ブログなんて書いてるバヤイじゃないんだけど・・・、今の円高対策としてノーベル経済学賞にも匹敵するアイデアを思いついたのである!
つまり、ドル建てで取引するからいけないのだ。
ドルで50%、残りの50%を円で取引したら、ドルが上がれば円が下がる、その逆も真なりで、プラスマイナスゼロ。誰も損しないし、誰も得しないでしょ?
「この考えいいでしょ? 頭良いと思わない?」とコイオに言うと、
「全然、良い考えと思わない。」
「なんで全然良い考えって思わないのよ。こんな賢いこと、どうして誰も思いつかないのか。」
「ドルは基軸通貨だから、だれも円で半分なんてしない。それにプラスマイナスゼロじゃなくて、損得が取引している両者に分配するだけだよ。」
「いまやドルは基軸通貨じゃなくて鬼畜通貨かキチガイ通貨じゃん。それに、ドルが上がると、円が下がるから、プラスマイナスゼロになるはずでしょ!」
「そうかな。俺はそう思わないけど、やってみてみ」と言って、コイオは今朝、会社に出かけました。
と言うことで、早速具体例を出して考えてみよう。
1000円の商品をアメリカに輸出する。取引を決めたときのレートが1ドル=100円だったとして、500円は円で、5ドルをドルで受け取る契約にする。
代金を受け取る時点のレートは1ドル90円。
日本企業が受け取るお金は、500円+5ドルなので、実際は円に両替すると950円。・・・あれ?
アメリカ企業が払うお金は、500円+5ドル。500円を両替するには5.55ドル必要。ってことは10.55ドル。・・・あれれ・・・。
日本企業が10ドルで売っていた場合は、900円しかもらえなかったわけだから・・・そっか、やっぱり為替リスクを両者に分配しただけか・・・。
なんでや、なんでや。ほんじゃ、誰が得してるねん?
やっぱり、私の場合はノーヘル経済学賞。脳みそ使ってエネルギー減らしただけ損した。
2008年10月29日水曜日
人気ブログ?
本当はブログなんてかいているバヤイじゃないのですが。
と言うのも、引き受けた翻訳の仕事の納期が今週末。日曜から今朝まで出張に出かけていてその間手付かず。予めわかっていたことなので、出発前に必死になって大部分の翻訳を済ませ、帰って残りを仕上げればいいだけの状態にしていた。なのに、なのに、それなのに、一昨日になって、依頼された内容に大幅に変更が生じ、かなりやり直さなくちゃいけなくなった。しかも納期は殆ど延長されず。
でもこの出張中の出来事を書かいでか、とPCに向かう。(納期延長してくださいまし!)
(その1)
出張の行き先は、以前に社内通訳として仕事をしていた頃に訪れたことのある会社。懐かしさも相まって、更に楽しかった。
今回もエンジニア関連の通訳だったけれど、技術関連の仕事は、話を聞いていて面白いので大好き。勿論、中味は2割もわかってないのだが。エンジニアという人たちの頭の中ってどうなっているんだろう。知識と経験に基づいて、頭の中で連鎖反応が起きているみたい。
「ここがAだと、Zってことだよね。」
「え、Zですか? あぁ、AだとBになるから、CとDがEになって、FがGでしょ・・・ふん、ふん、Zになりますねぇ。」
トーシロウの私には何が何だかわからないけれど、取りあえず聞いたまま言ってると、みんなが、ふんふん頷いている。いつも一人取り残されるけど、そう言うやり取りが面白い。
また、特記すべきは、日本から来られた2人のエンジニアのうちのお1人。初対面であるにもかかわらず、開口一番「いつも、ブログ読ませてもらってます」だって!
うっそー!? 何で~!? ホントびっくり。滅多なことは書けないわ。
この方、「エンジニア」のステレオタイプとは大きくかけ離れた方でありました。つまり、とてもおしゃれ。一緒に出張に来られていた方にも、「お前ももっととがった靴をはかんと」と、レクチャー。ご本人の出で立ちは、ピンストライプの黒のスーツに、ベージュのスエードのベスト。シャツは衿が、大きめのボタンでおしゃれに留まったエンジ色に、濃い同系色に黒っぽい柄のネクタイ。靴はテーパー状でつま先は四角い黄褐色。夕食に出かけた時は、滑らかな皮(カーフ)の黒のジャケット(革ジャンじゃないよ)。バックパックはオレンジ系茶色の皮製。
足りなかったのは、太い金のネックレスに、金のローレックスかしら。
滅多なこと書けへんって言うて、書いてるやない!
(読んではりますよね・・・ネタにして、すみません。)
失礼を承知で、「あの、間違われたことないですか?」と聞いてしまったら、
「ないです。僕はどこから見ても立派なサラリーマンでしょ。本物はもっと怖いです」とおっしゃってましたが・・・。(ちなみに髪型もジャパニーズマフィア風でした。)
(その2)
帰りの飛行機。前のほうの席で、たくさんの荷物を頭上のコンパートメントに入れようと立っているおじさん。似てるなぁ・・・。でも、ガイジンってみんな同じ顔に見えるし。でも、やっぱり似てる。本人じゃないかな。でも自信がないから、前の席に座っているお兄さんをつついて、
「ね、あの人、David Gergenじゃない?」
と確認したら、やっぱりそう。
CNNのコメンテーターとして、よくAnderson Cooperのニュース番組に出てる人です。テレビで見ると、頭が薄くって貧相な感じだったのに、実物は飛行機の天井に頭が届くので、前かがみにならなくちゃいけないほどの長身。ダンディーでかっこよかった。きっと真正面から捕らえるカメラアングルが悪いのね。
(その3)
飛行機で隣合わせた50がらみの韓国人のおじさん。釜山にある国立大学の教授。コロンバスで学会があったそうな。専門はコミュニケーションサイエンス。通信科学ってテレパシーの勉強か(アホか)。名詞を見たら、マスコミ学科だそうです。それで日本の新聞の質問をしたのね。
「どうして日本人はそんなにたくさんの新聞を読むのか?」
「だって、うちのお父さん、毎朝新聞持ってトイレに30分こもってるの。どこのお父さんも新聞ないとトイレで困るのよ。そうするとお母さんは自分が読むものがなくなるものだから、別に神戸新聞取ってるよ。」
果たして、私のジョークは通じていたか。
「日本にはどうしてそんなに新聞が多いのか?」
「多いって、全国紙は赤旗と聖教新聞除いたら、3紙だよ。朝日、読売、サンケイ」
「そうだっけ。じゃ韓国の方が多いな。全国紙は5紙はあるし、小規模なところを入れると9紙ある。一時は購読者の争奪戦が激化しててね。」
「日本でも、契約欲しさにいろいろ物くれるよ。私は読売を6ヶ月契約してた。だって洗剤とかビール券くれるから。6ヶ月ごとに契約するとその度にくれるんだもん。」
「洗剤? せこいなぁ。韓国なんて、一時は自転車とかくれてたよ。ある新聞は壁にかける鳩時計のクックークロックを配っていて、クックー新聞なんて揶揄されていたよ」
「え、じゃ韓国紙を取ろうかしら」
「ね、ところで私って好奇心旺盛なんだけど、質問していい?」
「どうぞ」
「一般の韓国人は、やっぱり過去のことで日本人が嫌いと思っているの?」
「いや、それは僕たちより上の世代のこと。確かに、こんなことがあったと聞くと、愛国心から腹は立つけれど、だからと言って今の日本に対して嫌悪感を持ったりはしていない。」
「ふ~ん。それはよかった。じゃ、竹島についてはどう思う?」
「あれは、日本は放棄したんだ。そして韓国が領土だと宣言したんだから、韓国だよ。」
「え、放棄なんてしてないよ。」
「1945年に、日本が日本の領土とした中には入っていなかった。だから放棄したってことだよ。対馬と同じこと。対馬も以前は王国で、対馬の王が朝鮮に入れてくれと言って一時は朝鮮になったけれど、維持費がかかりすぎて、朝鮮は放棄したんだ。その後日本に併合された。」
「対馬の話は知らなかったけど、その場合は朝鮮が放棄したんでしょ。日本は竹島を放棄してないよ。少なくとも日本政府は放棄したとはみなしていない。」
「でもそれ以前に朝鮮が竹島を領土としていた。19XX年・・・」
「日本は竹島をもっと早くから領土としているよ、そんな文献があるんだよ」
「それは知らなかった」
「じゃあ、私の意見聞いてくれる? 私はね、物事の見方が平行線をたどっている限りは解決しないから、いっそ竹島を半分こにすればいいと思うのよ。」
「半分こ・・・。そう言えば、朴大統領時代の副大統領XXが、竹島を爆破しちまったらいいって言ってたな。爆破するよりは、半分このほうがいいか。」
かくして竹島は、日韓それぞれの代表により、半分ずつに分割される事になりました。めでたし、めでたし。
「それにしても、キミ、日本人にしたら、はっきり物を言う人だね」
「どうも、アメリカに長く住み過ぎたらしいわ」
と言うのも、引き受けた翻訳の仕事の納期が今週末。日曜から今朝まで出張に出かけていてその間手付かず。予めわかっていたことなので、出発前に必死になって大部分の翻訳を済ませ、帰って残りを仕上げればいいだけの状態にしていた。なのに、なのに、それなのに、一昨日になって、依頼された内容に大幅に変更が生じ、かなりやり直さなくちゃいけなくなった。しかも納期は殆ど延長されず。
でもこの出張中の出来事を書かいでか、とPCに向かう。(納期延長してくださいまし!)
