2009年3月31日火曜日

介護保険

介護保険のことが語れるほど知識もないし、何もわからないのだけれど、義母の件を通して徐々にわかってきた内容を、ちょっとだけ書くことにします。

と言うのも、実際に利用する必要があるまでは、全くわからないものなのに、いざ必要となったときには、どこから手をつけて良いかわからない。それゆえに、手続きに時間がかかってしまう、と言うのが実情だからです。先に知っていれば、もっと早くにサービスを受けられたし、サービスだってどんな内容か知っていれば、もっと早く決断することもできるでしょうから。

全容は私も判らないので、自分たちが経験して知ったことだけですが。

まず、高齢者には二つの保険証があるって知ってましたか。後期高齢者医療保険証(国民健康保険に替わるもの)と介護保険証。サービスを受けるには、後者が必要ですが、実は必要になったときには、本人はどこにしまったか覚えていないというケースが多いそう。そうですよね。健康保険証は、医者に行くときにしょっちゅう使っているけれど、介護保険は必要になるまでは不必要なんですから・・・。なんでこんな物を、配るんですかね。

まず、介護保険を受けるにあたっては、申請が必要。申請に必要な期間は通常1ヶ月です。申請手続きは市の福祉課に問い合わせればわかるので、詳細は省きますが、その際に必要となるのが主治医の意見書です。意見書は医師が福祉課に直接送るのですが、義母の場合は、この医師が悪名高いいい加減医師だったらしく、待てど暮らせど意見書が福祉課に届きませんでした。実姉が福祉課に問い合わせてくれて、初めて意見書待ちで滞っていることが判明。義母の場合は、結局2ヶ月かかりました。

申請後、介護が必要と判断されれば、介護度が認定され、そのレベルに応じて、受けられるサービス内容(点数)が決まります。レベルは、要支援1、2、要介護1~5。数字が大きくなるほど重度が高く、受けられるサービスも増えます。

要支援と要介護で受けられるサービスにはかなりの開きがあります。要支援の場合は支払いが月単位で、受けても受けなくても毎月同じ料金を払う必要がある。対して要介護では一回のサービスごとに料金を支払う設定。一番大きな差は、要介護には施設利用権があること。施設の料金は高額なので、これに対して補助があるのとないのとでは大違いです。施設とは、いわゆる医療老人ホーム、グループホーム、ケアハウスなどの居住型のほか、ショートステイやデイサービスなどの部分的な利用も含まれます。

介護申請をしている間にも、見切りでサービスを受けることが可能です。この場合、もしも認定結果で介護が不要となった場合は、料金を自己負担しなければなりませんが、そうでない場合は、遡ってカバーされます。

実際のサービスは、地域包括支援センター(関西ではこう呼ばれる)や安心ケアセンター(千葉ではこんな名前)などの介護サービスを請け負っている地方自治体が運営する組織に相談します。そこでサービス機関やケアマネージャーを紹介してくれます・・・と思います。

実は、この辺は私の知識も怪しいのです。手続きはずっと義兄がやってくれていたので詳しいことは良く知らないのです。義母のケースでは、当初は地域包括センターと話を進めていたのですが、知らない間に担当ケアマネージャーが転職していなくなっており、その連絡もなく、引継ぎもされていなかった。結局は、認知症の診断をした病院の付属施設のケアセンターのマネージャーと契約する事になりました。

紆余曲折があり、まだ契約は交わしておらず、今回私が帰国して契約をします。今後の難関は、サービスを入れることを本人にどう納得させるかですが、これも「説得」することは忘れて(一応、私は義母に、「金持ちの息子たちが母親のために家政婦さんを雇った」とでも言おうかと思ってるのですが)あとはケアマネに対応をお任せしようと思っています。(と、言うのがケアマネをしている実姉のアドバイス。)任せられるところはプロに任せたほうがいいようです。

ケアマネも、個人個人でやり方もやる気も違いますから、もし担当のケアマネが適切な人でない場合は変更をお願いすることも可能だそう。

サービスの費用が一番気になるところだったのですが、姉に教えてもらって安心。義母の場合は、要介護1なので、この場合は、月に16,580単位が利用可。

姉がずっと「単位」で話をするので、何のことが全然わからなかったのですが、持ち点のようなものらしいです。そのポイント内で、自由にサービスが使えるそう。

1回のデイサービスは700~800ポイント。生活補助のヘルパーなら、1回(1.5時間)で291ポイント。身体介護の場合は1回(1.5時間)485ポイント。

義母の場合は、生活補助だけが必要なので、毎日朝夕1回来てもらったとしても、291x2x30=17460。持ち点には足りないので、毎日2回は無理ですが、この範囲なら一切お金がかからないと言う事になります。これ以上に必要なら、有料負担と言うことなんでしょう。

