2009年4月30日木曜日

ジョダの健康診断

ほんまに、あほらしいと言うか、許せない! 高過ぎる!

去年の予防接種から丁度1年経ったので、ジョダを獣医に連れて行った。
あれもこれも必要だといわれ、「最低限にしてください」と言ったにもかかわらず、身体検査、血液検査、抗体検査、検便などをされ、耳も感染症に掛かっているからと、処置と投薬を受け、請求額は、な、な、なんと、513ドル!!!!!

人間の検診より高いんじゃないか。
去年、ジョダは保険に入ったので(これも月々30ドルも払っている!)、今回の検診と予防接種の費用の一部は後で戻ってくるのだが、それにしても513ドルとは!

ジョダの値段よりも全然高いから、毎年新しいジョダと首をすげ替えたほうが、つまり毎年新しい犬を買ったようが、よっぽど経済的・・・。

ちなみに、このところジョダの口臭がきつくなってきたので、歯石除去をしてもらいたかったのだが、確か当時のオハイオでの値段は、その時でも高~い!と思った1回100ドルだった。だから、やったことはなかったのに、今日値段を聞いたら、400ドルだって! やってらんない。 

もういい。ジョダよ、アンタが毎日歯磨きしなさい! (って、私がやってやらなきゃならないのね・・・)

2009年4月28日火曜日

春?

日本から戻ってからしばらく、朝の気温は一桁で、これでも春かとぼやいていたら、日曜はいきなり4月の最高気温の記録を塗り替えて32度! そして今日もまた30度だった。これじゃあ夏じゃない。

今日は嬉しくてカメラを持ってジョダの散歩に行った。花がとてもきれい。桜に似た花がたくさん咲いている。

















ガールズナイト

昨日は2ヶ月ぶりのガールズナイト。今回は全員(たって4人しかメンバーがおりませんが)揃って、グラセン(グランドセントラル駅)近くのperaと言う名の地中海料理屋さん。お野菜一杯だったし、ラムも含めて、どの料理もおいしかった!

シナコのコーラスの練習が、学校で夜にあったのだが、こちとらはレストランで7時前に待ち合わせなもんだから、早く学校に連れて行った。

送っていく車内で、
「アンタ、練習何時からだっけ?」
「6時半だよ」
「えー、えらい早う行くんやね」
「・・・って、ママが早く行けっていったんじゃん!」
その時5時15分。

だって一旦家に戻って、車を置いて駅まで歩くから、仕方ないのだ。5時58分の電車で、グラセンに着くのが6時45分。頑張って7時前に入れば、ハッピーアワーで、グラスワインかカクテルが安く飲める。急がなきゃ。(8時半のシナコの迎えは、コイオの役目)

女3人寄るとかしましいと言うが4人じゃどうなるかと言うと、6時45分から10時半過ぎまでみんなでカクテル一杯ずつとワインを2本空けて、おしゃべりに興じた。

グリニッチ駅に帰り着いたのは12時過ぎ。「酔っ払って家の前の坂を上がるのしんどい」とコイオ・タクシーを呼びつけた。

さて、Y子さんから聞いたオモロイ話。
英語があまり得意でないアメリカ育ちの若い日本人男性に、Y子さんが職場で言われた言葉。Y子さんが疲れた顔をしていたので、彼は多分、You look like a zombie と言いたかったと思われるのだが、
「化け物みたいですね~」

また、ある時、誰かが会社を辞めるに当たって、
「草葉の陰から応援していま~す」

2009年4月27日月曜日

Civic買いました!

先ほどディーラーまで歩いていって、シビックを買って帰りました!

じゃじゃ~ん! カロ子ちゃんに代わって、シビコちゃんの登場です。
ピカピカでしょ。

有料の保証延長を960ドル、プラスTAXで買わないかと聞かれ、「ホンダは壊れないから」と言って断って帰ってきたんだけど、2014年までのこれから5年間(または10万マイルまでだけど、あと5年で10万は走れないよ)全ての故障を保証してくれるというのだが・・・うーん、買うべきか、買わざるべきか。

あ、待てよ。これじゃディーラー保証だから、ここから引越したらおしまいだ。じゃ、やっぱり要らない。気がついて良かった~。

2009年4月26日日曜日

義母 (7)

コイオは今、空の人。あと数時間で帰宅する。

私は基本的に優しい人間じゃないから、心の傷ついたコイオを慰めてあげることはできないだろう。そう思うと、会うのもちょっと躊躇するくらい。

お義母さんのことは本当に気の毒だと思う。でも私はお義母さんが可哀相だという気持ちよりも、夫が可哀相だと思う気持ちのほうが強いのですよね。冷たいからでしょうね。

2週間前に日本にいた時に、孫のためや私のために一生懸命何かプレゼントを買おうとしてくれたお義母さんはもうどこにもいなくなってしまって、それはそれで悲しい気持ちもあるのだけど、やっぱりこうなってしまったことに対して、仕方がないと諦めがついてしまう冷たい自分がいる。

けれどきっと夫のほうは簡単に諦めはつかないだろうし、可哀相だと思う気持ちは非常に強いだろうし、その気持ちが理解出来ても同調できない自分を思うと、果たして私たち夫婦は今後上手く行くのだろうか・・・とそんなことすら心配になる。

これを言うと、傷ついている夫をさらに傷つけることになるのだろうけれど、やはり今からでは遅いんだ、と。本当はお母さんが元気だったときに、今の優しさを発揮してあげるべきだったのだ。腐るほどある有給休暇を彼は使ったことがなかった。今回のように2週間も会社を休むなんて、入社以来始めてじゃないか。本当はこの休暇はもっとずっと前に、お母さんが元気なときに取ってあげるべきだったんだよね。

姉からメールが来た。末娘の修学旅行の間に、長女も一緒に、私たちの両親を連れて、長男の転勤先の金沢に旅行に行くことにしたそう。
「今回のお母さんの姿を見ていたら、元気なうちに親孝行せな、と思った次第です。三日間、ケンカせんように利用者さんやと思って頑張ります。と、言ったら、『それは私が言いたいわ』と長女に言われました」やて。

ホンマにそうやなぁと思います。義母の状態になってから一生懸命いろいろやってあげても遅いのです。
このブログを読んだどなたかが、久々に電話してみよう、とか、久々に顔を見せに帰ろうかってことになるといいなと思います。

2009年4月25日土曜日

車が壊れた・・・

数日前、シナコから迎えに来いコールがあったのでカローラのカロ子で家を出ようと、ハンドルを回すと「ギギギ・・・」と怪しげな音がする。しかもハンドルがちょっと重たい。

むむ・・・パワステがいかれたかな・・・。
そのまま出かけて、ハンドルがもっともっと重たくなってしまったら・・・と思い、カロ子は諦めオデッセに乗り換えた。

修理に持っていくにも、車を持って行った後に家まで帰る足がないので、コイオが日本から戻るのを待たねばならない。

まあカロ子ちゃんは9年落ちだし、走行距離が10万マイル(16万キロ)を越えているから、そろそろあちこちガタが来るのは仕方がない。去年の秋口に、この車で冬が越せるか心配だったので買い換えようか迷ったのだが、キニコは夏に免許、シナコも仮免を取ったばかり。カロ子でしっかり練習してから買い換えるのが賢明だろうと見送った。

パワステの故障・・・原因は何かわからないけれど、ポンプだとすると修理に少なくとも500ドルはかかるだろう。このまま修理しないで下取りに出せるかな・・・。

冷やかしで、近くのホンダ・ディーラーを訪れることにした。買い換えるならホンダって決めてたから。私の車は主に、近場をうろうろするのと、子供たちが運転する車になるので、大きいのは要らない。サイズ的にはカロ子くらいが丁度いい。

当初はフィットを考えていたのだが、Insurance Institute for Highway Safetyが、小型で燃費が良く人気のある3機種(トヨタYaris、ダイムラーSmart ForTwo、ホンダFit)の衝突テストを行なったところ、障害物とのオフセット衝突では問題はなかったのだが、3機種ともに中型車との正面衝突では良い結果が出なかったと、つい先日ニュースで報じていたので、子供が運転することを考えてFitはやめた。

関連記事はこれ。アメリカのYarisは日本でヴィッツらしい。
http://autos.goo.ne.jp/news/society/article_123428.html

ホンダに行くと、何だかすごく活況だった。お客さんが一杯いてびっくり。私の担当をしてくれたのはインド人のおじさん。

「最近の売れ行きはどう?」
「結構、いいよ」

冷やかしで行ったのだが、結局、おじさんと一緒に3台も試乗してしまった。おじさんとのおしゃべりが楽しく、遠い所まで運転した。

「一台売って、幾らコミッションもらえるの?」(普通、そんなこと聞くか・・・)
「一台売れたら、75ドル」
「え、こんなこと言ったら悪いけど、1台売ってそれだけ? 新車でも中古でも?」
「新車でも、中古でも」
「へー! あ、でもそれはお給料に上乗せのボーナスってことね?」
「違うよ。お給料ってのはないの。15日間で300ドルもらえる。それだけ。」
「15日間で300ドルって、1日20ドル?」
「しかたないよ、この不況だから、何でもやらないと。幸い、僕の家内の稼ぎがいいんだ」

おじさんは53歳。大学生の息子と娘がいる。娘は寮に入っているが、息子はテキサスに住む兄の家族のところに同居しているそう。おじさんも2ヶ月前までテキサスに住んでいたが、奥さんの仕事がこちらになって、一緒に来たのだと言う。つまり、車販売暦2ヶ月。

「今日は何台売った?」
「今日はお天気がいいから、1台だけ。君の1台」(まだ、売れてないんですけど・・・)
「お天気がいいとダメなの?」
「うん、みんな遊びに行っちゃうからね」
「ふーん。じゃ、ここ15日間では?」
「12-3台かな。」
「へー、わりと売れるのね。1日1台くらい売れるんだ」
「1日に2,3台売れるときもあれば、全然売れないときもある」