(その1)
出張の行き先は、以前に社内通訳として仕事をしていた頃に訪れたことのある会社。懐かしさも相まって、更に楽しかった。
今回もエンジニア関連の通訳だったけれど、技術関連の仕事は、話を聞いていて面白いので大好き。勿論、中味は2割もわかってないのだが。エンジニアという人たちの頭の中ってどうなっているんだろう。知識と経験に基づいて、頭の中で連鎖反応が起きているみたい。
「ここがAだと、Zってことだよね。」
「え、Zですか? あぁ、AだとBになるから、CとDがEになって、FがGでしょ・・・ふん、ふん、Zになりますねぇ。」
トーシロウの私には何が何だかわからないけれど、取りあえず聞いたまま言ってると、みんなが、ふんふん頷いている。いつも一人取り残されるけど、そう言うやり取りが面白い。
また、特記すべきは、日本から来られた2人のエンジニアのうちのお1人。初対面であるにもかかわらず、開口一番「いつも、ブログ読ませてもらってます」だって!
うっそー!? 何で~!? ホントびっくり。滅多なことは書けないわ。
この方、「エンジニア」のステレオタイプとは大きくかけ離れた方でありました。つまり、とてもおしゃれ。一緒に出張に来られていた方にも、「お前ももっととがった靴をはかんと」と、レクチャー。ご本人の出で立ちは、ピンストライプの黒のスーツに、ベージュのスエードのベスト。シャツは衿が、大きめのボタンでおしゃれに留まったエンジ色に、濃い同系色に黒っぽい柄のネクタイ。靴はテーパー状でつま先は四角い黄褐色。夕食に出かけた時は、滑らかな皮(カーフ)の黒のジャケット(革ジャンじゃないよ)。バックパックはオレンジ系茶色の皮製。
足りなかったのは、太い金のネックレスに、金のローレックスかしら。
滅多なこと書けへんって言うて、書いてるやない!
(読んではりますよね・・・ネタにして、すみません。)
失礼を承知で、「あの、間違われたことないですか?」と聞いてしまったら、
「ないです。僕はどこから見ても立派なサラリーマンでしょ。本物はもっと怖いです」とおっしゃってましたが・・・。(ちなみに髪型もジャパニーズマフィア風でした。)
(その2)
帰りの飛行機。前のほうの席で、たくさんの荷物を頭上のコンパートメントに入れようと立っているおじさん。似てるなぁ・・・。でも、ガイジンってみんな同じ顔に見えるし。でも、やっぱり似てる。本人じゃないかな。でも自信がないから、前の席に座っているお兄さんをつついて、
「ね、あの人、David Gergenじゃない?」
と確認したら、やっぱりそう。
CNNのコメンテーターとして、よくAnderson Cooperのニュース番組に出てる人です。テレビで見ると、頭が薄くって貧相な感じだったのに、実物は飛行機の天井に頭が届くので、前かがみにならなくちゃいけないほどの長身。ダンディーでかっこよかった。きっと真正面から捕らえるカメラアングルが悪いのね。
(その3)
飛行機で隣合わせた50がらみの韓国人のおじさん。釜山にある国立大学の教授。コロンバスで学会があったそうな。専門はコミュニケーションサイエンス。通信科学ってテレパシーの勉強か(アホか)。名詞を見たら、マスコミ学科だそうです。それで日本の新聞の質問をしたのね。
「どうして日本人はそんなにたくさんの新聞を読むのか?」
「だって、うちのお父さん、毎朝新聞持ってトイレに30分こもってるの。どこのお父さんも新聞ないとトイレで困るのよ。そうするとお母さんは自分が読むものがなくなるものだから、別に神戸新聞取ってるよ。」
果たして、私のジョークは通じていたか。
「日本にはどうしてそんなに新聞が多いのか?」
「多いって、全国紙は赤旗と聖教新聞除いたら、3紙だよ。朝日、読売、サンケイ」
「そうだっけ。じゃ韓国の方が多いな。全国紙は5紙はあるし、小規模なところを入れると9紙ある。一時は購読者の争奪戦が激化しててね。」
「日本でも、契約欲しさにいろいろ物くれるよ。私は読売を6ヶ月契約してた。だって洗剤とかビール券くれるから。6ヶ月ごとに契約するとその度にくれるんだもん。」
「洗剤? せこいなぁ。韓国なんて、一時は自転車とかくれてたよ。ある新聞は壁にかける鳩時計のクックークロックを配っていて、クックー新聞なんて揶揄されていたよ」
「え、じゃ韓国紙を取ろうかしら」
「ね、ところで私って好奇心旺盛なんだけど、質問していい?」
「どうぞ」
「一般の韓国人は、やっぱり過去のことで日本人が嫌いと思っているの?」
「いや、それは僕たちより上の世代のこと。確かに、こんなことがあったと聞くと、愛国心から腹は立つけれど、だからと言って今の日本に対して嫌悪感を持ったりはしていない。」
「ふ~ん。それはよかった。じゃ、竹島についてはどう思う?」
「あれは、日本は放棄したんだ。そして韓国が領土だと宣言したんだから、韓国だよ。」
「え、放棄なんてしてないよ。」
「1945年に、日本が日本の領土とした中には入っていなかった。だから放棄したってことだよ。対馬と同じこと。対馬も以前は王国で、対馬の王が朝鮮に入れてくれと言って一時は朝鮮になったけれど、維持費がかかりすぎて、朝鮮は放棄したんだ。その後日本に併合された。」
「対馬の話は知らなかったけど、その場合は朝鮮が放棄したんでしょ。日本は竹島を放棄してないよ。少なくとも日本政府は放棄したとはみなしていない。」
「でもそれ以前に朝鮮が竹島を領土としていた。19XX年・・・」
「日本は竹島をもっと早くから領土としているよ、そんな文献があるんだよ」
「それは知らなかった」
「じゃあ、私の意見聞いてくれる? 私はね、物事の見方が平行線をたどっている限りは解決しないから、いっそ竹島を半分こにすればいいと思うのよ。」
「半分こ・・・。そう言えば、朴大統領時代の副大統領XXが、竹島を爆破しちまったらいいって言ってたな。爆破するよりは、半分このほうがいいか。」
かくして竹島は、日韓それぞれの代表により、半分ずつに分割される事になりました。めでたし、めでたし。
「それにしても、キミ、日本人にしたら、はっきり物を言う人だね」
「どうも、アメリカに長く住み過ぎたらしいわ」
2008年10月23日木曜日
デポジション・デビュー
今日、初めてデポジションの通訳をした。
これまでにも何度か、デポの通訳の打診はあったのだが、経験がないため断ったり、あるいは経験がないことで最終的には依頼されなかったりした。
このあたりでは結構デポの通訳需要があるので、機会があればやってみたいと常々思っていた。今回の仕事は時間も短いし、それほど込み入った内容ではなさそうなので、挑戦してみることにした。
日本の皆さんにはデポジションという言葉は馴染みがないと思うので少し解説すると、デポジションは辞書で引くと宣誓証言とか宣誓供述とあるが、正しくは「証言録取」と訳すようである。
デポジションはたいていが弁護士事務所で行なわれる。通常は、証言を求める側が場所を用意するらしい。
