれた。彼は元パイロット。今はなきアメリカの某民間航空のパイロットだった当時、通勤に近いようにこの家を買ったらしい。大金持ちなんだから、自分で何でもやらなくても、人任せにできるはずなのに、屋根の上に登って樋に詰まった落ち葉や枯れ枝を掃除し、風呂場の隙間にコーキング剤を塗って水漏れを防ぎ、台所のコンロの横のカウンタートップが水を含んで波打ってしまったのを万力で抑えて、その上から自分で削ってきた棒を打ち込んでまっすぐに伸ばしているのを見て、とても感心してしまった。きっとこの家は彼にとってはプラモデルの延長なのだろう。

(グリニッチの裕福さ)
「あの、天文台があるところ?」と、わが母が言ったグリニッチはイギリス。マンハッタンにもグリニッチビレッジと呼ばれる地区があるけれど、これも別物。コネチカット州のグリニッチは富裕な地域として知られている。想像を絶するようなお金持ちがいっぱいいて、みんな何げに金持ちで、私には不思議で仕方がない。羨ましいというのではなく、ただ茫然としてしまう。

特に山側、海側に大きなお屋敷がたくさんあり、ほんまにお金持ちーという人たちがわんさかいる。ウィキペディアで調べたら、「古くからの高級住宅地で数多くのスターがここに住んでいる」とあった。

シナコをお友達の家に送っていった時のこと。山の手へ向かう道の両側には、広大な敷地にゲートがあるような家々が立ち並ぶ。お友達の家は巨大な御殿である隣家と比べると小さく見えたが、それでも我が家の数倍はありそう。ドアが開いて中からお母さんが出迎えてくれた。一体どこへお出かけなのかしらと思う、私のスタンダードでは明らかに「よそ行き」の出で立ち。休日の午後のこと。送って行った私たち夫婦は、Tシャツにジーパン。開いたドアの向こうに見えるのは、玄関ホール。猫足の腰掛や絵画のかかったホールのある家は、この界隈では普通らしい。

夕方、シナコが興奮して帰ってきた。「めっちゃ大きい家だった。お父さんはもうリタイアしてるんだって。」 そのお父さんは夫より年下。「ファイナンシャル何とかという仕事をしてたんだって。クリスティーナが今度はうちに遊びに来たいって言ったけど、うちは狭くて汚くて恥ずかしいから、来ないほうがいいよって言っといた。」 「呼ばないと呼んでもらえなくなるよ。」といったものの、私がことあるごとに「うちはビンボーだから」と冗談めかして言っていたのがいけなかったか。

夏休みにキニコが遊びに行ったクラスメートの家も豪邸だったそうな。「ガレージが4台分あってね、家の中にはDVDを見るシアタールームがあったの。テニスコートもあった。3人のお兄さんがみんな家を出てしまって家が広すぎるってお母さんが言うので、新しい家をリバーサイドの海の見えるところに建設中なんだって。」 その家は売りに出していると言う。一体そんな豪邸が幾らするのか、興味本位で不動産広告を調べてみた。どのくらいの値段から始めていいのか検討がつかなかったので地道に100万ドル(1億円余り)から始めたのだが、この金額だとガレージが1台あるかないか。しかも膨大な数の売り物件があって、途中で疲れて500万ドルまで飛ばした。が、これでも2台止まり。しつこく調べていると、700万ドル台で初めて4台分のガレージ付の家が1軒出てきた。875万ドルまで行ったところで、メディアルーム(正式にはこう呼ぶらしい)有り、テニスコート付きという家を見つけた。このあたりからこの手の家が頻出。それにしても、どの家もため息が出るほどゴージャス。室内の写真は、ホワイトハウスか、迎賓館か。いったい何人使用人が要ることやら。

誤解のないように書くと、グリニッチにある家が全て豪邸というわけではないし、我が家のように小さい家もたくさんある。我が家の大きさは今のアメリカの標準に照らし合わせるとかなり小さい。しかも1920年代に建てられたそうでかなり古い。