おじさんの苗字はシンだった。

「シンってシーク教徒に多い名前だよね」
「お、シーク教を知ってるの? 聞いたことないって人が多いのに」
「神戸にはいっぱいインド人が住んでいたから。シークはターバン巻いてるんだよね」
「そうなんだ。でも、ここでターバン巻くと変な目で見られるし、ディーラーのマネージャーにも巻かないでって言われたから仕事中は巻かないの。合わせられることは、合わせないとね」
「髪の毛、生まれてから一度も切らないでしょ。でもあまり長くないのね」

おじさんの髪は背中の真ん中くらいまでしかなく、量も少なかった。

「ははは、若いころはもっと腰くらいまであったんだが、歳を取るとどんどん減って、短くなるんだ」

なんか、このおじさんが気に入ってしまった。

車も2008のCivicで気に入ったのがあった。走行距離はたったの11000。値段も2006のシビックと変わらない。新車を買うよりは随分安い。パワステが故障しているカロ子をそのままで下取りして、幾らになるか調べてもらった。Kelley Blue BookのFair状態での下取り価格より高い値段を提示してくれた。これなら、欲しいなぁ。

「でも、カローラの故障が、大掛かりな故障だったらだめだよ。何なら、今からカローラを取って来てみてもらう?」

と言うことで、一緒にカロ子を取りに行った。点検の結果、先ほどの提示価格でOKとのこと。
もうこうなると、そのまま買っちゃおうか・・・と一瞬思ったが、さすがコイオに一言の相談もなく車を買っちゃうのはなぁ。と言うことで、キャンセル可能なデポジットを払ってとりあえず押さえておいてもらい、明日コイオが戻ったら相談することにした。

なんやかんやで私に3時間半も付き合ってくれたから、おじさんに75ドル儲けさせてあげたいな。

2009年4月24日金曜日

義母 (6)

もう義母のことは「負のパワー」を撒き散らすだけなので書かないで置こうかとも思ったのですが、書き続けて欲しいという声もあったし、赤裸々に綴って、実際はこんなことが起きているのだと知ってもらったほうがいいのかもしれない、とも思います。書くことで自分の醜さを懺悔する気持ちもなきにしもあらず、です。

但しかなりおどろおどろしいので、こんな話を聞いて、気持ちが沈みたくないと言う方はこのタイトルのブログを飛ばして読まれることをお勧めします。

入院時の話を書いていませんでした。それは余りに壮絶だったからです。

認知症病棟と言うのは、ご存じない方もいらっしゃるかと思いますが、精神科に属します。義母が大阪で入院を予定していたのも、いわゆる精神病院でしたし、千葉の病院もそうです。ただし今は語弊があるので「精神病院」と言う言葉はどこも使っていませんが。ちなみに後で知ったのですが、大阪のほうの病院は、この手の病院では、西日本一と呼ばれているところだったそうです。

入院の日も義母には検診だと言って連れて行きました。認知症のテスト(長谷川式)ではかなりの高得点(14点=中度)を取り、「本来はここに入るべき人ではない」と医者にも言われたそうです。これは認知症のレベルが重度ではないと言う意味で、母の精神状態が安定していれば、と言う意味です。

母の精神状態が安定していない理由は、私たち子供たちにあることは間違いありません。ずっと独りで住まわせて、寂しい思いをさせて、それにちゃんと対応してやらなかった。認知症に対する知識不足から、母に対する対応も、実はやってはいけないことばかりをやっていた。その結果として、母の状態が不安定になってしまった。そして誰の手にも負えない状態になり、母を病院に送ったのです。

医者が義母に入院するように説得しましたが、納得するはずはありません。「今日は一旦大阪に帰って、また明日来ます」などと最初は言っていたようです。そのうち大声を張り上げ泣き叫び、最終的には医師の判断で5人の看護師に押さえつけられながら、安定剤を注射されました。そして病室に運ばれ、ベッドにくくりつけられたのです。

30分後、夫と義兄が部屋に行き、眼を覚ましましたが、2人を見ると再び興奮状態に陥ったので看護師に任せて、二人は病院を後にしました。

その翌日に夫が行ったときは、ぼーっとしていて、他の重度の入院患者と変わらぬ様子だったそうです。大阪にいた間も夫は毎日病院に電話はしていましたが、残念ながらこちらからの電話は患者に繋いでもらえず、看護師から様子を聞くことしかできません。患者のほうから公衆電話で電話をかけて来る以外は、電話で話すことはできないそうです。アメリカに戻った後のことを考えると、これはちょっと困ります。

義母は「息子が来るまで食べない」と言って、食事を拒否したりしているようですが、しばらくしてお腹が空くと食べているようです。夫がおとなしくなりましたかと尋ねると、おとなしくはないが入院時よりはおとなしい、と言われたそうです。

今日、夫は大阪から直接病院に行きました。お薬のせいだと思いますが、今回は自分では歩けない状態で、ひとりでベッドから起きることも出来なかったそうです。「息子さんが来るのを楽しみにしていた」と看護師さんが言っていたそうですが、夫の顔を見ると、夫のジャケットをつかんで急に泣きさけび始めました。「なんて言ってたかはわからなかったけど、寂しかったのでしょう」と夫が言っていました。出てきた夕食も一人で食べるのは難しく、話も要領を得なかったと。「しかたないね」と夫は言いましたが、その心中を思うと私の胸もつぶれそうです。

仕方がない、これしかない、と自分たちで言い訳しながらも、本当はそうじゃないこともわかっているから。本気で母親の面倒を見る気があれば、それこそ転職してでも日本に帰ることも出来る。世の中には実際に親の面倒を見るために仕事を辞めたり変わったりしている人々がいることも事実です。私たちは、いえ、少なくとも私は、そこまでは出来ません。

もしこれが自分の実の両親であれば、また違う話なのかもしれませんが。と、うちのオカンはこのブログを読んでいるから、希望の光を与えなければなりません・・・。

夫はこのブログは読んでいないけれど、私が赤裸々に母親のことを書いていると知ったら、気分を害するのでしょうね・・・。

日系人帰国支援金

主にブラジルからの日系労働者に日本政府が帰国費用を支給していることについて、昨日のニューヨークタイムズに記事が掲載されていた。このところ日本のニュースも見てなかったので、この記事で初めて知った。

この支援金を受けて帰国した労働者は同じステータス(日系人労働者)での「再入国は不可」とされていることに大いに疑問を持った。

そりゃ、一人当たり30万円、扶養家族は一人20万円の支援金は、帰国の航空券を購入した後のおつりも自分のものとなる(残額は帰国後に本人名義の現地の口座にドル建てで振り込まれる)のだから、この制度を利用して、少しばかり故郷で休暇を楽しんでまた直ぐに舞い戻る、なんてことを政府が懸念するのはわかるが、あまりに近視眼的過ぎないか。

今後景気が回復した折に、全く日本の経験のない人を受け入れるより、日本での生活経験、労働経験がある人を再び受け入れるほうが、日本側にとってもずっとメリットがあるはず。

恒久的に再入国出来ない期間を設定するのではなく、期間を限定すべきと言う声もあるようだが、私だったら次回日本に同じステータスで来る場合には、支援金を日本国に返金するというルールにするな。勿論無利子で。入国直後に返金するのではなく、次回の滞在中に返金すれば良い。そして、その次に一時帰国を含めて出国する迄に返金していなければ、その時に始めて「再入国不可」にすればいいのに。

でも、そんな管理をする方が大変だから、上げてしまって「もう来ないでね」って言うほうが簡単なんでしょうけど。

それにしても、この「日系人」に限定された労働許可と言うのも少し不思議な話。日本政府にしてみれば、おいしい話をして南米に移民させた人々に対する罪滅ぼしの一環なんでしょうね。

2009年4月23日木曜日

提案

飛行機に乗るたびに思うのだ。特に長距離で。

しかし、今日は飛行時間1時間の短距離だったにも関わらず、強くその必要性を感じた。

航空会社か、はたまた航空機の内装を開発する会社は、シートのクッションに「活性炭入り」を採用すべきだ!!!

いやこれはもう殆ど安全性の問題だ。だいたい私は鼻がいいのだ。いや、あれは、鼻がよくなくたって十分に臭ったはず。しかも頻繁だったのだから。中毒で死ぬかと思った。

しかも飛行機の中は空気が滞留していて、ニオイが時間をかけてゆーっくりとしか拡散しない。つまり周りの人間の苦しみは長引くわけである。

まぁシートクッションは、緊急時の浮きの役割を果たすわけだから、活性炭を入れる事によって、浮かなくなっちゃっても困る。

その場合は、是非「旅行用吸臭パンツ」か「吸臭パッド」を開発して欲しい。お尻の辺りにパッドをあてるか、洗濯可能なパッドつきパンツで、においを吸収するのである。

これで、おじさんたちは心置きなくガスをリークすることが出来、我慢して腹部爆発を起こすこともないだろうし、周りの乗客も、中毒死または呼吸停止による窒息死を回避することが出来る。

2009年4月22日水曜日

介護保険 (2)

清水由貴子の自殺で、介護の話もクローズアップされていると友人からメールが来た。

また別の友人からは、NHKの生活ほっとモーニング(平日毎朝)で、今は介護保険の企画を取り上げており、昨日は、認知症の妻が、寝たきりで人工透析をしなければならない夫を介護する(老老介護、認認介護)と、離婚して実家に帰ってきた一人娘が、働きながら認知症の母親を看る(シングル介護)についてやっていて、それぞれ壮絶だったとメールが来た。介護保険では、「家族と同居」の場合は、生活支援をしてくれないと言うのだ。

介護保険では、認定された介護度に応じて、「単位数」が割り当てられ、割り当てられた単位数の範囲で、サービスを受ければ、利用者の負担はその料金の1割となる。

具体的には、例えば義母の場合は「要介護1」なので、16580単位が割り当てられている。介護度が上がるたびに単位数は増え、要介護5なら35830単位。

「単位」で説明するより、実際の料金で説明したほうが分りやすいのだろうが、実は居住区により1単位の料金が変わる。都会では人件費が高いので割増しになり、1単位=100円にならず、106円とかに、変動するらしい。