アメリカの民事訴訟では、デポジションで得られた当事者や第三者の証言を、「証拠」として裁判所に提出することが出来る。そのため、デポジションでの証言は正式な記録に残されることになる。
・・・実は、このことを、私は今日弁護士事務所に着くまで知らなかった。
デポの場所となる部屋に入ると、速記タイピストとビデオ撮影担当者が既に到着していた。勿論、さも当たり前のように平然と彼らと握手したのだが、内心は「うゎ、全部、取られるんやんか・・・」とびっくりしていた。つまり、今日のデポが証拠として採用される場合は、法廷に私の声が流れるわけだ・・・。
そして、もうひとつ知らなかったこと。デポが始まる前に証人が「真実の全て、真実のみを述べる」と宣誓することは知っていたが、まさか証人よりも先に自分が宣誓しなくちゃいけないとは知らなかった。
手順として、速記タイピストは、証人を宣誓させる以前に、「本訴訟において、行政・司法通訳における倫理規定と専門家としての責任に基づいて、技術・判断・能力の最善を尽くし、正確、完全、かつ公平な通訳を行うこと」を通訳者に右手を挙げて宣誓させるのである。
でもデビューはまずまずの成功でありました。
ただ、ひとつつまづいた言葉がある。complaintと聞いて、品質の仕事をしていた私の頭に最初に浮かんだ言葉は「苦情」。そして「文句」。でもこの場合はその言葉じゃないよ~と言うのは分かってたんだけど、思い浮かばない。辞書を引いてようやく「申し立て」と言ったが、「告訴」の方が正しかった。ごめんなさい。
これまでにも何度か、デポの通訳の打診はあったのだが、経験がないため断ったり、あるいは経験がないことで最終的には依頼されなかったりした。
このあたりでは結構デポの通訳需要があるので、機会があればやってみたいと常々思っていた。今回の仕事は時間も短いし、それほど込み入った内容ではなさそうなので、挑戦してみることにした。
日本の皆さんにはデポジションという言葉は馴染みがないと思うので少し解説すると、デポジションは辞書で引くと宣誓証言とか宣誓供述とあるが、正しくは「証言録取」と訳すようである。
デポジションはたいていが弁護士事務所で行なわれる。通常は、証言を求める側が場所を用意するらしい。
アメリカの民事訴訟では、デポジションで得られた当事者や第三者の証言を、「証拠」として裁判所に提出することが出来る。そのため、デポジションでの証言は正式な記録に残されることになる。
・・・実は、このことを、私は今日弁護士事務所に着くまで知らなかった。
デポの場所となる部屋に入ると、速記タイピストとビデオ撮影担当者が既に到着していた。勿論、さも当たり前のように平然と彼らと握手したのだが、内心は「うゎ、全部、取られるんやんか・・・」とびっくりしていた。つまり、今日のデポが証拠として採用される場合は、法廷に私の声が流れるわけだ・・・。
そして、もうひとつ知らなかったこと。デポが始まる前に証人が「真実の全て、真実のみを述べる」と宣誓することは知っていたが、まさか証人よりも先に自分が宣誓しなくちゃいけないとは知らなかった。
手順として、速記タイピストは、証人を宣誓させる以前に、「本訴訟において、行政・司法通訳における倫理規定と専門家としての責任に基づいて、技術・判断・能力の最善を尽くし、正確、完全、かつ公平な通訳を行うこと」を通訳者に右手を挙げて宣誓させるのである。
でもデビューはまずまずの成功でありました。
ただ、ひとつつまづいた言葉がある。complaintと聞いて、品質の仕事をしていた私の頭に最初に浮かんだ言葉は「苦情」。そして「文句」。でもこの場合はその言葉じゃないよ~と言うのは分かってたんだけど、思い浮かばない。辞書を引いてようやく「申し立て」と言ったが、「告訴」の方が正しかった。ごめんなさい。
2008年10月20日月曜日
ジジババのお帰り~
2週間あまりの日程を無事終えて、ジジババはめでたく日本に帰りました。先ほど電話があって無事着いたとのこと。
この家を発って空港に向かうべく、愛車オデッセに乗り込み、口々に言う。
「シートベルトは、これじゃの。おー、入ったで。」
「私のも、すっと入りました。ようやく、すんなりシートベルトが出来るようになったと思たら、帰らなあかんのやねぇ。」
「ほんまやのう。身体もなじんで、やっと快腸になったのになぁ。」
と言いながらも、未だにオデッセの自動スライドドアの閉め方を父は学習していない。ドアを開けたまま、私が閉めるのを待っている。
最初のナイアガラへの2泊の旅。ラクイサ(アメリカのお母さん)とのハプニングもなく、楽しく過ごすことができた。私は自分が話すと、人が話す分も合わせて3倍話さないといけないので、極力話さぬようにした。
母:「いやぁ、お母さんとやっと会えて、いろんなお話できて嬉しいわ。でも、娘に通訳させていると、本人の悪口言えないわね」
ラクイサ:「大丈夫、その時は、シナコを呼べばいいじゃない」
その後、実際に私の悪口を言う為にシナコが呼ばれたかどうかは知らないけど。
母:「この前、娘が電話で通訳して、お母さんとお話したでしょ。あのことをエッセイに書いて投稿したら、入選したのよ」
ラクイサ:「あら、是非読みたいわ。訳してね」と私に言う。
そうだったの、私もまだ読んでないよ。
ナイアガラへの道すがら、助手席に座ったラクイサがどんどん私に話しかけてくるので、時々その内容をまとめて後部座席の両親に説明していたら、「いいよ、全部訳してくれなくても」と母が言う。私を気遣ってと思っていたけど、ひょっとして一方的なラクイサの話を聞くのがめんどくさかったから? されどラクイサ。「いーえ、私の話はどれも重要だから、一言漏らさず全部訳してちょうだいね! わっはっはー!」
ホテルはカナダ滝の真正面。「シニア料金」の割引が効いたので滝の側の部屋を取ったのだが、大正解。目の前にカナダ滝が見えて圧巻でした。(今回はマリオットにしたけれど、前に泊まったお隣のシェラトン・フォールズビューもとても良かった。ナイアガラに行くなら、このどちらかをお勧め。シェラトンはアメリカ滝に近いシェラトン・オンザフォールズもあるから、間違えないように。)
ナイアガラに着いた翌日は、曇りのち雨。ホテルから目の前のケーブルカーで滝の近くへ降りる。滝の裏側のツアーを終えて、いざ霧の乙女号へ向かって歩こうと言う段になって、「ワシは、もうええ。ホテルに帰る」と父。朝の儀式が、時差ぼけでホテルを出る前に終わっていなかったのが、ここへ来て、父のお決まりの表現を借りれば「エンジンがかかった」らしいのだ。父は一人で再びケーブルカーでホテルへ。貸しきりだったそう。そりゃそうだ。あの時間に戻る人なんていないわ。
そこで女3人で霧の乙女号へ。帰りは雨に打たれたけど、船で既にびっしょりだったし、もらったポンチョが役に立った。
http://www.maidofthemist.com/en/