シナコは「日本人駐在員」の家というものは、オハイオ時代の日本人のお友達の家みたいなところと想像していたものだから、それとのギャップに納得が行かないようだ。「ママ、お願いだから引っ越そうよー」と目に涙を溜めて嘆願する。引っ越すたって支払可能な額が決まってるんだからアップグレードはできないのだ、ということが理解できないらしい。我が家はこの辺りの日本人駐在員の住宅事情とサイズといいレベルといい似たり寄ったり。アメリカ人の友達の家と比較して「恥ずかしい」と感じてしまうのも、うちの子だけではないらしい。

まだ住む家を探していたとき、条件は良い学区であることだった。子供さえいなければ、マンハッタンにでも住んで、にわかニューヨーカーの生活を満喫できたのに・・・。しかしニューヨーク市の普通の公立校はいろいろ問題があるから高校生になるシナコを通わせるには心配があるので、私のわがままを通すわけには行かない。ニューヨーク市には実は有名なところで3校、アイビーリーグに卒業生をたくさん送り込んでいる優秀な公立高校もある。しかし入学資格は厳しい上、前年の11月には入試が終了している。

州によって多少事情は異なるが、基本的にアメリカの公立学校の資金の殆どは、地域の固定資産税でまかなわれている。学校の施設も先生の給与もそうだから、必然的に「不動産の高いところ=良い学区」という等式が成り立つ。

夫の通勤の便と安全性、教育レベルを考えると、絞られた地区は自ずと日本人駐在員の多い地区になる。良い学区に住むためには、高い家賃を払わねばならないことは覚悟していたものの、ピークは過ぎたと言えまだバブル頂点の価格がまかり通っているニューヨーク近郊で、予算内で気に入った物件を見つけるのは至難の業。せっかくいい家が見つかっても、ガレージがないとか(冬場に困る)、スクールバス圏外で親が送り迎えしないといけない(そんなのは真っ平ゴメン)とか、たまに「おっ、理想的・・・」と思ったら勿論予算オーバー、などなど、なかなかこれはと思える物件が見つからなかった。(おまけにうちには犬がいる。) 当初はマンハッタンにより近いNY州のウェストチェスター郡を考えていたが良い物件が見つからず、範囲をコネチカットにまで広げた。電車で20分程遠くなる。

グリニッチは裕福な学区ゆえ教育施設は申し分ないものの、何故か学力的には、決して低くはないものの、先の地区に比べると少し劣る。それは何故か。私なりに考えた理由はふたつ。ひとつは学区内の勉強のできるお金持ちの子供達は、プレップスクールに行ってしまうこと。現にキニコの学校にも住所がグリニッチという生徒がかなりいるし、シナコの友達で兄弟姉妹がプレップスクールという子も多い。ふたつ目はグリニッチ校区には、所謂グリニッチ地区とは雰囲気の違う地区があり、その辺りは街の雰囲気もがらりと違う。グリニッチ高校で、無料ランチを食べている生徒の比率が数パーセントあったが、当初希望していたスカースデール高校もエッジモント高校も無料ランチの生徒はゼロだった。両校のあるスカースデール市も、グリニッチに負けず劣らず富裕層が多いのに、不思議なことに、少なくとも新季の学校に関する限り、スカースデール出身の生徒はゼロ。公立校のレベルが高いからプレップスクールに入れるまでもないのだろう。

まだ日本にいたときスカースデールの不動産担当者と電話で話したことを思い出した。彼女曰く、「スカースデールに住まなくても学校に入れることは可能ですよ。うちの娘もエッジモント校ですけれど、越境なんです。住民じゃない場合は、月額1000ドル払わないといけないの。」 なんと私学並みの費用。そんな余分なお金がないから適当な家が見つからないと言うのに・・・。

ということで、ゲジゲジの館をめでたく夫が見つけてくれたことには、感謝こそすれ、文句を言ってはいけないのであった、と反省。

(シナコの学校)
入学にはありとあらゆる予防接種の証明を学校に提出しなければならない。馬鹿な私は、何を考えたか、母子手帳を船便の荷物に入れてしまった。これがないと予防接種の記録がないので、シナコは入学できない!幸いオハイオの学校からもらっていた成績証明書などの書類一式の中に、当時の予防接種証明のコピーが入っていて難を逃れた。これがなければ、船便が到着した9月半ばまで、シナコは学校に行けなかったのだ。つまり彼女が毎日家にいるという、拷問のような日々を私は送らねばならないところだったのだ!