16580単位と言うことは、1ヶ月約165800円までのサービスが受けられると言うこと。但し1割負担だから、割り当て単位を100%利用すれば、1割の16580円の利用料が発生する。

介護サービスは、身体介護と生活支援の二つに分類される。身体介護とは、利用者の身体に直接触れる介護で、排泄や入浴の介助など。生活支援とは掃除、洗濯、調理、買い物など。利用単位数は当然、身体介護のほうが高くなる。具体的には、身体介護は1時間408単位、生活支援は1時間208単位、デイサービスは1回700-800単位。

実際には、身体と生活のコンビネーションが多いし、夜や深夜は高くなるので、単位数は事細かに規定されている。ご興味のある方は、こちらをどうぞ。複雑すぎて、私は思わず閉じましたが。
http://www.osakakokuhoren.jp/in_kaigoN/pdf2006/SrveKaigo.pdf


で、最初に触れた同居家族がいる場合の話になる。
厚労省では、各都道府県に宛てた2007年12月20日の通達で、生活支援は基本的には「単身の世帯に属する利用者又ば家族若しくは親族と同居している利用者であって、当該家族等の障害、疾病等の理由により、当該利用者又は当該家族等が家事を行うことが困難であるものに対して行なわれる」が、「障害、疾病のほか、障害、疾病がない場合であっても、同様のやむを得ない事情により、家事が困難な場合に行われる」としている。さらに、「市町村においては、同居家族等の有無のみを判断基準として、一律に介護給付の支給の可否を機械的に判断しないようにされたい」と書いた。

では、何を持って「やむを得ない事情」とするのか。この解釈は、市町村によってばらつきがあるため、結局は実際に生活支援が必要な場合でも受けられない場合が多く、それだけ同居家族の負担が増している。

なぜ同居家族がいると受けられないかの理由は、そのサービスが利用者のためのサービスなのか、介護に関係のない家族の利便性のためのサービスなのか線引きが難しいからのようだ。例えばトイレ掃除。利用者がトイレを汚すため、トイレ掃除が必要だ。利用者専用のトイレなら話は別だが、通常トイレは同居家族も利用している。

もうひとつは国の資金。今はこうした「制約」があったり、介護保険の内容が一般には詳しく理解されていない。それでも既に介護保険は資金不足状態。制約がなくなり、皆がサービス内容に通じるようになったら、国債をどれだけ発行しても足りないんじゃないか。しかも、こんな少子高齢化に歯止めのかからない将来性の乏しい国の国債なんて、今後誰が買ってくれるのだろう。

介護保険以前は、家族が100%見なければならなかったことを思うと、保険が出来たこと自体は画期的なことだと思う。でも友人が、「結局、介護保険が『家族の介護ありき』を前提にした仕組みだから」と呟くように、子供にしても老人にしても「社会の子供」「社会の老人」と言う風には見なされていないのだ。

このまま行くと、誰も子供を産まなくなる。だって「産み損」なんだから。産めばそれだけ個人は制約を受ける。仕事もままならない。仕事をしていなければ、保育所も預かってくれない。24時間7日間、親だけで子供の世話をする。時間の制約のみならず、経済的な負担も大きい。教育費も家族だけが負担しなければならない。

また「子を産む」と言うことは「親になる」と言うことだ。親になると言うことは、子供に対して「介護の対象を造る」と言うことだ。苦労して大切なわが子を育てた結果、今度は自分たちはその大切なわが子の苦労の種になるのである。子供にそんな負担を強いるくらいなら、親にならないほうがいいと思う人が出てくるのは当然だろう。

こうして誰も子供を産まなくなり、この国からは誰もいなくなるのだ。

2009年4月21日火曜日

あほ

今日は、明日の仕事のための移動日。
雨だったが、嵐は昨夜で終わったようで、単に一日中小雨が降り続いていただけ。

でも12時過ぎに空港に着くと、1時半の私のフライトは30分遅れになっていた。お腹が空いたから、何か軽く食べようと唯一のレストランに入ったが、スープを頼むと「まだ準備中」。今日は寒くて、暖かいものが食べたかった。メニューを見ても、あまり食べたい物がなく、レストランを出た。結局マクドナルドでハンバーガーとコーヒーを買った。

掲示板を見ると、更に1時間遅れ。食事が終わってゲートに行く。ゲート変更になっていた。変更先のゲートに行く。しばらくすると「飛行機は到着していますが、クルー待ちです」とのアナウンス。さらに30分遅れ、3時発に変更になった。

飛行機のスケジュールが遅れ、クルーの労働時間が規定を超えるとそれ以上は仕事ができない。そこで別のクルーを手配しなければならなくなるのだ。天候などの場合は、殆どの便が遅れるため、クルーの手配が大変になる。

ふと、シラキューズの再来かと思った。1年余り前に、車で4時間ちょっとのところに飛行機で行き、キャンセルやなんやかやで10時間以上かかった。あの時は冷房が効きすぎて寒かった。今日は外の気温も低く、空港内もめちゃ寒い。あ、そう言えば、あの時と同じターミナル、同じゲートじゃん!!! 縁起悪~!

3時を回った。「クルーは揃っていますが、整備不良があり、出発時間は現段階では未定です」とのアナウンス。嘘でしょ・・・。今回の行き先は車で5時間余り。飛行機を選んだのは、目的地が飛行場の目と鼻の先なので、レンタカーすら必要ないから。

しかたがない、と思って、再び本の世界に戻ることにした。

「おくりびと」の元となった青木新門の「納棺夫日記」を読んでいた。これが面白い! 映画は見てないけれど、本も十分面白い!

4時。ふとゲート前の表示に目をやる。あれれ・・・? 私の飛行機の表示が消えている。また、ゲート変更になったのかな? あわてて、メインの表示板を見に行く。そこにも表示がない。おっかしいなぁ。キャンセルとも書いてないし。再びゲートに戻って、カウンターのお姉さんに聞く。

「あら、その飛行機なら、とっくに出ましたよ。3時37分に」
「えっ、嘘でしょ!? 私はこの目の前にずっと座って待ってたんですよ」

ほんとに、ゲート真正面、3メートルのところにいたのだ。

「お名前もお呼びしましたが」
「嘘っ!!」

アナウンスは聞き逃した可能性はあるけど、絶対名前は呼ばれてないよ。それか、とんでもない発音で呼ばれたか。

と言ういことで、なんとか6時発の最終便に振り替えてもらって、8時に無事到着しました。

くそっ。青木新門のせいだ!

義母 (5)

コイオが、母親の退院後の対応を検討するために、早速千葉のケアマネージャーとなる人に会う段取りをつけ、昨日の夕方、義兄嫁と一緒に話を聞いてきた。

そこでグループホームへの入居の可能性を話してきた。グループホームとは、重度でない認知症患者で、自分の身の回りのことが出来る人たちが少人数で暮らす形式を取っているところ。勿論そこには常時介護者もいるので、服薬管理もしてもらえるし、基本的には個室なので、義母も自分のペースで暮らすこともでき、協調性がなくても構わない。ただ、他人に危害や迷惑をかけてはならない。

義母の状態がどれくらい安定するか、それにどのくらい時間がかかるのか分らないが、早く落ち着いてくれて、義兄の家の近くのグループホームに入ることができればいいのだが。(義兄たちの住むところと、私たちの千葉のマンションは徒歩で5分の距離です。)

大阪の義母の家は、しばらく、そして恐らく今後ずっと空家となるので、今日から明後日までコイオは生ごみの処理と片付けをしに戻った。女の目がないと大変だと思うので、私の母にもちょっと手伝ってもらう。
 
コイオは、再び週末に千葉に戻り、見せてもらえるようなら、グループホームがどんなところか見学してくると言っている。日曜にはアメリカに戻る予定だが、短時間で目一杯がんばっているなぁと、ちょっと夫を見直した。

義母 (4)

月曜日、千葉の病院に入院しました。
検診と言って騙して連れて行ったのですが、やはり相当抵抗されました。

今日、夫が再びお見舞いに行きましたが、お薬のせいで、今度は他の入院患者と見分けがつかぬ様子だったと言うことです。

これまでの様子をブログで読んでいる方々が、義母のことをとても気にして下さっていて、何通もメールを頂きました。皆さん、暖かいメールをありがとうございます。この場を借りて御礼申し上げます。

私にとっては初めての体験で、自分が直面する問題は必ずしも私個人の問題に留まらず、今の社会の断面を伝えることになるのでは・・・と言う思い上がりから書き始めたわけですが、そんな生ぬるい話には終わりそうにありません。

それ以上に、今この話題を書き続けると、ブログを通して、相当の負のパワーを撒き散らしそうで、話題には相応しくないのかなと思い始めています。私の考えや、自分たちがやっていることに対しての非難を恐れて書きたくないわけではないのです。

私の中では、今はこれしかないと確信していました。少なくとも昨日までは。肉親である夫のほうは、母親にとっては最上の方法ではなかったにしろ、自分たちが対応出来る、考え得る中では、やはりこれしかなかったと思おうとしているようです。

入院期間がどのくらいになるのか、効果はどうなのか、義母は今後どうなってしまうのか。未知数だらけです。

この話を書いたあとに何時も思うのが、Life goes on... それでも人生は続きます。

物理的に離れているからでしょうが、こういうことがありながらも、私たちの普段の生活は今までと大差なく流れて行きます。罪悪感を感じる一方で、やはりそうじゃなきゃいけないとも思います。この事に全てのエネルギーを吸われてしまってはいけないと。(とどのつまりは、ジコチューって話ですが・・・)

2009年4月20日月曜日

今日は雨。あっ、稲光!