その日は父の77歳の誕生日。滝を見下ろすスカイロンタワーの上にある、1時間かけて360度回転するというレストランを予約していたのだが、あいにくタワーは雲の中。よっぽどキャンセルしようかと思ったけれど、せっかくだから行くことにした。ガラガラだろうと予想していたのに、雨だからと予定が変更できないツアー客でレストランは結構埋まっていた。案の定、視界はほぼゼロ。見えるのは雲ばかり。
http://www.skylon.com/
景色は見られなかったけれど、ディナーの後に、突然ピアノがハッピーバースデーを奏で出し、ろうそく1本を立てたケーキが父に運ばれてきて、みんなに歌ってもらって、嬉しそうだった。
しかし、翌日判明したのだが、父はただ私たちが歌っているだけだと思っていたそうだ。ピアノの伴奏の音もも、店中の客が歌っていたのも全然知らなかったそうな。父は耳が遠いのである。
ナイアガラ2日目の夜は2度目の大統領討論会。ホテルの部屋に戻ったときは大方が終わっていた。
帰り道、良いホテルだったねーと言う話になったときに
ライクサ:「でもひとつだけ難あり。フォックスニュースが入らなかった」
私:「えっ? そうだったの?」
ラクイサ:「そうよ。じゃなかったら、なんで私がCNNを観てたと思ってんの?」
私:「私への配慮かと思った・・・」
ラクイサ:「まさか!」
そして両親のほうを見て「彼女とわたしは政治的な見解だけは合わないのよ、ね?」
父:「お母さん、心配せんでえーです。何やかんや言うたかて、どうせコイツには、選挙権はないんやから。は、は、はー!」
行きはピークまでは今一歩と言うところだったのに、たった2日後の帰りのドライブでは紅葉した景色が最高にきれいだった。毎年きれいな紅葉が見られるわけじゃないので、これはとってもラッキー。とにかく、少し進む毎に「わぁ~きれー!」「すっごいきれー!」「めっちゃきれー!」を連発するので、ラクイサまでも「キデー!」
ナイアガラから戻って翌日は、キニコの母校、ホッチキスを案内。学校を見て父が言う。
「こりゃ、学校ちゅうよりは、美術館みたいな建物やな」
確かに、改めてきれいなところだと思った。その後、近くでランチを食べ、そこから少し北に行ったマサチューセッツ州にあるNorman Rockwell Museumへ。私は彼の絵が好きなのです。
http://www.nrm.org/
その後、ニュージャージーのベッツィーの家にラクイサを送って行った。本来は3時間半の道のりが、3連休の初日であったため、ジョージワシントン橋で大渋滞およびハプニングで、5時間かかった。
渋滞中、橋の少し手前で右手の高速の出口に長い列ができていた。列の最後尾のバスが4車線目のレーンをふさいでいる。そのレーンを走っていた私は、少しレーンにお尻がはみ出たバスをかわして通ろうとした。途端にバキっと言う大きな音が。
何じゃ?と思ってみたら、隣のラクイサが「あらー!見てコレ!」
なんと、右のサイドミラーが根こそぎ折れて、電動ミラーのワイヤだけでぶら下がっているじゃありませんか! はー、やってしまった。バスにも傷がついてるだろうけど、そんなの知ったこっちゃないし、あっちも渋滞、こっちも渋滞で、誰も追って来られない。こっちも止まるのも戻るの無理。サイナラ~とゆっくり現場を去りながらも、またしても夫コイオの怖い顔が浮かぶ。
みんなを見渡して、「いい、このサイドミラーはNorman Rockwellの駐車場に停めていた間に、誰かにぶつけられて折られたことね。絶対コイオに私がやったって言わないでよ! 怒るから。」
父:「ええけど、お前、ようそんな悪知恵がすぐに思い浮かぶのう」
私:「だって、前にバンパーぶつけたときに、チカちゃんに『何で言うたん? 黙ってたら分からへんかったのに』って言われたから」
父:「ホンマ、お前ら、悪知恵が働くのう」
そして父は母に向かって、「おい、お前が言うたれ。あいつが言うよりホンマっぽいやろ」
母:「そんなん、私じゃなくて、おじいちゃんが言うてよ」
父:「あかん、ワシは笑ろてしまう」
母:「じゃ、車に乗ったときに、まずラクイサが気がついたってことね」
ラクイサ:「それで、私が見てと言って、みんなでびっくりして憤慨した」
母:「あかん、私も笑ってしまう」
私:「あかんよ、笑ったら! 怒ってないとおかしいねんから」
母:「あかん、笑うわ」
父:「あかんぞ、お前が笑ったら」
母:「ほんなら、おじいちゃん言うてよ」
父:「あかん、ワシは笑う」
ラクイサ:「それにしても、このミラーは当たったときに折りたたまないの?」
私:「日本のオデッセは折りたためたのに、これは折りたためないの。そうや! これは車が悪いんやわ! 衝撃で折りたたむようになってたら、壊れへんかったのに」
ようやく橋を抜けて、スピードが出せるようになった。すると突然ゴーン、ゴロゴロ、ガンガンと音がする。見るとワイヤだけでぶら下がったサイドミラーが突風に煽られて窓ガラスやボディーに当たっている。まずい。サイドミラーだけならまだしも、ボディーにも傷がついたとなりゃ、ますますコイオが怒る。仕方なくスピードを落とす。が、トラックが横をすり抜けると、風圧でその度にガーン、ガラガラ、ゴロゴロ。
ラクイサが窓を開けて何とかしようとしたが、どうにもならない。
仕方なくサービスエリアに出て、対処することに。
母:「ハンカチでくるんだら?」とハンカチを取り出したけど、小さすぎてくるめない。「あ、ベッツィーにあげようと思ってたお土産の風呂敷があるやん。あれで包み。」
風呂敷で包んで、ラクイサのアイデアで結び目を窓ガラスの内側にはさみ、ようやくミラーは動かなくなった。
「ほら見て。あんな風呂敷、誰が欲しいねんとか悪口言うてたけど、役に立ったでしょ」と母。
しかし、窓ガラスに白い丸い風呂敷包みが張り付いた車はとても奇妙。横を走る車の視線を感じる。
本当はラクイサをドロップした帰りに、マンハッタンに寄って、ペンシルバニア駅に9時過ぎに着くキニコを拾って帰ろうと思っていたのだが、ベッツィーの家に着いたのが9時。そんな時間もなくなった。私たちが10時半に帰宅したとき、既にキニコは一足先に電車で帰っていた。キニコの大学は、中間考査が終わってその日から4日間のお休みなのだ。
ドアを開けて、開口一番、コイオに向かって私は叫んだ。
「めっちゃ、腹立つねん! 聞いてよ! サイドミラー壊されてん!」
コイオのすごーく不機嫌な表情を見て、笑うと言っていた両親も、まじめにお芝居をする気になったらしい。
「お母さんが一番最初に見つけはってん、ね」と母がフォロー。
しかしコイオの不機嫌さはどうやらミラーのことばかりではなさそう。
「キニコの顔、見て来てみ」
キッチンで何かを食べていたキニコの顔をのぞいて、私のお芝居の怒りが、本物に変わる。
「何を考えてるの!?」
キニコは鼻にピアスを空けていたのである!