シナコの健康診断の結果と予防接種証明を、学校の看護婦に提出に行った夏休みのある日。看護婦と話をする女性の声がする。
「バージン諸島はアメリカの領土なんですよ。そこで受けた健康診断が有効じゃないなんて、おかしいじゃないですか」
「そうは言われましても、規定では50州内となっていますし、前例がありませんので・・・。」と看護婦。
「わざわざ地元の医者に出向いて、このために健康診断を受けて来ましたのに」と先ほどの女性。生徒の母親らしい。
「あの、私の一存では何とも。市の方と相談しましてから・・・。」

なるほど、休暇でバージン諸島に行ってそこで健康診断を受けたらしい。オハイオでも同じだったが、放課後の運動クラブに入るには、医師の健康診断書が必要。これがないと部活ができないのだ。夏休みの後半から練習は始まるので、この頃学校の看護室は証明書を届ける人たちでにぎわっていた。

それにしても休暇でバージン諸島か。後に詩奈が社会の時間に、「海外に行ったことのある人?」という質問に、クラス全員が挙手したと言う。「オハイオのときはオハイオ州から出たことないって子もいたのに、びっくりした。」 看護婦の部屋から出てきたお母さんも見るからにリッチそうな人。何かとすぐにオハイオと比較してしまうが、標準的なアメリカとも言えたオハイオとグリニッチを比較するのは間違っているのだろう。それにしてもこの辺りの人はみんな、どこ行くのだろう、と思うほど普段からおしゃれしている。犬の散歩をしている人ですら、着飾っているように私には見えるのだ(あんたが、小汚いねん)。

10月のある夜、シナコが通う高校のオープンハウス(親が各教室を回って教科の先生たちと会う日)があった。オハイオ時代、学校の懇談会や演奏会には、トレーナーやTシャツにジーパンと相場が決まっていた。しかしそれではまずいんではないか・・・・そんな気がした私たち夫婦は、浮かないように精一杯小奇麗な恰好で学校に出かけた・・・。果たして正解。男性はドレスシャツにスラックス、女性はスカートにパンプスというところが主流であった。

シナコの高校は2700人の生徒がいるマンモス校。それゆえ全校を5つの「ハウス」に縦割りにして、それぞれにハウスマスターというハウスごとの主任の先生がおり、ハウス専属のカウンセラーがいる。4年間ハウスは変わることがない。こうすることによって、友達も出来やすくなり、先生のほうも生徒を覚えやすくする、というのが大前提だが、全ての授業を各ハウスごとに設けるわけには行かないので、特殊なクラスは全てハウスを超えることになる。果たして詩奈の場合は、英語と社会以外は全部ハウスを超えた生徒が交じり合ったクラスになり、5分の休憩時間に学校の端から端まで必死で移動せねばならず、トイレに行く時間もないらしい。

(ビーチパス)
グリニッチに住む得点のひとつにビーチがある。夫も不動産会社に、「ここはビーチがありますから」としきりに勧められたそう。町には3つのパブリックビーチがある。シーズン中はお金を払えば入場できるが、市民でなければならない。もしくは市民と一緒でなければ入れない。1回の入場料は10ドルだから決して安くない。しかし市民ならシーズンパスを買うことができ、これが1シーズン大人1人27ドル、15歳未満は5ドル。しかし、たかかビーチパスと侮ってはいけない。これは市民の特権であるのだから、そう易々と手には入れられないのである。

引っ越して間もなく、ビーチに行くためにビーチパスを買いに市役所に行った。市民であることを証明するために、賃貸契約書、光熱費などの領収書2通が必要なのは知っていた。だが、賃貸契約書には私の名前は掲載されていないので、その場合は自分の名前と住所の入った身分証明書が別途必要とのこと。つまり免許書が必要になる。