まだ、ここまでしかわからないので、また後日。

ところで、姉がよく「家族だけで煮詰まってしまうより、専門職に間に入ってもらってもらうほうが上手く行くことが多い」と言っています。ケアマネージャーとの契約で、少しは上手く転がればいいのですが。

2009年3月30日月曜日

認知症

突然ですが、日本に一時帰国します。
4月1日に出て、2日の夜に到着。12日までいる予定。

ブラジルから戻って、ブラジルのことも書きつくせぬまま、嬉しいことに立て続けに仕事の予定があり、そうこうしているうちに、義母の様子が悪化し、急遽帰ることに。

義母はもともと片目の視力がないところに、大阪で一人暮らし。2人兄弟の夫の兄は関東に住んでいる。少なくとも夫よりはずっと優しいと思われる兄は、年末年始や夏休みには義母を関東に呼び寄せていたし、義母の様子がおかしいと感じ始めてからは、1-2ヶ月に一度は大阪に様子を見に出掛けていた。

去年2月に私たちが帰ったとき、やはり義母の物忘れが激しいことには気付いてはいた。でも年齢からして多少の物忘れは仕方がないし、私だってこのところめっきり記憶力が悪くなって、コイオにもお前大丈夫かと言われるくらいだから、あまり深刻には考えてなかった。

でも夏辺りから、ちょっとこれは・・・と思うようになり、去年11月に会った時には、やっぱり一度見てもらったほうが良いし、一人暮らしは心配なので、何らかの介護サービスを入れたほうが良いと感じた。

たまたま私の実姉がケアマネージャーをしている。お陰で、どんなサービスがあり、どう手続きするのかを詳しく教えてもらい、義兄が手続きを始めていた。

実姉はかなり昔、メークアップアーチストになる!と、大枚をはたいて学校に通い始めていたが、何の事情か行けなくなって、挫折。義兄(姉の夫)にも「お金をドブに捨てよった」と言われていた。それからしばらくたって、ケアマネージャーになる!と資格試験を受け、何度目かの挑戦で合格。私は、つくづく、あの時お金をドブに捨ててくれて良かったと感じている。だって、メークアップアーチストで私たちが受けられる恩恵は、せいぜい、キニコとシナコの結婚式に、田舎臭いお化粧をしてもらうのが関の山。義母のことでは、姉に相談に乗ってもらって、ほんに心強い。

サービスを導入するための手続きとして、介護度の認定手続きや、認知症があるかどうかの医師の診断手続きを始めた。認定前でも仮でサービスを受けることができるので、そのように勧めたかったが、義母の抵抗がすごかった。本人としては、他人の手助けは必要ないと思っているのだ。

その反面、「もう一人では暮らしたくない」と義兄に同居を懇願。義兄もその心積もりはあるものの、今すぐ実行できる環境が整っていない。去年の夏休みには、まずは練習とばかり、義母を呼び寄せたものの、義母の家族に対する暴言、暴力はひどく、「こんな所では暮らせないから帰る!」と怒り出し、すぐに大阪に戻す事になった。もともと気の強い義母だっただけに、当時は、これが認知症の影響だとは思っていなかった。

ちなみに、暴言、暴力などの周辺症状が、認知症で一番困る部分なのだ・・・と言うことも、私は徐々に理解するようになる。

お正月も同じような結果に終わった。その後、正式に介護度1の認定と、医師の診断で認知症と診断された。診断結果に動揺したのか、義母の状態は加速的に悪化している。先週は、義兄を孫だと思って話し掛けたそうだ。白髪頭だから、孫に間違うはずがない。

大阪で一人でいるときは、義兄の携帯に昼夜を問わず毎日のように電話があり、一人にしないでと泣く。またATMの暗証番号を忘れ、義兄に再発行の手続きを細かに説明されて、指示を書いたメモを持って銀行に行きながら、何故か通帳の再発行の手続きを始めたり。このときは、義兄が銀行に電話して発覚。実は通帳はちゃん持って銀行に行ってるのだ。コイオの会社にも息子と連絡が取れなくなりました、と電話。うちの電話番号を書いた紙が見当たらず、直ぐに電話したかったらしく、東京の本社に電話をしていた。認知症の進行防止の薬を飲むのも忘れてしまう。

毎日の電話攻撃に辟易し、一週間前、義兄は母親を一時的に呼び寄せた。
しかし・・・また、同じことの繰り返し。家族に対する罵倒。そして誰かが誰かをかばうと、「みんなで私を敵にして」と激昂し、つかみかかったりする。そして、「もう帰る!」となり、昨日は既に大阪に帰宅していた。