予報を見ると、明日と明後日は嵐。
どうしよう・・・。明後日、仕事があって、明日が移動日なんだけど、小型飛行機で1時間半の距離。
ヤバイ・・・飛行機が飛ぶかな。マイナーな町への便だから、そんなに本数もないし。
今夜のその町からニューヨークへの便は、案の定キャンセルになっていた。明日、大丈夫かなぁ。

車で5時間の距離だから、陸路でも可能なのだが、嵐の中の運転は危なすぎる。

しかたがない。キャンセルになったら、お客様に自力で頑張っていただくことにしよう・・・。

2009年4月19日日曜日

嫁という言葉

私は嫁という言葉が嫌いだ。
なんとなく、無言のうちに主従関係と言うか上下関係が内包されているように感じるから。

同じく「ダンナ」あるいは「主人」という言葉も最近は使わない。
最近はと書いたが、その昔は使っていた。これらの言葉が、やはり、主従関係・上下関係を仄めかしていることは意識しながらも、あまりにも一般的に使われているために違和感がなかったのだ。

しかし結婚してしばらくして気がついた。少数派ではあるものの、自分の配偶者のことを「夫」と呼んでいる人たちがいる。単なる育った環境からの習慣だったのかもしれないが、どちらかと言うと意識的な気がした。何故ならそれらの女性たちは(中には私よりずっと年上の人もいたが)一様に自立している人たちだったから。「ウチの主人は彼じゃなくて私だからさ」と言って退ける人もいた(確かにそんな感じだった)。

そこで私も安易に方便で「ダンナ」とか「主人」と呼ぶことを辞め、「夫」と言うようにした。

しかし「嫁」と言う言葉は、私の育った環境の中では使われることのない言葉だったから、「ダンナ」や「主人」以上に抵抗を感じた。だから結婚して以来、「嫁」と言われることはあっても、自らを「嫁」と称することはなかった。(流石に誰かに「嫁」と言及されて、「嫁と呼ばないで下さい」とは言えませんからね・・・。)

ところが、今回の義母の件に関して、生まれてはじめて自らを「嫁」と名乗ってしまった。

介護に関連する本を何冊も読んだが、その中で当たり前のように使われる「嫁」という言葉。現在の日本の介護の世界では、嫁という言葉(人物)が当たり前のように主体であり、切っても切れない存在なのだと感じずにはおれなかった。

夫婦間での介護以外では、ほぼ「嫁」が中心的な役割を果たし、社会も行政もそれを期待している。当たり前としている。・・・疑問を抱かずにはおれないが、これが今の日本の現状だ。

はたまた、福祉機関、医療機関や役所に対して、私の立場を「次男の嫁」以外に的確に表す言葉がなく、必然的に受け入れなければならなかった。「義理の娘」だけでは不十分だったのだ。場所が大阪(大阪弁)だったからかもしれない。もし敢えて「次男の配偶者」と自称してたとしたら・・・きっと人々の目には奇異に映ったことだろう。ま、私もフェミニストであれば堂々と「次男の配偶者」と名乗ったのかも知れないが、不平等は嫌いでも、フェミニストじゃないし、この場合は「長いものには巻かれろ」と思ったし、抱えている問題のほうが重要で、言葉なんてどうでもいい状態でもあった。

義母は「長男」「次男」と言うことを強く意識し、常に口にする人だった。義兄やコイオも「長男」「次男」と言うことを常に意識しているようだったので、ずっと「有難や~」と傍観していた。信条的には長男も次男もなくフィフティーフィフティーと思うものの、ま「次男」の立場に甘んじてくれているほうがラッキーなので、それならそれで意義ありません! どうぞ、どうぞ。(夫がこの家の長男じゃなくて、ホント良かった。)

久々のマンハッタン

昨日、何ヶ月ぶりかで(大げさ)マンハッタンに行った。
ほんま、いつ振りだろう・・・? なんだ、よく考えたら、キニコが春休みで帰ったときに「アヴェニューQ」を見に行って以来だから1ヶ月か。たいしたことなかった。

でもマンハッタンでチカエとマビオに会うのは、なんと去年の10月以来!
ま、2月にブラジルで会ったけど。

追加でお願いしたブラジルからの戦利品をチカエから受け取り(シナコのスカート、10ドル也)、私が日本から持ち帰った頼まれ物を渡し、アパート近くのレストランにブランチに出かける。

その後、チカエたちのアパートに戻る。マビオさんが、なかなか私たちを2人きりにしてくれない・・・。しばらーくして、静かになったなぁと思って見たら、椅子の上で口をあけて居眠ってた。おぉ、これで心行くまで大阪弁でしゃべれるわ。

しかし、昨日はコイオが母親を大阪から千葉に連れ出す日。なかなか「うん」と言ってくれないことや、尿失禁だけでなく便失禁も時々あることで、どうなるのか心配だったし、連絡があったときに私がマンハッタンで遊んでいるというのも、何となく罪悪感を感じて、日本の朝が始まる頃には私も帰宅。ちょっとしゃべり足りなかった・・・。

マビオさんの最も新しい著書は「Old Age ain't for Wimps」(弱みそは年とるな!、とでも訳すか)。ブラジルにいた時に原稿を読ませてもらった。年寄りの辛さを面白おかしく書いたもの。現在、出版社を探しているところ。最近は本が売れなくなっているので、出版先を探すのは至難の業らしい。見つからなければ自費出版すると言ってた。

年取るってほんまに大変なことなんやなぁとしみじみ思う。

2009年4月18日土曜日

シナコの17歳の誕生日

昨日はシナコの誕生日。

シナコの本当の名前は○○○と言うのだが、まさに誕生日の4月17日と語呂が合っている。
「わー、それで○○○ちゃんって言うのね、素敵!」と、シナコが2歳の時に誰かに言われて初めて気付いた次第。全く無意識で付けた、単なる偶然の一致なのであ~る。改めて驚く。

と言うことで、本人もこの名前は非常に気に入っている模様。
ただ、キニコの本名の場合は、名前の漢字が示す意味が美しい(偶然)のに比べ、シナコの場合はあまり意味がない。正直言って、どちらの名前も外国かぶれの母親が、英語になる名前に画数の良い漢字を単に当てはめただけだから。

さて、キニコの誕生日の時にケーキなぞ無理して焼いたものだから、半ば義務感よりシナコにもケーキを焼いた。ただ、キニコの時に焼き型代わりに使った容器が、昨日はゆでたアスパラガスが入って冷蔵庫にあった。わざわざ洗うのも面倒だし、まぁ丸型でもいいかと、丸い容器を使った。こっちの方がケーキらしいし。(但し使ったレシピは一応長方形型用。大差があるとは思えないが。)

でも、何故か出来上がりはイマイチ。おまけに生クリームをほんのちょっぴり泡立てすぎてしまった。(筋模様を入れてごまかそうとした。) ま、本人は気付いていないようだし、一応感謝されたから、めでたし、めでたし。



パパちゃんもいないし、2人だけの寂しい誕生日でありました・・・

となるはずが、シナコも友達に誘われて夕方から映画「17歳」を見に行き、そのまま友達の家になだれ込んで12時まで帰って来なかったので、私一人。ケーキを食べたのも今朝だったし、Happy birthdayも歌わず仕舞い。(このくらいの軽いノリの方が、日本人には丁度ええです。)

2009年4月17日金曜日

息子

母親にとって、息子と娘では違うのか。
娘しかいない私にはわからないけど、世間一般を見ると母親の息子に対する思いは、娘に対する思いとは、ちょびっと違うような気がする。

自分の考え方や意思がどちらかと言うと強い(誰や、「ものすごく」って言ってるヤツ)私は、娘しかおらんでよかったなぁと思う。息子だったりしたら、口出しせずに黙って見ていられないんじゃないか。


娘2人(26と15)と息子2人(24と22)がいる姉が、「息子は永遠の恋人」なんて言うから、やっぱり娘と息子では違うんやろうと納得している。

私の妹のほうには、大学生の一人息子がいる。まぁ、溺愛していると言っても過言ではないだろう。少なくともわが家族の中では、妹は息子を溺愛しているという事になっている。息子も、毎日携帯に電話やメールがあると言ってたし。息子は私の実家、つまり彼の祖父母の家の近くの大学に通っているので、最低でも週に1度はジジババの家にバイクに乗って洗濯しにやってくる。洗うだけで、干すのは下宿なのだが。若い彼が実家に顔を出すのは、特にじぃちゃんには良い刺激になっているようで、ありがたい。

と言うわけで、妹に会うよりもずっと頻繁にジジババに会っていることで、妹はジジババに嫉妬していると言う噂。

話は姉に戻るが、短大時代に「落研」だった姉は結構オモロイ。(私も姉を真似て大学で落研に入ったが、才能のなさを悟って、1年で辞めた。)

先日のこと。この春就職が決まった次男の入社式の前日、姉は彼に電話をかけた。
「明日は入社式やねぇ。お母さんも今準備しているから。明日は頑張ってね!」
「えっ!? オカン、来るの?」
「わははー!!!」
「・・・もう! オカンのジョーク、全然おもろない!」がちゃ、と電話は切れたそう。

姉だからジョークやったけど、妹ならほんまに着飾って息子の入社式に出そうだ。

2009年4月16日木曜日

不況の影響

ぼちぼちと不況の影響の話を耳にするようになった。

シナコは今年の7月にパリのヴァレリーのところに1ヶ月お世話になる。冬休みに遊びに行ったときに、ヴァレリーが「パリに来たくなったらいつでもおいで。長く居てもいいからね」と何度も子供たちに言ったからだ。「そんな安請け合いして、知らんよ。わたしゃ責任取りませんからね」と言っても、「全然大丈夫。いつでもおいで!」と言い切ったものだから、シナコはすっかりその気になってしまったのだ。

マイレージで航空券を取り、あとは向こうにお任せだ。最初の2週間はヴァレリーも休暇で、毎年この時期はノルマンディーにあるショゼ島という小さな島に行くことになっている。シナコも一緒に連れて行ってもらう。私も昔ヴァレリーに連れて行ってもらったことがあるが、ほーんとに何もない田舎だ。シャワーも外で、誰かが横でポンプで汲み上げていたような記憶が・・・。