きょうびアメリカで免許書を取るのは至難の業。コネチカット州では日本の免許書や国際免許からの書き換えは出来ず、ペーパーテストと運転テストを受けて新たに免許を取得することになる。またビザ関連の書類も提出しなければならない。手続きがたいへんなので半年以上経ってもまだ国際免許で運転している人すらいる。私の場合は、オハイオ州の免許証が有効だったので、テストなしで免許の書き換えが可能だった。ビーチパス欲しさに、翌日早速免許証を取りに出かけた。だが配偶者の雇用証明が必要、と門前払い。ようやく雇用証明を手に再び免許を取りに行った頃は、夏休みも終わりに近づいており、晴れてビーチパスを手にした時は既にシーズンも残りあとわずか。パスを手にすることに必死になっていたけど考えてみたらもったいないことした(考えんでもわかるやろ。) そこで少しでも元を取ろうと、パスが有効の最後の週末に夫と必死でビーチ巡りをした。(翌週からは無料で誰でも入れるのだ・・・。)

賃貸契約、住所の入った光熱費の請求書2通と言えば、シナコの入学手続き時にも必要だった。越境入学対策なのだろう。少なくともオハイオでは編入手続きにそこまで厳格な要求はされなかったように思う。そういえばオハイオの大家さんは賃貸契約すら作らなかった。「あんた、信用してるから、別にそんなもの要らんでしょ?」でおしまい。でもこれはオハイオというよりあのおじさんの気質だったのだろう。

(体型)
ついつい何でもオハイオと比較してしまうけれど、カリフォルニアからオハイオに引っ越したときは地理的、気候的な差は感じても、それほど二つの州の地域差を感じることはなかった。しかしオハイオと東海岸はかなり様子が違う。

まず、なんと言っても体格。オハイオはアメリカ中で一番肥満度が高い中西部にある。あまりに太っている人が多いので、日本から持ってきた洋服が入らなくなった後も、私を含め日本人は自分が痩せていると勘違いしてしまう。ウォルマートなどのスーパーでは、体重が重くて歩けない人たちが、電動カートにまたがり、運転席の前に取り付けられたカートに山と盛られたインスタントフード、ソフトドリンク、ドーナツ、スナック菓子に前方の視界を遮られながら通路を移動している。

それがここではウォルマートは10マイルほど北のノーウォークまで行かないとない。しかも電動カートがうようよなんてしていない。あっても1,2台だ。

東海岸の町では人々が歩いている。オハイオじゃ「歩くために歩いている人」以外は見かけなかったのに、ここでは「目的地に到達するための手段」として歩いている人がいる。日本じゃ当たり前の風景だけれど、車社会であるアメリカではちょっと不思議に思った。そういえばオハイオで歩いていた人達は、だいたい別に歩かなくてもいい種類の人達で、電動カートにまたがっていた人たちこそ、ちっとは歩けば、という体型だったな。

(スターバックス)
以前に雑誌で読んだことがある。スタバの方針として、いかに儲けが期待できても、「おしゃれ」じゃない場所には出店はしない。逆におしゃれな場所なら、通りの反対側に既に一店あったとしても、向い側にもう一店舗を出すこともいとわないと言う。な~るほど。オハイオ在住中は、最寄のスタバに行き着くまでに最低40分かかった。千葉のマンションの時も悲しいかな近隣にはなかった・・・。ところがグリニッチはどうだ。車で5分以内の距離に2軒、10分以内だと少なくとも4軒はあるではないか。(この「車で10分」の距離がオハイオとコネチカットでは大いに違う。オハイオで10分と言う距離は、ここでは実に30分かかるのだ!)

(秋)
紅葉の季節もとうの昔に終わり、落葉もそろそろ一段落するかという今日この頃。このところの週末の仕事は落ち葉集め。落ち葉が散り始めたある週末、夫と二人でサラエで掃き集めたのだが、我が家の庭は決して広くはないのに、前の庭だけで作業に2時間も要してしまった。おまけに夫の手には豆ができ、「もう毎週こんなことやってらんない。ブローワーを買おう。」 

というわけで、早速ハードウェアストアにブローワーを買いに行った。ブローワーとは掃除機の逆の原理で風を吹くことで落ち葉を寄せ集めていく。集めた落ち葉は、家の前の道路脇に固めておけば、そのうち市が回収に来ることになっている。そのうち、が何時なのか、実はよく知らないのだが。1ヶ月に1度くらいは来るのかな・・・。うちが落ち葉を外に出してからそういえば未だ一度も来ていない。もう2回分の山なのに。でも暫くすると徐々に嵩が減って行くし、意外に再び風で飛ばされないものなのだ。