今度と言う今度は義兄も疲れ果て、兄嫁にいたっては、夏から体重が激減。私としては彼女の精神状態のほうが心配なくらい。

本人が大阪で暮らすと言うからには(きっとまたすぐに気が変わるに違いないが)、とにかく一人暮らしできるように整えねばならない。たった10日ほどで何が出来るのかもわからないが、とりあえず帰国して様子を見てきます。

アマゾンとブックオフで認知症に関する本も一杯注文したし、勉強します。

しかし、友人にこの話をしたら、家族が認知症だという人の何と多いこと。
高齢化日本をしみじみ感じるのであります。

AT&T BlackBerry Bold - Japanese Input

私の苦労を、皆さんが繰り返さぬためにも、

「テック・錆びー」のための、AT&Tのブラックベリー・ボールド講座

AT&Tのブラックベリー・ボールドで、日本語の読み書きができるようにする方法です。

How to enable Japanese input with your AT&T BlackBerry Bold

まずは、下のサイトに行き、
http://na.blackberry.com/eng/support/downloads/download_sites.jsp

North Americaの一覧から、AT&T をクリック。

"Please select a product" のドロップダウン・メニューで、
"BlackBerry Bold TM 9000 smartphone" を見つけて、クリック。

Nextをクリックすると、二つのソフトウェアが表示されますが、上のMultilanguageではなく、下にあるBlackBerry Handheld Software v4.6.0.298 (EastAsia) を Downloadします。

ダウンロードが終了すると、BBをパソコンに繋いで、Desktop Managerを起動。
Desktop Manager (BB購入時にCDが付いてくる)をパソコンにインストールしていない場合は、先にそれをインストール。

Desktop Managerのメニューの左上にあるApplication Loaderをクリックし、Add / Remove Applicationsをクリックすると、先ほどダウンロードしたソフトが表示されるので、これをそのままBBにダウンロード。

これで、Desktop Managerは用なしです。今度はBBの拡張メニューからSet upへ行き、一番左のアイコン(BBの形)をクリックして、Languageをクリック。

上のDisplay screen and menu items in を日本語にしてしまうと、BBの表示すべてが日本語になります。私はこれは英語のまま。下のMy typing input lanugage isを日本語にして、Nextを押す。

次のスクリーンで、必ずEnglishと日本語の両方にチェックマークを入れます。(チェックマークを入れない言語は削除されてしまうので注意!)そして、Finish!

次は、同じく拡張画面に戻って、Settingsを押して、出てきた中からレンチマークを押す。
Languageを開く。

私の場合は、BBの表示は英語なので、一番上がEnglish。次のInput Lanugageが日本語となっている。

中ほどの、Input Lanugage Selection Shortcut がデフォルト設定はAlt-Enter。つまり、AltとEnterボタンを同時に押すことで、英語と日本語の入力切替ができます。これはShift-Spaceに変えることも可能。

その下のEnable Quick SelectionがデフォルトではNoになっている。これをYesにすれば、上記で設定した方法での、英語と日本語の切り替えが可能になります。

一番下のInput Optionsを押すと、どの文字を利用可能にするか選べます。
ここは、私も良くわからなかったので、デフォルトでは選ばれていなかった Halfwidth KatakanaとFullwidth ASCIIにもチェックマークを入れました。

これでおしまい。パチパチパチ。

BlackBerry Bold

買いましたがな、ブラックベリー・ボールド。

BB(ブラックベリー)は日本でもドコモから発売予定があるようだけど、延期になっているらしい。
スマートフォンと呼ばれるこの手の携帯電話は、アメリカでは随分前から出回っていて、日本でも発売されると聞いていたので、2005年に帰国した時に買えるなら欲しいと思ってたのです。翌年アメリカに戻る事になり、到着後、すぐさまBBを購入。

コイオには、「なんで主婦にBBが要るねん?」と嫌味を言われたけれど、既に夫は会社からBBが与えられており、前から欲しいと思ってた私が持てないなんて悔しいじゃない! 勿論、強引に購入しました。

日本の携帯では、携帯用のメールしか確認できないし、アメリカの普通の携帯では、テキストメッセージしかできないけど、BBのお陰でいつでもどこでもメールが確認できるというのは、非常に便利。特に仕事を始めてからは、仕事の依頼メールなどが、早めに確認できて、本当に重宝してます。

唯一の難点が、日本語を見ることは出来ても、書くことができないこと。仕方ないのでローマ字で返信することに。

コイオは、日本語入力の出来るドコモの有料ソフト利用しているので、日本語が書けるけど、会社がお金を払ってくれる彼と違い、私の場合は自腹だから、そこまでしては要らないや、と我慢。