その後の2週間はパリ。ヴァレリーは毎日仕事で出張もあるので、午前中はアリアンス・フランセーズという語学学校に行かせようと思っている。

シナコが夏休みをパリで過ごすと聞いて、学校の友達が自分も行くと言い出し、その子と妹の2人で2週間パリのホテルに滞在して一緒に語学学校に通うという話になった。

「流石、グリニッチの人やなぁ。子供2人だけでホテル? そのあとスイスでお母さんと合流するって? お母さんはスイス人やて?」

ところが、私が日本から帰ってきたら、「友達は行かなくなった」と言う。理由を聞くと、「お父さんがCitibankなんだって。」 

キニコも夏休みにカリフォルニア出身の大学の友人のところに遊びに行きたいと言っていた。「でも、まだ行けるかどうかわからない。友達がコスタリカのプログラムに申し込んでいて、受かったら行ってしまうから」

先日電話で「カリフォルニアに行くことになった。コスタリカに行けなくなったんだって」と言う。理由は、「コスタリカに行くには4000ドルかかったんだけど、お父さんが解雇されたんだって。だから彼女は夏休みは仕事するの」

そんなところに遊びに行っていいのかな。

「ね。どこの家も大変でしょ。あんたも公立行ってくれると、うちも助かるんだけど」
「うん・・・」
今回は、私の言葉もちょっと心に響いたよう。

義母 (3)

先ほど、夜遅くに大阪の実家に着いた夫からメールがありました。

夫がショックを受けないように、義母の隙きを盗んで乱雑に散らかった家の様子を写真に納めて帰ったのですが、「あの写真より全然片付いているし、洋服もパリッとしたものを着ていて、話す内容も多少記憶が怪しいところがあるものの、普通。この状態で、病院に入院させるのは正直言って忍びない」と書いてよこしました。

夫は昨日、千葉の病院を見学に行き、私が初めて認知症病棟を見たときに受けたと同じようなショックを受けたようです。やはり大声をあげて叫んでいる老人や、ただぼーっとしているだけの老人がたくさんいたそうで、この中に自分の母親を入れると思うと心が痛むでしょう。

ところで認知症患者は、滅多に会わない息子などが久しぶりに訪ねて来た時は、底力を出すと言うか、何故か急にしゃんと振舞うことが多いようです。それゆえ同居家族から聞かされていた話とは余りに違うので「大げさな、お母さんは普通じゃないか」と誤解されることが多いようです。あまりに教科書どおりの展開に私もびっくりしています。

夫にも認知症に関する本を2,3冊渡し、飛行機の中で読んで勉強になったと言っています。「まあ、そのうち実態がでてくるでしょう」と言っているけれど、2.3日一緒にいるだけでは分らず仕舞いで、母親をあんなところに入院させたという罪悪感だけが残るのでしょうか。

2009年4月14日火曜日

春のおすそわけ

帰国中、丁度桜を楽しむことができました

芦屋川の桜






夙川の桜

夙川では屋台も出ていた・・・

キニコの編入 (1)

あれだけ大騒ぎしてようやく入った大学なのに、第一志望じゃなかったから不満なのか、キニコは大学に入って2ヶ月もしないうちから、来年は違う学校に編入したいと言い出した。

その理由は、
1.学校の規模が小さすぎる
2.学校の先生の質が高校時代と比べて落ちる
だと。

確かに、学生数が2400人の今の学校は大学としての規模は小さい。立地もキニコが希望していた都会ではなく、超田舎。私たちはそのほうが誘惑が少なくて良いと思っているのだが。

二つ目の理由に関しては、私はそれは当たり前だと言った。キニコの高校は私学。しかもプレップスクールだったから先生も熱心だし、クラスの規模もひとクラスが9人~12人の少人数。そりゃあもう至れり尽くせり。大学は自ら学ぼうとしない限り、先生のほうから教えてくれたりはしないのだ。私がそう言うと「わかってる、そんなこと」。

多分、二つ目の理由は本当の理由じゃない。単なるいい訳に過ぎないのだ。

いずれにせよ、本人が気に入らないところに高いお金を払うつもりもないので、「編入したければ、どこへでもどうぞ。但し今の学費より高い所はダメ」と伝えた。

とは言え、今年のコイオのグロス収入では、どう逆立ちしてびた一文たりともFinancial Aidは出そうもない。大学での成績も大したことないから、メリット奨学金なんて望めないし。今の大学の学費と同等、もしくはそれより安いところは、もう公立しかあり得ない。アメリカ全体が不況で、公立大学志望者が増えており、公立も狭き門となっている。

キニコは編入の願書を私学4校、公立5校の計9校に提出した。今のところ、公立の3校から、不合格(ミシガン)1、補欠(NC)1、合格(トロント)1の返事。残る2校はマギルとU Conn。一番行きたかったのがミシガンだったので残念。(でもミシガン大学の予算は自動車産業の不況の影響で逼迫していると想像するから、行けなくて良かったかも。)

編入のみならず、キニコは進学先が決まっても直ぐには大学に入らず、1年間大学を休学すると言っている。私たちは単にサボって遊びたいだけだろうと想像しているが、本人は「今後どの方向へ進むか1年間休んで考えたい」と言う。そんなもん、1年間休学しただけで、わかるんかいと言いたいところ。口先だけだとは思うものの、「このまま何も考えずに2年生に進級しても、何を専攻してよいかわからない。少し社会にでて、そこでの体験を通して考えたい」と言う。それも確かに悪くはない。

ギャップイヤーを取って大学を半年や1年休学する生徒はいるにはいる。特に反対する理由もないので、「確固とした1年間のプランがあること、そのための余分な費用は出さない、必ず1年後には大学に戻って卒業すること」を条件に認めることにした。

また、途中で棒を折るんじゃないか、と言う気がしないでもないが。

2009年4月13日月曜日

認知症 (6)

認知症に関する本を色々読みましたが、特に良かったと思うのは下の2冊です。
「家族が認知症になったら読む本」杉山孝博著 (認知症患者への接し方)
「親が75歳になったら読む本」林千世子 (介護する側の事情を踏まえた助言)

他の本もそれぞれ良いのですが、どの本も内容は重複しています。「家族が認知症に・・・」が良いと思ったのも、これが最初に読んだ本だからかもしれません。

義母 (2)

話が前後しますが、義母は私が家の中を片付けたり、掃除したりするのも嫌がるので、義母が家にいる限り私は何もできません。家を片付けることが出来たのは、デイサービスに出かけていた間と、苦肉の策として義母を美容院に行かせた間だけでした。

デイサービスのことを書いていませんでした。前日、ケアマネさんが来てくれて、一応デイサービスに行く事に義母も合意し、翌日はデイサービスに行くことを紙に書いて、私は帰りました。

紙に書いて置かないと全て忘れてしまうのです。だから、毎日私が帰宅するときは、「明日(X月X日)はX時にジョダコは家に来ます」と書いて帰ります。それでも、その紙が目に入らないと忘れていますし、だいたい今日が何月何日かもわからなくなるのです。

そこでデジタルの置時計で、日付が表示されるものを買ってテレビの上の目に付きやすい所に置きましたが、これも新しいものなので、そこを見る習慣がないのです・・・。果たして、日付を間違えて「これは、昨日のことだよね」とか、勘違いしていることもしょっちゅうでした。

その日は朝起きて「今日はデイサービスに行く」と言うことは紙を見て理解したようですが、デイサービスの何たるかを忘れてしまっており、104に電話して片っ端からデイサービスの電話番号を聞いて問い合わせをしたようです。その話がデイサービスから市の高齢福祉課に連絡が入り、ケアマネさんに連絡が入り、「おかあさんは相当混乱されているようです」と私にも電話がありました。

電話が入ったときには、私は既に義母と話しており、そのときにはすっかり落ち着いてデイサービスに行く気になっていたようです。私が家に到着した時はすっかり支度をして待っていました。

義母を送り出して、家の掃除と片付けに取り掛かりました。冷蔵庫の中にはお惣菜の山。もう料理はできなくなっているので、とにかく毎日お買い物に行って、食べ物を買ってくるのですが、買ってきたことを忘れて、再び買ってくるのですから・・・。賞味期限の切れたものを片っ端からゴミ袋に詰め、ごみの回収日だったので、慌てて外に持って出ました。

そこで初めてご近所の人と話をしました。母よりひとつ年上のその人も、「おかしい」と去年辺りから気付いていたとのこと。ただ義母の「強い性格」のため、手助けもできない。・・・どうやら、ご近所にもいろいろとご迷惑をかけていた模様。私が来てほっとされている様子でした。近所のある2軒のお宅(母より年上のご夫婦と、もう1軒もはやり高齢者)だけには義母も頼っているようで、そこの家の方が、義母がぐちゃぐちゃにしているごみを分別したり、「電話がかからなくなった!」とかパニックしているときに助けてくれたりしてしているようです。私がお話した方は、昔からずっと仲良くしていたのに、5年前から、面と向かって悪口を言われ、もうお付き合いはできない・・・と思っていたら、今になって認知症だとわかった、とのこと

その日、デイサービスから戻った義母は、別に楽しかったとも楽しくなかったとも言いません。翌日私がケアマネさんを訪ねたときに言われたのは、「あそこは皆さんが楽しむために行かれているところなのですが、おかあさんの場合は、周りの人に『貴方は何の目的でこれに参加しているのか? どういう意義を見出しているのですか?』と、それもしつこくしつこく質問するので、周りの方が嫌がって、席替えを申し出られました」とのこと。つまり、そのデイサービスからはお断りを受けたということ。

その時までに、既に私ももう入院しか手立てがないことを悟っていました。デイサービスの一件は、入院しかないことを更に裏づけたに過ぎません。

木曜日、母を無理やりパーマをかけに美容院へ送り出しました。先日私と一緒にカットに行ったところです。既に義母の病気については説明してあり、本当にとても良くしてくださいました。義母はすっかりそのお兄さんが気に入り「おつりは要らないから取っておいて」だって。事前に説明してあると、奇妙なことを言っても、上手に対応してくださいます。