以上をもって今回のコネチカット通信はおしまい。オハイオとの比較に終始してしまったようだが、オハイオをご存じない方にはあんまり良く分からなかったかも。ひとくちにアメリカと言っても広いと言うことです。

コネチカット通信 その1

2006年8月(到着直後)

4月に夫がニューヨーク駐在となり、オハイオから戻ったのが去年の8月7日だったから、1年に2日足らずで再びアメリカに引っ越したことになる。

8月5日に無事アメリカに到着。午後4時過ぎに成田を出発し、同日の午後5時過ぎに到着たのでとても得した気分。心配した愛犬ジョダオも元気だが、どうやら彼が一番時差ぼけに悩まされている模様。毎朝2時ごろに目覚め、皆を起こしにやって来る。

生まれて初めて乗る長距離のファーストクラスはやはり快適だった。しかしどうしたら手元のランプが付くのか判明するまでかなり時間がかかり(結局スッチーに聞いた)、椅子が前に移動するのがわかったのは着陸直前。 それまでずっと「私みたいに小柄な人には全部遠くて不便やなー」と思ってた。と、子供達に話して馬鹿にされた。赴任は通常ビジネスクラスなのだが、夫の無料アップグレード券でアップグレードしてもらった。

お陰で空港でも至れり尽くせり。超過荷物に犬までいてどうなる事やら心配していたが、万事スムーズに運んだ。犬はチェックインぎりぎりまで手元に置き、出発間際に散歩にも連れ出せた。ファーストクラス用ラウンジでは、ナプキンに包んで食べ物を持ち帰ることこそしなかったが、足繁く食べ物のあるところに通った。子供達がファーストクラスのキャビンの席についた途端、前の席の乗客が嫌そうな顔で振り返ったので、「えぇとこの子みたいに静かにしぃや」とカツを入れるのも忘れなかった。心配には及ばず、席と席の間の程よい距離のかいあって、二人とも喧嘩をすることもなく、ビデオを見ながら爆睡。静かなものだった。

ところで成田空港内に最近ペットホテルがオープンしたのをご存知だろうか。引越しの都合で最後の2泊は成田だったから、犬もペットホテルに預けなければならなかった。ペットホテルの人はスーツ姿で犬を受け取ったり引き渡したり。そこいらのホテルを凌ぐ丁寧な物腰に言葉遣いで、お客が出て行くまで慇懃に頭を下げて見送られたりすると、正直言って奇異に感じた。ペットホテル用の駐車スペースには車が一杯だったので、ここに預けて海外旅行をしている人が多いのだろう。中型犬のジョダオで一泊4000円。下手すると人間様の旅費より犬のほうが高くついたりして。ドッグランやペット用エクササイズルームなんかもあって、目に入れても痛くないほどペットを可愛がっている人にとっては嬉しいだろう。ちなみに隣が獣医で、出国前に必要な健康診断もここでお願いできたから、我が家のようにペットを伴った引越しにも便利だ。

「ニューヨークに引っ越す」と豪語しておりましたが、こちらでもまたまた都落ち。都内ならずNY州内には手ごろな物件が見つからず、お隣のコネチカット州に家を借りた。しかし駅まで徒歩2分、電車でマンハッタンのグランドセントラル駅まで快速で45分(鈍行で1時間)と、バス停まで徒歩8分、バス20分、快速で東京まで35分の稲毛のマンションに比べると、当然今の立地の方に軍配があがる。

新しい我が家は3ベッドルームにリビングとファミリールームがある、築80年の平屋。日本と比較すると決して狭いとは言えないが、現在のアメリカの標準に照らし合わせると小さい家だ。日本の倉庫に預けられる荷物の量に限度があり、はたまたアメリカの一戸建てを想定して膨大な量の荷物を送ったのだが、稲毛のマンションより収納スペースが少ないのは誤算だった。9月頭に到着予定の船便116箱をいかに収めるかが、目下の頭痛の種。