ところが、ようやく日本語入力の出来るBBがAT&Tから発売されたのです! その名もボールド。

しかし・・・一昨日からAT&Tのお店に話を聞きに行くけれど、店員は全然知らない。ウェブで調べて下さいと言われ、一昨日の夜いろいろとリサーチ。他言語をインストールする手順をきちんと説明した正式なBBのサイトがなく、フォーラムや人のブログを読んで、どうやら出来るらしいことはわかったけど、非常にわかりにくい。しかも、他国(アジア)の電話会社のROMをダウンロードするよう。大丈夫かな・・・。

この状態で購入するのは非常に不安だったのだが、深~い事情があって、散々揉めた挙句、とうとう昨日買ってしまいました。

深~い事情って、全然深くないんだけど、シナコの誕生日にiPhoneを買うという約束が、いつの間にかできていて・・・一体、私たちもいつ誰が約束したのかあいまいなのだが(多分コイオ)、購入の条件が、凄まじいアイツの部屋が片付いたらと言うことだった。なかなか片付かないので、まだまだ大丈夫と思っていたら、一昨日の土曜の夕方、「片付いた!」と勇んで二階から降りてきた。

こうなるとアイツとどんなに交渉しても、凄まじいバトルになるばかり。シナコのiPhoneを買うには、今の電話会社であるT-Mobleとの契約を止めて、AT&Tに変わらなければならない。すると私の今のBBも使えなくなり、必然的に私もAT&Tが扱っている機種を買う必要がある。

iPhoneには日本語環境があるのがわかっていたので、BBで日本語が書けないなら、次のオプションはiPhoneなのだが、何せ私はテクノロジーsavvy(得意な人)じゃなくてテクノロジー・錆びー。新しいものは、じぇんじぇんだめ。iPhoneのタッチスクリーンで文字入力しようとしたら、隣の文字ばっかり入力しちゃって、もうイライラ。メディア関係のソフトなんて不要だし、欲しいのは電話とメール、目覚まし、カレンダー、添付ファイルが見られる機能でいいんだから。

と言うことで、BBで日本語が書けるようになるのか、確信も持てぬまま購入。でも、1ヶ月以内なら、20ドルの罰金だけで、多機種と交換できるらしい。

帰宅後から、夜中の1時半まで、延々がんばりました。
ウェブで説明がある通り、BBのサイトから、他国の電話会社でeastasiaのROM(って言うのか何だか良く知らんけど)をダウンロードして、頑張るんだけど、全然だめ。手順を間違えたか、これがダメだったのか、と、手を換え品を換え、何度もインストール、アンインストールを繰り返す。でも出来なくて、昨夜は寝ました。

今朝、再度最新のeastasiaのソフト(3/20リリース)をある電話会社に見つけ、祈る思いでインストール。
結果は、やっぱりだめ。

これはもうBBの製造元であるRIMにお願いするしかない。前のBBでもソフト(か何だか知らないが)をアップグレードしたら、突然日本語が文字化けして、その時もT-Mobileのテクニカルサービスじゃ直せなくて、RIMのテクニカルサービスに繋いでもらって、T-Mobileなのに、実際にはAT&Tのソフトを入れて直してもらった。

とにかく最初のステップとしてAT&Tのカスタマーサービスに電話。

・・・すると。eastasiaのソフトはAT&Tからも出てた・・・。
おっかしぃなぁ。昨夜はAT&Tのソフトも見たけど、なかったはずなのに・・・。

今、もう一度確認したら、やっぱりありました。昨夜見てたサイトと、今朝教えられたサイトは同じなのいに・・・。なんで気付かなかったのかな・・・。でも、フォーラムでしきりに語られていたソフトとはバージョンが違うので、これじゃないと思ってしまったのか。

で、結果は・・・皆さんにも私の苦労を共有していただくため、長々と書きましたが・・・じゃじゃじゃ~ん!
日本語、書けるようになりました!!