と聞くと、すぐに鼻輪を思い浮かべそうであるが、鼻輪ではなく、左の鼻の上の方にインド人の女性がつけているようなピアスをしている。
もうミラーのことはそっちのけで、コイオと私でキニコをしかり始めた。
「何でそんなところに穴を開けるのか」
「私の身体じゃない」
「アンタの身体でも、パパとママが養育している以上は好きにできないの。やるんだったら、自分で自立して生きていけるようになってからしなさい。それまでは許さない。すぐに外しなさい」
「いやだ」
「そんなんやったら、出て行け」
「これが最後だもん、もうあけないもん」
「そのうち、お臍や眉にも開けるんでしょ」
「そんなん、しないもん」
しばらくこんな応酬が続き、キニコはおいおいと泣き出したが、私たちは無視。
そこへ、母がやってきて、「もうやってしまったことは仕方ないじゃないの」
・・・で、私のほうはその話題をドロップすることにした。コイオは2、3日機嫌が悪かったけど。
車のほうは翌朝ディーラーに持っていって部品を発注。3日後には修理完了。その間、風呂敷包みをぶら下げたままでは恥ずかしいので、ミラーは取り外してもらった。
と言うことで、両親がいた間のハイライトはミラー風呂敷事件かも知れません。(未だにコイオは真実を知りませぬ。)
日曜日。マンハッタンのアッパーウエストにあるオーシャングリルと言う店で、私のアメリカの家族とキニコを除く我が家の総勢11名が集結してのブランチ。
ベッツィーは、彼女が16歳のときに日本の我が家に遊びに来たときのアルバムを持ってきて見せてくれた。父が半紙に墨で書いたベッツィーの名もあったが、本人はすっかり忘れている。
そうそう、ラクイサをベッツィーの家に送って行った時に、ベッツィーが母に見せようと人形を持って来た。それは当時母がベッツィーのために作ったもの。私たち娘もみんな作ってもらったけど、今も持っている者は誰一人としていない。「いやー、大事にしてもらって! 懐かしいわぁ」と、母はとても感激していた。
レストランで、カナダのお土産をラクイサはスザーンに渡していた。これを雪解けの機会にしたいと思っていたようだが、残念ながら、そうはならなかった模様。(あれからスザーンと話をしていないと、ラクイサが今朝の電話で言っていた。)夫のバーニーのほうは、普通にラクイサと会話していたんだけどな。
ブランチの後は、みんなでセントラルパークを散歩。その後私たちはミュージカルのライオンキングを見るためにブロードウェーに。これにはキニコも参加。
翌日、父が言う。
「昨日、あのザコバの前を通ったやろ」
「ザコバ~? なんやそれ?」
「ほれ、何や、オノヨーコか誰かの・・・」
「・・・ダコタハウスのこと!?」
「そうや、そのザコバ」
落語家の家やないねんから・・・。
ミラーの修理が終わった日は、キニコが大学に戻る日。またキニコの運転免許の実地試験の日でもあった。1時のテストの予約に2時間待たされた挙句、テスト結果は見事「不合格」。次の再試験は冬休みの12月に予約を入れた。教官からもらった紙には、「一旦停止の線を越えて止まった」が3回、「制限速度30マイルを45マイルで走った」とある。終わってから友達に電話で「あの、バカ教官が・・・」と話していたが、「そういう言葉は使わないの。バカはアンタでしょ」 (キニコは「お尻の穴」と言う英語を使ってました、はい「麻生」さんです。)
大学へキニコを送りついでに、両親をペンシルバニア州に住むアーミッシュの村に連れて行こうと、寮でキニコをドロップした後は、ランカスターという町に行って泊まった。翌朝、午前中一杯をアーミッシュ観光にあて、その後お土産を買って帰った。あまり興味がないかなと思っていたけれど、二人とも結構、興味をそそられたようで良かった。
http://www.pbase.com/terry434/amish&page=all
日本語でのマンハッタンバスツアーと言うのがあって、両親だけで参加。友達のチカエと4人で昼食を食べた後、2人をツアーに送っていき、私はチカエと、お茶して待っていた。
さて、どんなツアーだったかと聞くと、想像していた2階建てバスではなく、ただのマイクロバス。参加者も両親を入れて8人。ガイド兼運転手の日本人のおじさんが、運転しながら前を見て話すので、耳の遠い父には3割しか聞こえず。また「右手を見てください」と言われて、一番後部座席の両親が自分たちの右手を見ていたら、どうやら運転手さんの右手だったらしく、どの建物のことやらわからなかったそうな。「上のほう」と言われても、バスの天井で何も見えないし。バスを降りたのは、唯一バッテリーパーク。遠~くに自由の女神を眺めるだけ。エンパイヤステートビルも外から眺めるだけ。「逸話や歴史の話は面白かったけど、いったいどこを走っているのやら、さっぱり分からなかったわ。」しかも、前の座席に陣取った6人組みは、今朝の飛行機で日本から来たばかり。時差ぼけで、バスに乗るなり船をこいでいたので、これじゃ、ガイドさんのやる気も削がれるわな。
翌日の土曜日はマチネでミュージカル「オペラ座の怪人」を見に再びマンハッタンへ。父はミュージカルは、もうええ、とミッドタウンにある「日本囲碁クラブ」へ碁を打ちに行く。残念ながら、その日のお客は父とアメリカ人の大学生一人だけ。初心者の学生に父が教える羽目に。「先生」と呼ばれる囲碁クラブのおじさん(日本からわざわざ3ヶ月交代で来ているそう)とも打ったそうだけど、あまりに人がいなくて、期待を裏切られたらしい。
オペラ座の怪人で、私は前半の途中から意識を失った。やっぱ、私のミュージカルに対する理解はライオンキング止まりです。ちなみに母もコイオも居眠り。しっかり見て面白かった~と言ったのはシナコだけ。
夜はチカエとマブ男さんも一緒に中華街で晩御飯。海鮮料理が中心の中華料理店(Fuleen)は、とっても美味しかった。特にdungeness crab(アメリカイチョウガニ)が! これから中華はここにしよう。ご飯の後、マブ男さんがガイド、チカエの通訳で、夜のダウンタウンを案内してもらう。マンハッタンの夜景が見られるRiver Cafeへ行ったが、残念ながら結婚式の貸切となっていて入れず。横からブルックリン橋とマンハッタンを眺めた。
この2週間余、予定が全くないのは3日ほどで、殆ど毎日のように何か予定が入っていて忙しかった。それでもせっかく来ているので、常に何かしていたい父は、予定のない日は退屈気味。そんな日は母と長い散歩に出かけていた。結果的には結構フルで楽しんで帰った模様。
でも一番良い目をしたのは私かも。外食も多かったが、この間に食事の支度をしたのはたったの1度、昼ごはんにチャーハンを作っただけ。あとはずっと母がおさんどんをしてくれた。一応悪いから「手伝おうか」と心にもない声は掛けていたが、いいというので、全~部お願いした。
買い物に行っても父が払うと言うので、お言葉に甘え、遊びに行った費用も含めて全部2人に出してもらった。いいのかなぁ・・・と思いつつも、出すと言うので、お願いしました。ちなみに誕生日のディナーは私が出しましたよ~。それも払うと言ったけど、誕生日のお祝いを自分で出させるのは申し訳ないからね。
年金暮らしの両親に払わせて・・・と罪悪感がないわけでもありませんが、カネ食い虫のいる我が家への思いやりとありがたく受け取っておきますです。ちなみに父曰く、母はシルバーセンターでのアルバイトで羽振りが良く、父にも月に2万円のお小遣いをくれているそうであります。