義母がどうしても私に何か買いたいと連日言っていましたので、先週の金曜、私たちは梅田(大阪)にでかけました。家を出るところで、先日お会いしたご近所さんが外にいたので、私がご挨拶すると「何で、あいさつするの!私は大嫌いなの!」と、何故その人が嫌いなのか延々と話し始めました。

ただ、嫌いという理由が全然理にかなっていなかったので、認知症患者に反論してはいけないのは、わかっていたのですが・・・ついつい私もちょっと我慢できなくて、反論してしまいました。それが義母の気に障ったのでしょう。そこからは怒りがどんどんエスカレート。駅に着いた頃には、義母は非常に興奮していました。

駅で、義母は梅田までの回数券を購入すると言います。(これから何回梅田に行くと言うのだ・・・。回数券は1800円。一番安い磁気カードなら1000円。)そう思って「このカードにすれば、梅田以外でもどこでも行けるし、便利だから」と、私がさっさかカードを買ってしまうと、
「私は回数券が買いたいのっ! こんなもの使ったことないし、わからない!」
「大丈夫、簡単だから、私が説明する」
「ちゃんと説明して! わたしはいい加減なことが大嫌いなの! 回数券と交換してっ!」
大きな声で叫びます。

ちょうど駅員さんが近くにいて、義母は駅員さんにむかって、
「回数券に換えてください! こんなカード使ったことない!」と怒鳴ります。
私は必死で駅員さんにウィンクしながら、
「ね、回数券ってもうないんですよね? みんなこのカードに替わったんですよね? ね?」
すると、駅員さんは、
「・・・そ、そうです。全てこのカードに替わりました」

最後までぶつぶつ言っていたものの、このカードしかないと諦め、ようやく電車に乗ることが出来ました。

認知症患者が怒りっぽいのはよく聞きますが、義母のこの怒りっぽさの土台には性格も大いに寄与していると言うのが、私や家族、ご近所さんの見解です。しかしコイオを見ると、そう言う性格は見られなくて、どちらかと言うと私の方がずっと義母寄りの性格なのですが・・・。友人に話すと、「姑に似ない嫁はいないって言うからな」だって。え、そんな諺あったっけ?

梅田のデパートの上のレストランで食事をしているとき、ふと義母が、
「で、あなたのところはどこの人なの?」
「わたしのところって、私の夫の話?」
「ふん」
「うちは、大阪の○○(義母の町)です」
「えっ!? ○○のどこ?」
「○○西町4丁目」
「ええー!? ほんまに?」と、すごくびっくりしている。
「うちの夫は、○○コイオって言いまんねん!」と私がふざけた調子で言うと、
「あー、コイちゃんの・・・」と、そこで初めて私がコイオの妻であると気付いたよう。一瞬私が誰かわからなくなっていたようです。(駅で興奮させたからかな。)

その後、私は義母に靴を買ってもらいました。これまでも、私に何かを買うと言ってくれたことは何度もあったけれど、年金暮らしだし、ずっと断り続けていました。買ってもらうとしても、食べ物とか、小さなものばかり。でもこれが最後になると思うと、甘えるのも本人を喜ばせることになるだろう。欲しくない安いものを買ってもらうよりも、本当に欲しいものを買ってもらおうと、今回帰国したら自分で買おうと思っていた靴を買ってもらう事にしました。

その後、喫茶店で一休みしていたときの話。千葉の病院の受入れの可否がわかることになっていたので、電話をするために、私は席を立ちました。その間に、義母はその喫茶店で売られているイチゴと生クリームの大きなケーキを丸ごと買っていました。

「これ、キニコちゃんとシナコちゃんに、持って帰って」
私は唖然としましたが、言うと可哀相なので
「わぁ、ありがとう、喜ぶわ」
義母は二人が日本にいると思っていたのでしょうか。それとも生クリームのケーキをアメリカまで持って帰れると思っていたのでしょうか。

非常に優しいところもある義母。入院させることを可哀相だと思わないわけではありませんが、独りで生きていくこともできないですし、今の気性のままでは、同居のみならず施設での共同生活も無理なのです。

入院することで全てが解決したわけではありません。
これが、始まりなのかもしれません。

義母 (1)

昨日、アメリカに戻りました。金曜日の夕方まで入院先が決まらない状態でしたので、滞在を延ばす覚悟でいましたが、入院先が見つかってよかったです。入院は来週の月曜です。明日、夫が帰国してその段取りをし、母を千葉に連れて行きます。

福祉機関に紹介された病院や、インターネットで調べたところなど、全てに当たってみましたが、受け入れが決まった病院以外は、全てに断られました。救急で担ぎ込まれない限りは、満床で断られるのが殆どです。

入院を受け入れてくれた病院は、断られた別の病院に紹介してもらったのですが、丁度その時、義母が当初大阪で入院する予定だった病院に、わたしが紹介状を貰いに行っていて、直接その病院から千葉の病院へ紹介状をファックスしてもらいました。電話での問い合わせだけでなく、同時に紹介状を病院から送ってもらえたことが功を奏したのだと思います。

初めて認知症病棟の様子を見て、ショックを受けた私でしたが、義母と数日を過ごし、やはりこの状態では入院するしか手立てがないと感じていました。私の姉に入院することになったと報告すると、こんな返事が来ました。

「あのまま、大阪の病院にお母さんを入院させてしまっていたら、一緒に病院を見に行った者として、責任を負うことになるんじゃないかと、躊躇する気持ちが強くて。頼りない態度で申し訳なかったけど、今となっては、本当にホッとしています。認知症病棟を見たら、コイちゃんもショックを受けることになるけど、自分の目で確かめて結論を出して、入院してもらうのと、入っているところを見てショックを受けるのとでは、全然違うから。今後のジョダコ夫婦の関係にも影を落とすことになるんじゃないかと心配でしたし、その片棒を担いでしまうのは困ると思って。あのケアマネさんが、自分からは説得しないと言ったのもそこです。当事者の自己決定にしておかないと、責任を問われかねないからね。今回は、お母さんのことで、しんどかったとは思うけど、最後の親孝行になったんじゃないかな。もう、梅田の町に食事に行くなんて、できなくなるんだから。コイちゃんも大変だけど、一緒に千葉へ行くのがコイちゃんでよかったね。お母さんも、コイちゃんを独り占めできて、嬉しいと思うよ。男の子は、母親にとって、永遠の恋人ですから。」

コイオが今の母の様子を見て、病院も見て、自分たち兄弟の手で入院させることになったのは、本当に良かったと思います。確かに見るのと聞くのでは大違いです。義兄や義兄嫁から断片的に話を聞いてはいたものの、今回義母の状況を見るまでは、ここまで認知症が進んでいたとは私も気がつきませんでした。

こちらに帰って電話をしてみると、「銀行からおろしてきたはずのお金がないから、家捜ししている」とのこと。お金を最後に下ろしたのは4月8日で、それから私と何度も出かけ、食料品や、孫へのお土産、私へのプレゼント、自分の靴・・・と、殆どそのお金を使ってしまっており、お財布にはもう数千円しか残っていないのは知っていました。そのことを話すと「使ったことなんて全然覚えていなかった・・・もう私の頭はダメなの。何も覚えていられないの」と泣き出してしまった。「コイオがあと3日で帰るから、楽しみにしていてね」と言っても一向に泣き止まず、とうとう電話は切られてしまいました。

本人もこれからの生活に非常に不安を覚えているのです。ただ入院のことはプライドの高い義母には告げられません。もし説明して拒否されても困るので、今はどうやって母を千葉にまで連れて行くか、これが大きな問題です。夫に出来るのかな・・・と心配。

2009年4月9日木曜日

認知症 (5)

いろいろと悩みましたが、結論としては、千葉での入院先を探すということになり、病院探しを始めました。

ところが、近年、認知症の入院希望者は増加の一途らしく、義兄嫁が千葉近郊の病院を手当たり次第に問い合わせてくれていますが、殆どが満床でウェイティングがある状態。このままでは、近日中に入院できる先が見つかりそうにありません。

今から3年前に書かれた本によると、全国で160万人の認知症患者がいるとのこと。65歳以上の人の約6%が認知症とされ、これが85歳以上では25%、つまり4人にひとりが認知症ということになります。

そういう目で周りを見渡してみると、実に町行くご老人の中で、あぁこの人は認知症なんだと分かる人のどれだけ多いことか。

少し前に(今でも)ワイドショーなどで取り上げられる、ごみ屋敷に住む老人だとか、近所に迷惑をかけるガンガンおばさんなども、認知症である可能性が大きいと感じ始めています。

私は義母がこうなるまで、認知症に関する知識はゼロでした。誰しも身内に関連しない限りは、認知症に限らず、いわゆる社会的弱者や障害者(学習障害や多動なども含め)に対する理解は深まらないのだとは思いますが、ある程度の知識があるのとないのとでは、対応も大違いと、今回身をもって感じています。

高齢化社会の今、この機会に認知症の本を1冊でも読んでもらえたらなぁ。私の場合、はじめて読んだ本ということもありますが、杉山孝博著「家族が認知症になったら読む本」が義母への対応に非常に役に立ちました。

鶯ボール

関西では良く知られた「鶯ボール」は友人の会社の製品。これまで関東では販売されていなかったのだが、去年11月に「ケンミンショー」に取り上げられてからは、関東でも問い合わせが増えて、おかげでイトーヨーカドーやサンクスでも置いてくれるようになったそうだ。

ケンミンショーのあと、鶯ボールを是非食べてみたいという人からの問い合わせが増えて、通販も開設し、直接取り寄せることが可能になった。近くにヨーカドーやサンクスのない方はこちらへ。
http://www.uegaki-beika.co.jp/frame2.html

上はどちらかと言うと自宅用。鶯ボールの製造元では、進物に使えるネット販売会社として、弥奈刀屋(みなとや)があるのだけれど、ここでは「鶯ボール」は買えないのだ。今日は、進物用の「鶯ボール」も用意せぃと友人にアドバイスしておいた。(弥奈刀屋の名前の由来だが、神戸に湊川という川がある。その昔は弥奈刀川と書いたそう。)
http://www.kobe-minatoya.com/

アメリカにも輸出はしているそうだが、子供のころから親しんだなつかしの「鶯ボール」は、アメリカの家の近くにある日本食品店では売っていない。すしを代表とする日本食が人気のアメリカだが、海苔や醤油のにおいが苦手だと言うアメリカ人はまだまだたくさんいる。その点、この二つを使っていない「鶯ボール」なら一般受けすると思うのだが。

ところで、「あられ、おかき、おせんべい」の違いをご存知だろうか?