2009年3月18日水曜日

サルバドール (3)

今回の旅行の最大の難関は言葉だった。

マビオさんとチカエは、フランス語も少しできるが、アメリカで個人レッスン、スペインやコスタリカでの休暇中に学校にも通っていたから、かなりスペイン語の素地がある。かなりと言っても、書いてあれば判読できることが多いが、ペラペラとやられると解らないことが多い。

私はスペイン語は皆目ダメ。カビの生える前に殆ど蒸発したイタリア語と、フランス語で、少しは判読できるものの、話しかけられるとダメ。そこで対処法は、こちらから話しかけて、それに対して、イエス・ノーで判別。

チカエとも話していたのだが、言葉がわからないってホント大変。日本に旅行に来ているガイジンはこんな気持ちなのかしら。

メニューを広げても、全然わからん
説明を求めてもわからない。
みごとなくらい、誰も英語を話さないのだから。

Cubanaのメニュー。どれがどのフレーバーなんだか、さっぱり。私は安全パイのココにした。

書いてあれば、結構わかる場合がある。アメリカでも時々見かける「No Shirt, No Service」(上半身裸での入店お断りのサイン)。 

ビールが欲しくて、「ビエッラ」と叫んだけど通じなかった。マビオさんが、世界でもスペイン語とポルトガル語だけが、ビールに似た音を使ってない言語だと教えてくれた。ここではビールは、セルベージャ(Cerveja)。何を置いても、これだけは覚えねばならぬ。

レストランでお勘定を頼むとき。これは、A conta por favor.(家に帰ってから調べた。)スペイン語は、La cuenta, por favor. イタリア語は Il conto per favore. 私とチカエは勝手に、La conta por favorと言っていた。

しかしマビオさんは、お勘定の度にウェイターに向かってスペイン語で「悲しい報せをお願いします」と言うのだ。これはスペイン語で、悲しい報せ=請求書というジョークらしいのだが、同じジョークが通じないのか、マビオさんの発音が悪いのか、通じたためしがない! なのにめげることなく、悲しい努力を毎度毎度繰り返されておりました・・・。
悲しい報せに向けて、精力的にお皿をつつくマビオさん。

マビオさんと私は、マンハッタンで会うときもそうなのだが、基本的には、スリー・ワン・ルールと言うのを設けている。つまり3回に1回は私が食事代を払うということ。3人なので、これはとても公平なルール。でも厳密には、4回に1回くらいしか出してないのだけど。

今回の旅行でも基本はスリー・ワンで行こうと合意。
すると3度目にあたったのは、昼食を食べ過ぎて、夜遅く軽食を食べたレストランだった。するとマビオさんが、「こりゃ、安すぎるからアカン」と大阪弁では言わなかったが、払わしてくれないので、じゃ替わりに翌日のランチを私が払うねと言うことになった。

ところが翌日行ったのは、今回の旅行中、最も高級なレストラン。「不公平やん!」と異議を唱えると、「どうしてもここはワシに払ってくれと主張するなら、払ってもいいぞなもし」と言うから、「どうしても払ってください」とお願いした。

ところが、こんな超高級レストランなのに(トイレの便座には電動で替わるビニールシートがあり、トイレの壁には、なんとデンタルフロスの自動ディスポーザーもある)、メニューを見たら、意外や意外、ニューヨークの普通のレストラン並みなのだ。物価が安いって素晴らしい。で、結局は私が払うと最後に申し出た。「そんなんやったら、シャンペン注文したのに」とマビオ。そうは問屋が卸さねぇ。

チカエも私も生まれて初めて見たデンタルフロスの自動ディスポーザー。レストランのロゴ入り。

サルバドール (2)

サルバドールの朝は遅い。
(懐かしのネスカフェのCMのパロディーと誰が気が付いてくれるだろう・・・)

まあ自分たちがいつまでも寝ていただけなのですが。9時ごろ一応目は覚めるものの、もうちょっと・・・と思って気がつくと、10時とか11時。

それから朝食。
「手伝おうか?」と、その気がない癖に、一応チカエに声をかける。
「いいよ、いいよ、座ってて」と言われ、「そう、悪いねぇ」と全く済まなさそうに聞こえないセリフを吐く。このやり取りを毎朝繰り返していた。

朝食のメニューは、たいていがオレンジジュース、マンゴ、フルーツにヨーグルトかシリアル、またはその両方をかけたもの、パンと紅茶。

「こんなんでごめんね」とチカエ。
毎日自宅で食べている朝食よりよっぽど豪勢なんですけど。

ブラジルで苦労したのは、オレンジジュースとパン。
スーパーに行っても、普通のオレンジジュースが売ってないのだ。パック入りのオレンジジュースは飲まないのだろうか?? 求めていたのはトロピカーナのような100%ものなのだが、何故か買ったものは、ちょっと水で薄めたような人工的な味のするヤツ、次は何故か豆乳入りだった。(後でパックを見たら、確かにソヤ(大豆)と書いてあった。これは、懐かしのフルーツ牛乳の味がした・・・。)

日本語の語源のパンがポルトガル語のパンなのは周知の話。なのにブラジルのパンはまずいのよ。何ででしょう。滅多においしいパンに当たらなかった。どれも、ぽそぽそしている。小麦粉が悪いのか。