シルバーセンターと言うのは、芦屋市が斡旋する老人の派遣アルバイト。登録者は60歳(?)以上の市民。派遣先もやっぱり市民か市に関する仕事。母は週1で、子供のいない大学教授夫妻の家に3時間掃除に行き、これまた週1で病気で寝たり起きたりの奥さん(子供7歳)のところに食事を作りに行く。3日分くらいをまとめて作っておくそう。また不定期で火災報知機の検査をよそのおじいさんとペアで回っている。掃除のほうは3階建ての家なのに、掃除機が1つしかなくて持って上がったり降りたりがしんどいそう。家の中にエレベーターもあるのに、電気代が高いので止めてあるんだって。「各階に掃除機おいてもらったら? うちですら各階にあるのに」と私。これホント。地下はもらったやつ、1階は簡易の充電式のやつだけど。
食事のほうは楽しいらしい。そこのお譲ちゃんがとっても可愛いんだって。「おばちゃまのピラフは本当においしい」と、母の焼き飯は、このオタクではピラフに格上げされる。「おばちゃまの作るものが大好き」といつも言ってくれるそうな。
ちなみに、母はシルバーセンターでのアルバイトの他、ボランティアで盲人のための朗読をし、毎朝、早起きして山へ散歩に行き、同窓会と称して小学校の同級生と月一でハイキングに出かけ、幼馴染を含む高校の同級生4人組でしょっちゅう旅行したり食事したりと、超級に元気で忙しいのである。父も子供にテニスを教えたり、碁会所へ行ったり、母の不在時に家を掃除したりしているそう。
そんな話を聞きながら、母が食事の支度をするのを眺めておりました。食事の後は、いつものごとくコイオがさっさと後片付け。それを見て母が、「お義母さん、こんなん見たら泣かはるわぁ」
「よう、躾けてありまっしゃろ?」と私。
「慣れてますから」とコイオ。
「おじいちゃん! おじいちゃんも、ちょっとは見習ってよ」
3日ほどすると、父が自分で食べたものを流しに運び、洗っているではありませんか。はて、日本に帰っても続いているかなぁ。
そんなわけで、両親がいた間は極めて充実した食生活だったわけです。帰国した日の夜の分も前日に用意しおいてくれました。従って本日より普段の悲惨な食生活に戻りま~す。
しかし両親の帰国を誰よりも誰よりも惜しんでいるのはジョダ。と言うのも2人がいた間は朝晩1時間ずつお散歩に連れて行ってもらっていたから。朝はたいてい母が。夜は、母が食事の支度をしている時は父が。外出から帰って来たときは、その足で2人で散歩に行ってくれていました。ジョダは少しスリムになったみたい。
「お陰で、ええ冥土の土産ができました」と言ってたけど、そのくらいの土産では足らんと冥土の人に言われるかもしれんので、もうちょっと土産を増やしに、また是非来てくださいまし。今度は1日分とは言わず、1か月分くらいの食事の支度して帰ってちょうだい。
この家を発って空港に向かうべく、愛車オデッセに乗り込み、口々に言う。
「シートベルトは、これじゃの。おー、入ったで。」
「私のも、すっと入りました。ようやく、すんなりシートベルトが出来るようになったと思たら、帰らなあかんのやねぇ。」
「ほんまやのう。身体もなじんで、やっと快腸になったのになぁ。」
と言いながらも、未だにオデッセの自動スライドドアの閉め方を父は学習していない。ドアを開けたまま、私が閉めるのを待っている。
最初のナイアガラへの2泊の旅。ラクイサ(アメリカのお母さん)とのハプニングもなく、楽しく過ごすことができた。私は自分が話すと、人が話す分も合わせて3倍話さないといけないので、極力話さぬようにした。
母:「いやぁ、お母さんとやっと会えて、いろんなお話できて嬉しいわ。でも、娘に通訳させていると、本人の悪口言えないわね」
ラクイサ:「大丈夫、その時は、シナコを呼べばいいじゃない」
その後、実際に私の悪口を言う為にシナコが呼ばれたかどうかは知らないけど。
母:「この前、娘が電話で通訳して、お母さんとお話したでしょ。あのことをエッセイに書いて投稿したら、入選したのよ」
ラクイサ:「あら、是非読みたいわ。訳してね」と私に言う。
そうだったの、私もまだ読んでないよ。
ナイアガラへの道すがら、助手席に座ったラクイサがどんどん私に話しかけてくるので、時々その内容をまとめて後部座席の両親に説明していたら、「いいよ、全部訳してくれなくても」と母が言う。私を気遣ってと思っていたけど、ひょっとして一方的なラクイサの話を聞くのがめんどくさかったから? されどラクイサ。「いーえ、私の話はどれも重要だから、一言漏らさず全部訳してちょうだいね! わっはっはー!」
ホテルはカナダ滝の真正面。「シニア料金」の割引が効いたので滝の側の部屋を取ったのだが、大正解。目の前にカナダ滝が見えて圧巻でした。(今回はマリオットにしたけれど、前に泊まったお隣のシェラトン・フォールズビューもとても良かった。ナイアガラに行くなら、このどちらかをお勧め。シェラトンはアメリカ滝に近いシェラトン・オンザフォールズもあるから、間違えないように。)
ナイアガラに着いた翌日は、曇りのち雨。ホテルから目の前のケーブルカーで滝の近くへ降りる。滝の裏側のツアーを終えて、いざ霧の乙女号へ向かって歩こうと言う段になって、「ワシは、もうええ。ホテルに帰る」と父。朝の儀式が、時差ぼけでホテルを出る前に終わっていなかったのが、ここへ来て、父のお決まりの表現を借りれば「エンジンがかかった」らしいのだ。父は一人で再びケーブルカーでホテルへ。貸しきりだったそう。そりゃそうだ。あの時間に戻る人なんていないわ。
そこで女3人で霧の乙女号へ。帰りは雨に打たれたけど、船で既にびっしょりだったし、もらったポンチョが役に立った。
http://www.maidofthemist.com/en/
その日は父の77歳の誕生日。滝を見下ろすスカイロンタワーの上にある、1時間かけて360度回転するというレストランを予約していたのだが、あいにくタワーは雲の中。よっぽどキャンセルしようかと思ったけれど、せっかくだから行くことにした。ガラガラだろうと予想していたのに、雨だからと予定が変更できないツアー客でレストランは結構埋まっていた。案の定、視界はほぼゼロ。見えるのは雲ばかり。
http://www.skylon.com/
景色は見られなかったけれど、ディナーの後に、突然ピアノがハッピーバースデーを奏で出し、ろうそく1本を立てたケーキが父に運ばれてきて、みんなに歌ってもらって、嬉しそうだった。
しかし、翌日判明したのだが、父はただ私たちが歌っているだけだと思っていたそうだ。ピアノの伴奏の音もも、店中の客が歌っていたのも全然知らなかったそうな。父は耳が遠いのである。
ナイアガラ2日目の夜は2度目の大統領討論会。ホテルの部屋に戻ったときは大方が終わっていた。
帰り道、良いホテルだったねーと言う話になったときに
ライクサ:「でもひとつだけ難あり。フォックスニュースが入らなかった」
私:「えっ? そうだったの?」
ラクイサ:「そうよ。じゃなかったら、なんで私がCNNを観てたと思ってんの?」
私:「私への配慮かと思った・・・」
ラクイサ:「まさか!」
そして両親のほうを見て「彼女とわたしは政治的な見解だけは合わないのよ、ね?」
父:「お母さん、心配せんでえーです。何やかんや言うたかて、どうせコイツには、選挙権はないんやから。は、は、はー!」
行きはピークまでは今一歩と言うところだったのに、たった2日後の帰りのドライブでは紅葉した景色が最高にきれいだった。毎年きれいな紅葉が見られるわけじゃないので、これはとってもラッキー。とにかく、少し進む毎に「わぁ~きれー!」「すっごいきれー!」「めっちゃきれー!」を連発するので、ラクイサまでも「キデー!」
ナイアガラから戻って翌日は、キニコの母校、ホッチキスを案内。学校を見て父が言う。
「こりゃ、学校ちゅうよりは、美術館みたいな建物やな」
確かに、改めてきれいなところだと思った。その後、近くでランチを食べ、そこから少し北に行ったマサチューセッツ州にあるNorman Rockwell Museumへ。私は彼の絵が好きなのです。
http://www.nrm.org/
その後、ニュージャージーのベッツィーの家にラクイサを送って行った。本来は3時間半の道のりが、3連休の初日であったため、ジョージワシントン橋で大渋滞およびハプニングで、5時間かかった。