業界での分類は、
あられとおかきは、もち米で出来ているもの。
おせんべいは、うるち米で出来ているもの。
そして、あられとおかきの違いは、サイズ。つまり、あられは小粒で、おかきは大きめのもの、
…だそうだ。

2009年4月8日水曜日

お花見

今日は、私の両親と甥っ子と4人で夙川のレストランで夕食を食べました。夙川には少し早めに行って、川沿いを花見をしながら歩きました。ちょうど満開。

平日だと言うのに、大勢の人がビニールシートを敷いてお花見をしていました。でもみんなコンビにかどこかで買ったお弁当ばかり。ぜんぜん風流じゃない!

学生らしき若者が一杯いたのですが、そういう男のたちを見て、思わず母に言いました。「あー、私は今の時代に若者でなくてよかったわ。ばばあで良かった!」
だって、どいつもこいつも、髪の毛が長くて逆立ってダサくて、絶対に付き合いたいと思う奴がいなかったもん。

私が日本に着いた時は寒くて、「日本はもうあったかい」とコイオが言ったから厚手の洋服を全然持ってきていなかったのに、町にはダウンを着てマフラーをした人が溢れていました。仕方なく母のダサいジャケットを借りていましたが、ようやく持ってきた洋服で大丈夫。

春は楽しい気分の季節のはずなんだけどなー。

2009年4月6日月曜日

認知症 (4)

ブログを書くのも疲れてきたので、これを最後にこの話題は一休み、もしくはおしまいにしたいと思います。

今日、ケアマネさんに来てもらい、入院以外のオプションで、できれば在宅で訪問看護とヘルパーを利用しながら、やってみたいと家族としての意向を伝えました。

ケアマネさんが来るに先立って、私の方から義母にお願いをしました。このままでは私は母が心配だ。でもこのままずっとここにはいるわけにも行かない。私たちを安心させると思って、ヘルパーさんを利用して欲しい。お薬をちゃんと飲めるようになったら、気分も良くなるし、介護保険はらってるでしょう?利用しなくちゃ損だよ。お掃除だってしんどいでしょう?

そら、しんどいよ。でもいいの、これで。他人はいやなの。家族以外は絶対にいや!私はそういう性格なの。少しくらい物忘れするけど、もう76歳なんだから、みんなそうだって言ってる。重病じゃないんだから。心配しているんだったら、私と一緒に住んでくれたらいい。

だから、そう思ってお兄さんもお母さんを呼んでくれたよね。でも、お母さんが、怒ってもうこんなところ住めないって言って帰ったんだよね?

そんなことない! そんなことしてない!

一人じゃ寂しいし、お母さんが倒れてないかって私たちも心配やから。あかん? 私のお願い聞いてくれる?

そんなん、他人が来るなんて、まっぴら。私はこれでいいの!

延々こんな会話が続き、途中で夫に電話を入れて、夫から母を説得してもらおうと試みましたが、結果は同じ。義母は頑として拒み、興奮するばかり。

そこにケアマネさんが来られました。少しヘルパーの話をしたけれど、結果は同じ。絶対に嫌だといいます。
そこで、話題を変え、デイサービスの話を持ち出され、通常なら20分で終る説明を、義母がしつこく説明を求めるので(ちょっと筋の通らない質問を何度もする)1時間半かけて、じっくり説明していただき、ようやく明日、トライアルで行くことになりました。(嫌だけど行くと言っています)

ケアマネさんが帰られる時、私もちょっと買い物に行って来るとか言って、一緒に出て話をしました。
その結果、彼女が話した要旨は下記の通り。

ヘルパーサービスは、本人がかたくなに拒否しているので、無理。

ショートステイは、自傷行為などの可能性はない上、独居なので他人に危害を加える可能性もないので、ショートステイの必要性が認められないので、可能性なし。

デイサービス、デイケアは利用できるが、今の状況では継続できるかどうか、懐疑的。
仮に継続したとしても、服用管理の問題は片付かない。
向精神剤は、ヘルパーと訪問看護婦が入って、服薬管理がしっかり出来ていると確認できない限り処方できない。つまり今のお母さんの精神状態は改善しない。よって電話攻撃、絶叫などの対策にはならない。

ホームに入居しながらの服薬調整(向精神剤)は、やってくれるホームもないわけじゃないが、基本的には家族がホームから医者に連れて行く。ごくまれに介助を有料でやるホームもあるが、まれであるし、それは家族が自分で探さなければならない。しかし、おそらく施設入居事態が、今の状態では受け入れてくれる所はほぼないと思われる(共同生活なので)。

ベストは入院と思われるが、その場合は、千葉がご家族にとっては都合が良いのではないだろうか。


日に日に状態が悪化している義母。昨日出来たことが、今日出来ません。毎日行くスーパーや30年来かかっている近所の行きつけの医者に行くのにさえ迷います。本人は目的を持って出かけても、行き先がわからなくなり、結果的には徘徊になるのも時間の問題のように思います。排泄も今はちゃんと出来ていますが、尿漏れはあるようですし、トイレでの粗相もあります。

私はケアマネさんと話した後、私自身も心を落ち着かせる必要があったので、喫茶店でお茶を飲んで帰りました。戻ると義母はNTTに電話していました。電話に留守電が入っているが、その再生の仕方が分からないといって。「NTTのどの機種ですか?」「パナソニックと書いてあります」「パナソニック? ・・・NTTのものじゃないようですね」そこで義母が私に受話器を渡します。「これはNTTのものではないので、取扱説明書を読まれるか、購入先に問い合わせてください」と言われ、私は素直に「はい、わかりました」と答えました・・・。

義母も今まで出かけていたと言うので、「どこに?」と聞くと、
「忘れた、覚えてない」
甥っ子の入学祝の封筒を昨日一緒に買いに行ったので「入学祝を送りに行ったんじゃない?」
すると、お財布をごそごそし、郵便局のレシートを見つけ、
「そうみたい、でも他にもどこか行ったけど、わからない」 
「ま、いいよ、そのうち思い出すよ。お昼は食べたの?」
「覚えてない」
「食べてたら、入れ物とか何か捨ててあるよね」と台所を観にいきましたが、そういうごみの類はありません。
「食べてないみたいだけど、お腹すいてない?」
「そんなん、わからない! お腹すいたか、すいてないか、もうわからないの!」
「大丈夫。お昼一回くらい食べなくても、死なへんよ。ところで・・」と、義母がいらっとしてきたので、話題を変えました。

このまま、ヘルパーが入らないでいると、食べることはちゃんと出来ても、いずれごみ屋敷で糞尿にまみれた生活になりそうです。

今日は、帰りに日付、曜日、時間をデジタル表示する大き目の置時計を買いました。義母がすぐに今日がいつだか分からなくなって不安に思うからです。私の実家に戻ってから、「明日は、生ごみの日だよ。デイケアにも行くから、10時に私が行くので、用意して待っててね」とファックスを送りました。

ファックスが届いたか、確認の電話をすると、「届いたよ。今ちょうど、言うことがあったから電話しようと思っていたところ」
「なあに?」
「・・・忘れた」
「じゃ、重要なことじゃないんだよ。また思い出したらかけてね」

しばらくすると電話がなり、「思い出した。あんたがよくしてくれるから、ブラウスか何かを買ってあげたい」

どうやら、鬼嫁だった私は、遠く離れている間に、今の義母の心の中では天使に化けたようです。ずっと義母の世話を身近でしていた義兄嫁は悪魔になったのに・・・。認知症患者は身近な人ほど悪人に仕立て、遠い人や他人に対しては、不思議と優しく取り繕うことが出きるのです。

今日のケアマネとの話の報告を皆にし、皆がやはり入院しかない、その場合は千葉という方向性が固まりつつあります。

息子たちの生活を優先しての結果であることは否定できません。こういう選択をする私たちも、いずれ自分たちの子供たちに同じ選択をされることでしょう。

2009年4月5日日曜日

認知症 (3)

今日も一日、義母と会っていないときは、ずっと泣いているという状況が続きました。

朝、お父さんを認知症病棟に入院させた経験のある友人に電話をしました。彼女は、周りにはいろいろという人がいるけれど、誰かが決断をしなくちゃいけない。私の話を聞いていると、やはり今は入院という手立てしかないように思う。

そうやって背中を押されて安堵したことは確かです。そして義母の家に向かいました。

今週の木曜に入院ということを考えて、髪が乱れている義母を誘って一緒に美容院に行きました。勿論私もしばらく自分の髪を放置していたので、自分が美容院に行く必要が一番あったのですが。また、義母と過ごす時間をもてあましていたので、そうやって時間を過ごすというずるい考えもありました。

二人してヘアカラーとカットをしてもらい、すっきりして帰りました。

義母の家で、台所に行ってみると、一昨日からそのままになった食器が流しにありました。私が洗い始めると、「いいから放っておいて。自分でやるから。」 
「うん、これだけね」と言いながらも、しつこく洗っていると、「人にされたら、イライラするから、やめて!」とだんだん腹を立てているのがわかります。
わかった、わかった、と言いながら、なんとか洗い終えました。散らかった家を片付けようとしても、自分でやるからいいと、全く片付けさせてくれません。

ファックスが紙詰まりのサインが出て、着信が不能になっており、義兄嫁から今朝「ファックスが送れないから見て頂戴」と頼まれていたので、私がチェックを始めました。

ちなみに、5分前のことを忘れてしまうので、電話で伝えても意味がないのです。ファックスに書いてあることを何度も見ることで、言われたことを思い出すのです。

機械をチェックしていると、「NTTに電話して見てもらうから、触らないで」と言います。
「これ、NTTの機械なの?」と聞くと、
「そんなの知らない。そんな昔のことは覚えていない!」
パナソニック製の最新の機械なので、NTTが置いているファックスとは違うようです。
「これって、お義兄さんが付けてくれたんじゃないの?」
「知らない。そんなことわからない!」
「取扱説明書はない?」
「そんなもの、何処に行ったかわからない! もういいから、放っておいて!」
自分が思い出せない、わからないことに、明らかにイラついている様子でした。
わたしの方も、むっとなる気持ちがありながらも(少し前ならきっと言い返していたでしょう)それを抑えて、「わかった、これだけ試したらやめるね」と言って、いろいろとやってみました。最終的には電源を抜いて、差しなおしたら直りました。

こんなことですぐに腹を立ててしまう義母。よほどベテランのヘルパーでない限り、無理なのではないか。やはり入院しか手がないのかと思いつつ、帰宅しました。

夜、私の実家に姉一家と妹一家が集まりました。
笑いの連続でした!