日本でも有名なポンデケージョ(ポン=パン、ケージョ=チーズ)。生協の共同購入にもありました。もちもちしておいしかった。なのに、スーパーで買ったポンデケージョはイマサンだった。空港のコーヒースタンドで買ったものはおいしかったけど。

そう言えば、サウジ時代、フランス人は「サウジの小麦粉ではおいしいものが作れない!」と言って、わざわざフランスから輸入された小麦粉を買っていた。小麦粉説は、大いに説得力あり。

朝食が終わる頃には、たいてい12時を回っている。これから出発のための身づくろいが始まる。準備が整うのはたいてい2時ごろ。

マビオさんの毎日の日課は、「今日のランチをどこで食べるか」を詳しく調べること。ブラジルの旅行書(2冊)を隅々まで読み、更にインターネットで調べた結果、「今日のランチは、XXにある○○に行く事にしよう。ここは・・・」と、そのレストランがどのように傑出しているか説明してくれる。あるいは、「今日は、△△か□□に行く事にしたいが、どちらがいいか」と私たちに意見を求める。

ここだけの話だが、どっちもブラジル料理だし、私もイマイチどっちがいいか判らないのだが、ここは意見を述べるべしとばかり、「そうですねぇ、昨日はアレを食べたので、今日は是非コレを食べたい」と厳かに己の意思を表示する。「では、△△に決まりだ」と、レストランに予約を入れてくれる。言葉が通じれば晴れて予約成立。予約は3時とか3時半。この時間に昼食である。

直接レストランに行くこともあれば、少し広場のあたりをうろうろしてからのことも。ルートは大抵はマビオさんが決めてくれる。「XX美術館があるので、そこに寄ってから行こう」「XX画廊を覗いてから」「アメリカ人が経営しているレコードショップに寄ってから」など。レストランのあとは、マビオさんだけ先に帰ってお昼寝し、私たちで広場をうろうろすることもあった。ランチが遅いため、たいてい夜はお腹が空かないので、バーで何かをつまんで飲む程度。はたまた家に帰って、紅茶とパンとオムレツ、とか。

さて、ブラジル料理だけど、私は非常に気に入った。そもそもアメリカの南部料理は好きだし、ニューオーリンズのケイジャン料理やクレオール料理も大好き。ブラジルの料理はこれらに似通ったものが多く、大抵は煮込み料理。海産物も豊富で、海老、蛸、牡蠣、魚などの料理がメニューに並んでいる。

何日も食べていると、料理の名前は違うのに、どれも似通っていることにも気が付く。色もたいてい黄色。この色は、どうやら椰子油(パーム油)から来ているらしい。多くの料理に椰子油が使われているのだ。

サルバドールのあるバイーア地方の料理として、特に知られるモケカはまさにパーム油たっぷり。

写真は同じくバイーア地方の料理、ボボ。はっきり言って、モケカもボボも違いがようわからん。言ってみれば、インドのカレーとコルマとマサラの違いみたいなものか。違いはあるけど、寿司とラーメンほどの違いはない・・・。それともガイジンにとっては、寿司とラーメンも、違いがわからぬのか?

ブラジルの国民食と言われているのがフェイジョアーダ。こちらはアメリカの南部料理にも見られる黒豆と肉を煮込んだ料理。おいしかった!

シュラスコ(バーベキュー)はあまり興味がなかったので、候補に挙がったときにも却下したのだが、肉好きのコイオは「あれがウマイのに~」と言っていた。前にアメリカで食べたことあるけど、あまり感激しなかったんだもん。

この辺りのレストランのサービスで嬉しいのが、ビールを注文すると必ず冷えたビールがぬるくならぬような工夫が凝らされていること。バーだと、ビール瓶が発泡スチロールなどのスリーブに入っているし、レストランだと、まるで白ワインのごとく、氷の入ったバケツに入っている。ま、お店に冷房が入ってない場合が多いし、入っていても効いてないから、直ぐに生ぬるくなるわけですが。

Cubanaと言う名のアイスクリーム屋があったのだが、ここのアイスクリームがおいしかった。最初はメニューを解明するのが大変で、マンゴと思って頼んだマビオさんが受け取ったのは、トロピカルフルーツの一種だった。チカエはスペイン語と同じだから解読できたパイナップル。私は安全パイのココ(ココナツだとわかった)。

このココナツが大ヒットだった。その後もココナツを目指して足繁くこの店に通った。グリーンコーンってのもあって、これもなかなか美味だった。濃さは丁度イタリアのジェラートのような、さっぱりとした口当たり。しかも安い! 座って食べて、ひとつ2.7レアル。100円ちょっとだよ。