渋滞中、橋の少し手前で右手の高速の出口に長い列ができていた。列の最後尾のバスが4車線目のレーンをふさいでいる。そのレーンを走っていた私は、少しレーンにお尻がはみ出たバスをかわして通ろうとした。途端にバキっと言う大きな音が。
何じゃ?と思ってみたら、隣のラクイサが「あらー!見てコレ!」
なんと、右のサイドミラーが根こそぎ折れて、電動ミラーのワイヤだけでぶら下がっているじゃありませんか! はー、やってしまった。バスにも傷がついてるだろうけど、そんなの知ったこっちゃないし、あっちも渋滞、こっちも渋滞で、誰も追って来られない。こっちも止まるのも戻るの無理。サイナラ~とゆっくり現場を去りながらも、またしても夫コイオの怖い顔が浮かぶ。
みんなを見渡して、「いい、このサイドミラーはNorman Rockwellの駐車場に停めていた間に、誰かにぶつけられて折られたことね。絶対コイオに私がやったって言わないでよ! 怒るから。」
父:「ええけど、お前、ようそんな悪知恵がすぐに思い浮かぶのう」
私:「だって、前にバンパーぶつけたときに、チカちゃんに『何で言うたん? 黙ってたら分からへんかったのに』って言われたから」
父:「ホンマ、お前ら、悪知恵が働くのう」
そして父は母に向かって、「おい、お前が言うたれ。あいつが言うよりホンマっぽいやろ」
母:「そんなん、私じゃなくて、おじいちゃんが言うてよ」
父:「あかん、ワシは笑ろてしまう」
母:「じゃ、車に乗ったときに、まずラクイサが気がついたってことね」
ラクイサ:「それで、私が見てと言って、みんなでびっくりして憤慨した」
母:「あかん、私も笑ってしまう」
私:「あかんよ、笑ったら! 怒ってないとおかしいねんから」
母:「あかん、笑うわ」
父:「あかんぞ、お前が笑ったら」
母:「ほんなら、おじいちゃん言うてよ」
父:「あかん、ワシは笑う」
ラクイサ:「それにしても、このミラーは当たったときに折りたたまないの?」
私:「日本のオデッセは折りたためたのに、これは折りたためないの。そうや! これは車が悪いんやわ! 衝撃で折りたたむようになってたら、壊れへんかったのに」
ようやく橋を抜けて、スピードが出せるようになった。すると突然ゴーン、ゴロゴロ、ガンガンと音がする。見るとワイヤだけでぶら下がったサイドミラーが突風に煽られて窓ガラスやボディーに当たっている。まずい。サイドミラーだけならまだしも、ボディーにも傷がついたとなりゃ、ますますコイオが怒る。仕方なくスピードを落とす。が、トラックが横をすり抜けると、風圧でその度にガーン、ガラガラ、ゴロゴロ。
ラクイサが窓を開けて何とかしようとしたが、どうにもならない。
仕方なくサービスエリアに出て、対処することに。
母:「ハンカチでくるんだら?」とハンカチを取り出したけど、小さすぎてくるめない。「あ、ベッツィーにあげようと思ってたお土産の風呂敷があるやん。あれで包み。」
風呂敷で包んで、ラクイサのアイデアで結び目を窓ガラスの内側にはさみ、ようやくミラーは動かなくなった。
「ほら見て。あんな風呂敷、誰が欲しいねんとか悪口言うてたけど、役に立ったでしょ」と母。
しかし、窓ガラスに白い丸い風呂敷包みが張り付いた車はとても奇妙。横を走る車の視線を感じる。
本当はラクイサをドロップした帰りに、マンハッタンに寄って、ペンシルバニア駅に9時過ぎに着くキニコを拾って帰ろうと思っていたのだが、ベッツィーの家に着いたのが9時。そんな時間もなくなった。私たちが10時半に帰宅したとき、既にキニコは一足先に電車で帰っていた。キニコの大学は、中間考査が終わってその日から4日間のお休みなのだ。
ドアを開けて、開口一番、コイオに向かって私は叫んだ。
「めっちゃ、腹立つねん! 聞いてよ! サイドミラー壊されてん!」
コイオのすごーく不機嫌な表情を見て、笑うと言っていた両親も、まじめにお芝居をする気になったらしい。
「お母さんが一番最初に見つけはってん、ね」と母がフォロー。
しかしコイオの不機嫌さはどうやらミラーのことばかりではなさそう。
「キニコの顔、見て来てみ」
キッチンで何かを食べていたキニコの顔をのぞいて、私のお芝居の怒りが、本物に変わる。
「何を考えてるの!?」
キニコは鼻にピアスを空けていたのである!
と聞くと、すぐに鼻輪を思い浮かべそうであるが、鼻輪ではなく、左の鼻の上の方にインド人の女性がつけているようなピアスをしている。
もうミラーのことはそっちのけで、コイオと私でキニコをしかり始めた。
「何でそんなところに穴を開けるのか」
「私の身体じゃない」
「アンタの身体でも、パパとママが養育している以上は好きにできないの。やるんだったら、自分で自立して生きていけるようになってからしなさい。それまでは許さない。すぐに外しなさい」
「いやだ」
「そんなんやったら、出て行け」
「これが最後だもん、もうあけないもん」
「そのうち、お臍や眉にも開けるんでしょ」
「そんなん、しないもん」
しばらくこんな応酬が続き、キニコはおいおいと泣き出したが、私たちは無視。
そこへ、母がやってきて、「もうやってしまったことは仕方ないじゃないの」
・・・で、私のほうはその話題をドロップすることにした。コイオは2、3日機嫌が悪かったけど。
車のほうは翌朝ディーラーに持っていって部品を発注。3日後には修理完了。その間、風呂敷包みをぶら下げたままでは恥ずかしいので、ミラーは取り外してもらった。
と言うことで、両親がいた間のハイライトはミラー風呂敷事件かも知れません。(未だにコイオは真実を知りませぬ。)
日曜日。マンハッタンのアッパーウエストにあるオーシャングリルと言う店で、私のアメリカの家族とキニコを除く我が家の総勢11名が集結してのブランチ。
ベッツィーは、彼女が16歳のときに日本の我が家に遊びに来たときのアルバムを持ってきて見せてくれた。父が半紙に墨で書いたベッツィーの名もあったが、本人はすっかり忘れている。
そうそう、ラクイサをベッツィーの家に送って行った時に、ベッツィーが母に見せようと人形を持って来た。それは当時母がベッツィーのために作ったもの。私たち娘もみんな作ってもらったけど、今も持っている者は誰一人としていない。「いやー、大事にしてもらって! 懐かしいわぁ」と、母はとても感激していた。
レストランで、カナダのお土産をラクイサはスザーンに渡していた。これを雪解けの機会にしたいと思っていたようだが、残念ながら、そうはならなかった模様。(あれからスザーンと話をしていないと、ラクイサが今朝の電話で言っていた。)夫のバーニーのほうは、普通にラクイサと会話していたんだけどな。
ブランチの後は、みんなでセントラルパークを散歩。その後私たちはミュージカルのライオンキングを見るためにブロードウェーに。これにはキニコも参加。
翌日、父が言う。
「昨日、あのザコバの前を通ったやろ」
「ザコバ~? なんやそれ?」
「ほれ、何や、オノヨーコか誰かの・・・」
「・・・ダコタハウスのこと!?」
「そうや、そのザコバ」
落語家の家やないねんから・・・。
ミラーの修理が終わった日は、キニコが大学に戻る日。またキニコの運転免許の実地試験の日でもあった。1時のテストの予約に2時間待たされた挙句、テスト結果は見事「不合格」。次の再試験は冬休みの12月に予約を入れた。教官からもらった紙には、「一旦停止の線を越えて止まった」が3回、「制限速度30マイルを45マイルで走った」とある。終わってから友達に電話で「あの、バカ教官が・・・」と話していたが、「そういう言葉は使わないの。バカはアンタでしょ」 (キニコは「お尻の穴」と言う英語を使ってました、はい「麻生」さんです。)