妹の家族は、今日はダンナの父親の三回忌だったそう。義兄の家で法事だったのですが、お坊さんがお経を読んでいる最中に妹の息子が、百均で買った数珠を引っ張って遊んでいたら、いきなり紐が切れて、数珠の玉が四方八方、お坊さんのところにまで飛んでいった。その様子がおかしくて、皆が笑いをこらえていたけれど、どうしても、くっくっく・・・と声が漏れてします。笑いをこらえていると余計におかしくなるでしょ。

とうとうお坊さんがお経を途中でやめて「どうぞ皆さん、思う存分笑って下さい!」
その一言で大爆笑。

そんな話の後、姉が「やっぱりお母さんを今入院させると、あんたが後悔するんじゃないの」と。
確かに万策尽きての入院ではない。でも、今入院させなくて、他の策を講じて失敗したら、結局は義兄夫婦に負担をかけることになる。義兄夫婦はもう精神的に一杯一杯だと思うから、私がそれを彼らに強いることはできない、と言いました。「あんたそれで納得しているなら、それでいいよ。私はあんたが後悔するんじゃないかと思っていっているだけだから」と。

私は納得しているつもりではありました。でも、本当にそうなんだろうか。考え始めるとわからなくなります。

夫に電話して、肉親である夫の意見を確かめることにしました。夫としては、やはりやるだけのことをやってみたいとのこと。「でもそのためには、お兄さんたちに再び負担を強いることになるんだよ」というと、夫が兄夫婦と話すと言いました。

しばらくして、夫から「話した結果、やっぱり他の策も講じてみて、だめなら入院ということにしたい」と連絡がありました。すぐに義兄夫婦に電話をしました。義兄は「ジョダ子が一生懸命やってくれていることはよく分かっているよ。僕たちもやはりヘルパーを入れて少しやってみて、それでもダメなら、僕たちが入院の手続きをするから、ジョダ子が今いるうちに何か結果を出そうと思わなくていい」と言ってくれました。

私は私がいる間に何とか結果を出さなければいけないと思っていたので、そう言われてとても安心しました。やはり、皆でいろいろやってみた後、それしか方法がないと納得して進まなければなりませんものね。

ということで、一旦結論を出した入院ですが、明日はケアマネージャーさんに前言撤回して、ヘルパーでやってみるべく相談することになりました。

たった3日、義母と一緒に過ごしただけで、精神的に磨り減ってしまった私。24時間7日間、認知症の肉親の面倒を見ているご家族は、どれほど精神的な負担を強いられているのか計り知れません。

新たな方向性が確認できて、やっと精神的な落ち着きを取り戻した私です。

2009年4月4日土曜日

認知症 (2)

義母と会ってから、私も精神的な落ち着きを失っているようです。
一人でいると涙が止まりません。会った初日、帰りの道で涙があとからあとから溢れました。
昨日からは、義母のことを考えるたびに涙が出ます。なぜ泣いているのかそれすらわかりません。この病気は、患者と周りの者の双方が精神的に磨り減る病気のようです。大病はどれもそうかもしれませんが。

帰国に先立って実家に取り寄せておいた認知症に関する本を、帰るなり読み、私たちが取っていた対応は、全て認知症患者にやってはならないことばかりでした。知識不足から義母の病状を悪化させていたのかもしれません。

昨日会ったときは、前日に行くと伝えていたにも関わらず、すっかり私が来ることを忘れていました。「来ると知ってたら準備していたのに」と言って中にあげてくれましたが、家の中の様子は足の踏み場もないほど物が溢れて散らかっていました。この病気になると片付けられなくなるのです。靴下がありとあらゆるところに脱ぎ捨てられており、キッチンの棚にもありました。

去年の11月にあったときより確実に、格段に病状は進んでいました。もう5分前のことも忘れてしまうこともあるのです。目の前に日付を確認できるものがなければ(新聞とか)、いつかわからなくなって不安に陥るのです。5分おきに何曜日か私に聞きます。私はあたかも初めてその質問がされたように答えます。「さっきも聞いた」などと言って、相手が物忘れしていることを思い出させないように。

一緒に昼食を食べて、夕方まで義母の家にいて、その後私は実家に戻りました。

翌朝は義母のケアマネージャーと約束があり、そこに実姉とともに電車で向かっていました。義兄嫁から電話が入り、義母から電話があり取り乱している、義兄にも電話があり、絶叫しているとのこと。すぐに義母に電話を入れましたが出ません。乗り換えの駅の都度、電話を入れますが誰も出ません。様子を見るべく、途中下車して義母の家に行きました。

果たして、家にいましたが、髪も服装もぐちゃぐちゃで、寂しくて寂しくてどうしていいかわからないので泣いていた、息子に見捨てられたので、それならば死にたいから私が死ねる薬を送ってくれと息子に伝えたのだ、と言って。姉が上手に話を聞いてくれ、落ち着きを取り戻しました。何度かあっている姉のこともすっかり忘れ、近所の誰かだと思っているようでした。

今朝の一件を含め、ここのところの義母の様子をケアマネージャーに話した末、今の状態ではヘルパーを入れての自宅介護も、何処かの施設への入所も困難とのことでした。まず非常にプライドの高い義母は他人に頼るのをよしとせず、ヘルパーの受け入れをずっと拒んでいます。ケアマネージャーがこれまで4回訪ねても、がんと中に入れてはくれないのだそうです。私たちがいろいろと勧めても、これまで一度も首を縦には振りません。

また攻撃的になることが多く、医師の診断のときも、医師に食って掛かったそうです。お医者さんも、これくらいでかっとなるのでは、難しいねと仰っていたそうです。

義母の場合は、脳血管性認知症とアルツハイマーの混合型だそうです。

精神的にもう少し落ち着けるようにするために向精神薬とアルツハイマーの進行を抑えるためのアリセプトとを処方したい所だけれど、今は自分で薬をきちんと飲めていない(服薬管理ができていない)ので、服薬調整(自分にあった薬のタイプと量を設定する)ことができないので、処方していないのだそう。特に向精神薬を飲んだ場合はふらふらするので、独居の人では夜間ヘルパーがいない限り難しいし、夜間ヘルパーはほとんど見つからない、とのことでした。

そこで最善のオプションとして入院が勧められました。朝の母の残像が頭にちらついていた私も、姉もそれがいいのではないかと思い、家族の合意が取れたらその方向で話を進めることになりました。帰りに、入院する予定の認知病棟を見学しました。

・・・果たして、非常にショックでした。そこにいる人たちはみんなぼーっとして生きているのか死んでいるかわからない老人ばかり。もちろんここは暫定的に入院するための機関で、みんな服薬して余計にぼーっとなっていることもあるのでしょうが・・・。

まだ気丈な義母をこんなところに入れるのは果たして正しいことなのだろうか。また入院すると病気が速く進行するケースも多いとのこと。環境が大きく変わって、自宅でなら勝手がわかるので、できることも、全てが真新しいことになって、できなくなることも多いから。

その後、家族と話し合い、今はそれしかないねと、入院の方向で話は決まりました。

そして、実姉と別れて、義母の家に行きました。夜まで一緒に過ごし、夕食も食べて帰りました。「泊まっていったら」といわれましたが、用意も持ってきていないので実家に帰りました。

実家近くまで来て、今夜のお薬を飲むのを確認しなかったことを思い出し、電話をすると「もう飲みましたよ!」と非常に明るい声。昨日はお風呂にも入っていなかったので、「じゃあ、お風呂に入って暖かくして寝たらいいね」と言うと、「いま、沸かしているところ」とこれも明るい返事。8時過ぎのことでした。

非常に落ち着きを取り戻している義母を思い、本当に入院させるのが正しいことなのだろうか。そう考えると涙が出て止まりません。自分たちの都合で、義母を入院させるということは否めないのです。

かといって、私がずっと義母の下にとどまるわけにも行きません。とどまった所で、今度は私の方がおかしくなってしまうことは見えています。ちょうど義兄嫁がそうなったように。

この病気は回りの理解と対応で、病状がよくも悪くもなる。その知識が欠如していたために、義母の病状が悪化した可能性はあります。でも、義母が認知症になっていることを疑い始めたのはほんの1年前。でも家の中には5年前からの郵便やレシートの一部がばらばらに保管されていて、5年前からその兆候があったことはあきらかです。

10時過ぎ、義兄嫁からメールが入り、9時半と10時に、今朝と同じような電話が自分と義兄にかかってきたとのことでした。すぐに義母に電話を入れて、また明日遊びに行くからねと伝え、落ち着かせましたが、たった30分や1時間で忘れて、不安になってしまうのです。家に泊まってあげなかったことを反省しています。

今夜も、実姉と姪っ子たちが私に会いに来るので義母の所には泊まれません。やはり私は自分のことを最優先しているのです。そう思うと自分勝手な涙が流れてくるのです。