エネルギーの殆どは「食」に向けられ、残りはお土産ショッピングにあてがわれたのでありました。アクセサリー、ゴムゾウリ(チカエはビーサンと主張したが。ネットで調べたら、「ハワイアナス」は国際的ブランドらしい http://www.havaianas.jp/index2.html)、しわしわドレス、Tシャツなど。

2009年3月12日木曜日

ちょっとお休み

サルバドールの続きを書こうと思っているのですが、今週末はちょっと仕事が入って家を空けています。
今夜は疲れて、ブログを書くエネルギーが残ってないので、サルバドールの続きはまた後ほど・・・。

サルバドールの写真をちょっとだけ紹介します。

空港に迎えに来てくれるように手配していたタクシー運転手のカシキ。サービスで運転しながらギターを弾いて歌ってくれるのはいいんだけど、膝でハンドルを操っていて、危ない・・。

生まれてはじめてみた、木に成っているマンゴ。

マビオさんたちが借りていたアパートは、観光の中心地である歴史的地区にあり、アパートの入り口には警備員が常に居て、古いながらもサルバドールの基準に照らし合わせると高級なアパートの部類に入ると思われる。ところがそのアパートの真隣には廃墟となったビルがあり、そこに不法占拠者が住んでいる模様。これはアパートの窓から隣のビルを写したもの。ガラスの入っていない窓も幾つもある。でも夜にはちゃんと電気も灯り、一見して、ギャングとかではなく「普通の家族」が住んでいる様子だった。またしても廃墟と普通のアパートが共存している例。

サルバドールの歴史的地区の町並みの写真。

同じ地区にあるペロリーニョ広場

2009年3月11日水曜日

サルバドール (1)

ブラジルに出発した時は、雪で気温もマイナス。でも1週間経ったら随分暖かくなっていた。雪でどうなることやらと随分心配したけど、行きの飛行機は、遅れたものの、どうにかマイアミに到着。乗り継ぎ時間があまりなく、次のゲートが離れていたので焦った。ゲートに着いたら、とっくにボーディングは始まっていたけど、ぎりぎりで乗れた。しかしチェックイン荷物は、積み残しになったかも・・・と恐れていたけど、それも起きず、トラブル無しでサルバドールの土を踏めたなんて、ホント奇跡に近い! 日頃の行いがええからやな。

サルバドールは、ブラジルでも特にアフリカ系の人が非常に多い所で、マビオさんいはく75%はアフリカ系と言うことだったが、私たちが滞在していた旧市街や、買い物にでかけた市街地でも、ローカルの人の99%はアフリカ系だった。それゆえ、街の雰囲気も随分とリオやサンパウロのような他の大都市とは趣を異にしていた(行ったことないくせに!)。まさに異国情緒たっぷりでとっても楽しめた!

町を見渡すと、窓にガラスの入っていない、一見して貧困層が住んでいると思われる居住地が至る所に見られる。ひょっとしてここは気候が良いから、窓が要らないのかな、中流の人でもこんな家なのかしら、と一瞬思ってしまうくらい、それくらい、こんな家が建っている場所がたくさんある。しかもその直ぐ隣にはまともなアパート群があって、貧困層と普通の人たちが何食わぬ顔して共存している・・・そんな風に見えた。

いや、「普通の人」と言うのも、貧富の差が激しいこの国では恐らく下層階級に属するのだとは思うが。サルバドールに住む人の多くは中流から中の下じゃないかな。金持ちは郊外の、もっとセキュリティーの高い、壁に囲まれた大邸宅に住んでいるのでしょう。

でも、この一見して貧しい人たちの、何て明るくて親切なこと! 人の親切さでは、この国の人の右に出るところはないんじゃないか、とチカエと何度も感心した。

2年ほど前までは、まさにバイタリティーの塊で、私たち3人の中では一番元気だったマビオさんも、よる年波には勝てず、ここのところめっきり歩くのが遅くなり、腰も少し曲がって、まさに老人然となってしまった。見るからに弱々しい歩きの彼を見て、町の人たちが至るところで救いの手を差し伸べてくれる。段差があれば、手を取り、ちょっと待っていると、どこからか椅子を持ってきてくれる。誰もが道を譲ってくれる。大人も子供も一様に。(ただし、物乞いの子達の場合には、その後で小銭頂戴って言われるのだが。)

ある時、タクシーの停まりにくい往来で、手を挙げていたら、近くの出店のお兄さんが、ここで待っててという手振りをして、車道の中に飛び出して行った。タクシーに向かって両手を振って、私たちの居るところに導いてくれる。