主寝室のクローゼットと廊下のクローゼットは、1週間だけ先住民である男イメルダの夫の洋服と靴で既に一杯。これからまだまだ彼の冬物が到着するし、私の服だって結構ある。地下にはコンクリートの壁がむき出し、天井の桟や配線があらわなunfinished(未完成)の地下室があるのだが、収納はこのスペースをどう有効利用できるかにかかっている。しかし湿った臭いが漂い、不用品(古いコンロ、洗濯機、ペンキ、箱類、棚など)が散在する地下室には正直言って余り近寄りたくない。丸く掃除してあるだけで隅々にくもの巣や土埃。絶対に虫はいるだろうし動物の糞もあるにちがいない。

外には塀で囲まれた裏庭があり、ジョダはご満悦。時々ウサギやリスが走って、時差ぼけでだらけた彼を適度に興奮させてくれている。

子供達のほうは日本に居た時と変わらずだらだらしている。立派なベッドルームが出来たにもかかわらず、荷物を片付けるでもなく、相変わらず二人はスーツケースの中から物を取り出し、脱いだものをその周りに散らかしている。アメリカに戻ったので、オハイオ時代に築かれた「自分の物は自分で洗濯」ルールの復活。早速キニコは昨日洗濯していたが、シナコは着る物が底をつくまで粘るのだろう。オハイオ時代シナコは時々洗濯籠から取り出してみては、臭いをかいで、大丈夫と踏んだら再び着たりしていた。(もう年頃なんだから、そんなことやめぃ!)

我が家のあるあたりはこじんまりとした家が多い。が、ちょっと行くと映画に出てきそうな豪邸がたくさんある。Greenwich、特にOld Greenwichはお金持ちの住んでいるところとして知られているようで、キニコの学校にもこのあたり出身の子が多いそう。キニコは家からは通えないので、今迄通り寮生活だ。学費が高いので、シナコが行くことになっている公立高校に替わってくれないかと提案(懇願)したのだが、夫とキニコに却下された。キニコの学校もコネチカット州だが、マサチューセッツ州とニューヨーク州に隣接する北西の隅なので、ここから車で1時間半あまり。JFK空港から我が家までは40マイル(65キロ)ほどだが、東京と同じく渋滞が多く、到着した日も2時間近くかかった。オハイオの40マイル(60キロあまり)なんてすぐそこだったのに・・・と改めて思う。

今朝から夫は一泊のメキシコ出張で、帰宅は明日の夜中だそう。少なくとも2週間に1度は出張に出かける必要があり、日本にいたときより仕事は忙しい。でも日本より通勤の負担は軽減されている。出張も空港と自宅の移動にはハイヤーが家まで迎えに来てくれる。

最後は我が家の車。10年目の車検を5月に通したばかりの愛車オデッセイを、出発前日に手放し(購入先のホンダプリモが8万円で引き取ってくれた)、こちらでも新車のオデッセイを購入。日本のオデッセイより一回り大きく、両側がスライドドアになっている。快適だが、前がどのくらい出っ張っているのかわからなくて恐る恐る駐車している。バンパーをこするのも時間の問題だろう。

好評を博した(?)リヤド通信でしたが、当時の読者より、是非今回もコネチカット通信を書いて欲しいとリクエストがあり、到着のご挨拶を兼ねてコネチカット通信その1です。サウジ時代ほど珍事が起きるとは思えないけれど、気付いた事を書き込むように致します。

2007年5月16日水曜日

はじめの一歩


ジョダオです。
ラットテリア(♂)で、もうすぐ5歳。
日本からコネチカットに越して来た。その前はオハイオに住んでいた。だから、太平洋を2回も横断したことになる。

毎日することないから、ぐうたらしてる。
マンション暮らしだった日本と違って、だてに小さい庭があるもんだから、あんまし散歩に連れて行ってもらえない。お陰で最近、中年腹になってきちゃった。

ボク以上にぐうたらなのが、ここのママちゃん。ちょっと信じられない。いや、ママちゃんのみならず、この家族、みんなトンデモナイ。

長女のキニコは、僕には一番優しいんだけど、最近は生きてるんだか死んでるんだか、全く音沙汰なし。次女のシナコはマヌケが服を着て歩いているみたい。ほんとにオトボケ少女なのだ。パパは「仕事」と称して、家に寄り付かない。でもその気持ち、ちょっぴりわかる。

こんな家族に飼われて、果たしてボクは幸せなんだろうか。