とにかく一時が万事この調子。親切を絵に描いたような人ばかり。「体の不自由な人は、ブラジルに住んだらええんちゃうか」とチカエ。ところで、なぜか町行く人は、みんな元気で若い。車椅子も老人も見かけなかった。なんでやろ。平均寿命は短いのやろか。

もうひとつの驚きは、観光客相手のお店の人が全然しつこくないこと。あまり値段の交渉にも乗ってくれない。ちょっとは安くしても、それ以上は下げないし、じゃあと店を出ても、誰も追いかけて来ない。また、通りで何かセールスされても、要らないって言うと、すんなりあきらめる。本当にさらっとしているのだ。これは楽でいい。

唯一ちょっと困ったのが、小銭を頂戴と寄ってくる裸足の子供たち。勿論、洋服も汚れている。何も敷かずに直接地面に横になって熟睡しているのを見かけたから、家もなく、子供だけで通りで生活しているのかも知れない。この汚い身なりの子供たちも、地元のお店の人に邪険に扱われることもなく、カフェのおじさんも、彼らの背に手をやって、何か言葉をかけている。お店のお客さんにはしつこくするなよ、と言っているような気がした。

出かける前は、「危ないから気をつけろ」「絶対気ぃ抜くな」とコイオに何度も言われた。しかし拍子抜けするほど何もないし、警察は至る所にいるので、その旨をメールに書くと、「その油断が危ない! ブラジルは知らんけど、メキシコなんか、警察が一番危ないねんで」と返って来た。最後まで気は抜かなかったものの、やっぱり思ったほど危なくなかった、かな。

私たちが泊まっていたアパートは、旧市街の広場のひとつに面していた。広場が幾つか連なっているこの辺りが歴史的な地区でもあり、観光の中心。地元の人の話では、この広場とそれを囲む部分は安全だとのこと。それを越えて出かける場合は、気をつけろって言われた。マビオさんの足のこともあり、私たちの行動範囲は殆どこの範囲を超えることはなかった。

アパートの窓からの景色

2009年3月2日月曜日

スノーストーム

予報どおりペンシルバニア州からマサチューセッツにかけて広範囲に雪が降り、学校もお休み。
ラガーディアでも昨日から300便くらいがキャンセルになっている。
マイアミ行きは、今朝の早い便は全てキャンセル。10時台の一便は無事に飛んだものの、11:55AMのは、現時点で30分遅れている。飛ぶのかな。2時台のは既にキャンセル。私が乗る4時半のは、今のところオンタイムだけど・・・。

明日このブログのアップデートがなければ無事に行ったと思ってください。

今回の旅行にパソコンは持っていきません。ブラジルはあまり治安が良くないので、余計なものを持って行って盗られたくないので。

夫の会社のリオのオフィスでも、会社の車がピストル強盗にあって以来、防弾車に変えたそう。防弾車ってHammerとかのすごいのかと思ったら、中に鉄板を加えたカムリだそうな・・・。あまり頑丈そうじゃないな。

休暇でサルバドールに行った夫の会社の駐在員の人が、レストランに強盗が入ってきて、貴重品やカメラとかを持っていかれたそう。

今回チカエたちが借りたアパートのオーナーからも、装飾品は時計も含めて一切身につけないほうが無難とのアドバイス。

雪や事故で道も混んでいるかもしれないので、そろそろ出かけます。キャンセルになって家に舞い戻るか、マイアミまでは飛べてもそこで一夜を明かすのか、はたまたちゃんとブラジルに着けるのか、乞うご期待。

続きは来週。だんだん。(←NHKの朝の連続ドラマ見ている人にしかわかりませんね。)

2009年3月1日日曜日

最悪

風邪はあんまし良くならない。
微熱(普段の体温が低いので36度の後半でかったるい)と鼻風邪と咳が続いています。

ブログを読んで、「リポビタンD」(これをで「デー」と発音してしまう自分が悲しい)を飲んだらいいよとメールして来てくださった方がいて、早速コイオに日本食品店まで走ってもらう。リポビタンン・デーは売ってなくて、ただのリポビタン。(デーと言う音に恥じ入って、「リポビタン」に変えたのかな。)

飲みましたが、まだ元気モリモリまでには至りませぬ。

加えて、どうやら今夜は大雪らしいのだ。聞くところによると30センチも積もるとか。ヤバイ。
私の飛行機は夕方4時半発のマイアミ行き。マイアミでサルバドール行きに乗り換えるのだけど、乗り継ぎ時間は2時間ほど。ニューヨーク発が遅れると乗り継げなくなって、マイアミで足止めを食らう可能性大。

なんだかついてないなー。

今、夜の9時。今のところ雨で、まだ雪にはなっていないけど・・・。
予報が外れることを願いつつ、今夜も早く寝ます。