大学へキニコを送りついでに、両親をペンシルバニア州に住むアーミッシュの村に連れて行こうと、寮でキニコをドロップした後は、ランカスターという町に行って泊まった。翌朝、午前中一杯をアーミッシュ観光にあて、その後お土産を買って帰った。あまり興味がないかなと思っていたけれど、二人とも結構、興味をそそられたようで良かった。
http://www.pbase.com/terry434/amish&page=all
日本語でのマンハッタンバスツアーと言うのがあって、両親だけで参加。友達のチカエと4人で昼食を食べた後、2人をツアーに送っていき、私はチカエと、お茶して待っていた。
さて、どんなツアーだったかと聞くと、想像していた2階建てバスではなく、ただのマイクロバス。参加者も両親を入れて8人。ガイド兼運転手の日本人のおじさんが、運転しながら前を見て話すので、耳の遠い父には3割しか聞こえず。また「右手を見てください」と言われて、一番後部座席の両親が自分たちの右手を見ていたら、どうやら運転手さんの右手だったらしく、どの建物のことやらわからなかったそうな。「上のほう」と言われても、バスの天井で何も見えないし。バスを降りたのは、唯一バッテリーパーク。遠~くに自由の女神を眺めるだけ。エンパイヤステートビルも外から眺めるだけ。「逸話や歴史の話は面白かったけど、いったいどこを走っているのやら、さっぱり分からなかったわ。」しかも、前の座席に陣取った6人組みは、今朝の飛行機で日本から来たばかり。時差ぼけで、バスに乗るなり船をこいでいたので、これじゃ、ガイドさんのやる気も削がれるわな。
翌日の土曜日はマチネでミュージカル「オペラ座の怪人」を見に再びマンハッタンへ。父はミュージカルは、もうええ、とミッドタウンにある「日本囲碁クラブ」へ碁を打ちに行く。残念ながら、その日のお客は父とアメリカ人の大学生一人だけ。初心者の学生に父が教える羽目に。「先生」と呼ばれる囲碁クラブのおじさん(日本からわざわざ3ヶ月交代で来ているそう)とも打ったそうだけど、あまりに人がいなくて、期待を裏切られたらしい。
オペラ座の怪人で、私は前半の途中から意識を失った。やっぱ、私のミュージカルに対する理解はライオンキング止まりです。ちなみに母もコイオも居眠り。しっかり見て面白かった~と言ったのはシナコだけ。
夜はチカエとマブ男さんも一緒に中華街で晩御飯。海鮮料理が中心の中華料理店(Fuleen)は、とっても美味しかった。特にdungeness crab(アメリカイチョウガニ)が! これから中華はここにしよう。ご飯の後、マブ男さんがガイド、チカエの通訳で、夜のダウンタウンを案内してもらう。マンハッタンの夜景が見られるRiver Cafeへ行ったが、残念ながら結婚式の貸切となっていて入れず。横からブルックリン橋とマンハッタンを眺めた。
この2週間余、予定が全くないのは3日ほどで、殆ど毎日のように何か予定が入っていて忙しかった。それでもせっかく来ているので、常に何かしていたい父は、予定のない日は退屈気味。そんな日は母と長い散歩に出かけていた。結果的には結構フルで楽しんで帰った模様。
でも一番良い目をしたのは私かも。外食も多かったが、この間に食事の支度をしたのはたったの1度、昼ごはんにチャーハンを作っただけ。あとはずっと母がおさんどんをしてくれた。一応悪いから「手伝おうか」と心にもない声は掛けていたが、いいというので、全~部お願いした。
買い物に行っても父が払うと言うので、お言葉に甘え、遊びに行った費用も含めて全部2人に出してもらった。いいのかなぁ・・・と思いつつも、出すと言うので、お願いしました。ちなみに誕生日のディナーは私が出しましたよ~。それも払うと言ったけど、誕生日のお祝いを自分で出させるのは申し訳ないからね。
年金暮らしの両親に払わせて・・・と罪悪感がないわけでもありませんが、カネ食い虫のいる我が家への思いやりとありがたく受け取っておきますです。ちなみに父曰く、母はシルバーセンターでのアルバイトで羽振りが良く、父にも月に2万円のお小遣いをくれているそうであります。
シルバーセンターと言うのは、芦屋市が斡旋する老人の派遣アルバイト。登録者は60歳(?)以上の市民。派遣先もやっぱり市民か市に関する仕事。母は週1で、子供のいない大学教授夫妻の家に3時間掃除に行き、これまた週1で病気で寝たり起きたりの奥さん(子供7歳)のところに食事を作りに行く。3日分くらいをまとめて作っておくそう。また不定期で火災報知機の検査をよそのおじいさんとペアで回っている。掃除のほうは3階建ての家なのに、掃除機が1つしかなくて持って上がったり降りたりがしんどいそう。家の中にエレベーターもあるのに、電気代が高いので止めてあるんだって。「各階に掃除機おいてもらったら? うちですら各階にあるのに」と私。これホント。地下はもらったやつ、1階は簡易の充電式のやつだけど。
食事のほうは楽しいらしい。そこのお譲ちゃんがとっても可愛いんだって。「おばちゃまのピラフは本当においしい」と、母の焼き飯は、このオタクではピラフに格上げされる。「おばちゃまの作るものが大好き」といつも言ってくれるそうな。
ちなみに、母はシルバーセンターでのアルバイトの他、ボランティアで盲人のための朗読をし、毎朝、早起きして山へ散歩に行き、同窓会と称して小学校の同級生と月一でハイキングに出かけ、幼馴染を含む高校の同級生4人組でしょっちゅう旅行したり食事したりと、超級に元気で忙しいのである。父も子供にテニスを教えたり、碁会所へ行ったり、母の不在時に家を掃除したりしているそう。
そんな話を聞きながら、母が食事の支度をするのを眺めておりました。食事の後は、いつものごとくコイオがさっさと後片付け。それを見て母が、「お義母さん、こんなん見たら泣かはるわぁ」
「よう、躾けてありまっしゃろ?」と私。
「慣れてますから」とコイオ。
「おじいちゃん! おじいちゃんも、ちょっとは見習ってよ」
3日ほどすると、父が自分で食べたものを流しに運び、洗っているではありませんか。はて、日本に帰っても続いているかなぁ。
そんなわけで、両親がいた間は極めて充実した食生活だったわけです。帰国した日の夜の分も前日に用意しおいてくれました。従って本日より普段の悲惨な食生活に戻りま~す。
しかし両親の帰国を誰よりも誰よりも惜しんでいるのはジョダ。と言うのも2人がいた間は朝晩1時間ずつお散歩に連れて行ってもらっていたから。朝はたいてい母が。夜は、母が食事の支度をしている時は父が。外出から帰って来たときは、その足で2人で散歩に行ってくれていました。ジョダは少しスリムになったみたい。
「お陰で、ええ冥土の土産ができました」と言ってたけど、そのくらいの土産では足らんと冥土の人に言われるかもしれんので、もうちょっと土産を増やしに、また是非来てくださいまし。今度は1日分とは言わず、1か月分くらいの食事の支度して帰ってちょうだい。
2008年10月4日土曜日
ジジババの到着
空港に迎えに行ったら、到着時間から実際に出てくるまで1時間も待たされた。入管で時間がかかったそうな。
前の人を入国管理官が連れてどこかに消えてしまい、なかなか戻って来なかった。その後、戻って来て両親に質問するも、両親は全く英語を解せず。
管理官は両親にどうやら何ジンかと聞いている模様。「日本のパスポート見せてるんやから、聞かんでもわかるやろ」思いながらも『ジャパニーズ』と答える。管理官は、後ろに並んでいる東洋人に向かって何か聞いたが、彼は「コリアン」と答えている。するともう少し後ろのほうに並んでいた人が、少し日本語が分かると言って、助けに来てくれ、ようやくめでたく入国。
車の後ろの席に乗り込むや父は、「ほんま、アメリカちゅうところはわからんなぁ」
「何が?」
「このシートベルトがどないなっちょるかわからん。なんじゃこれは、どないなっとるんや?」
「それは、真ん中の席のベルトでしょ。パパのは、あっち。」
「えっ? そうか、ようわからんのう。」
すると私の隣に乗った母も、「私のもないわ」
「ないわけないでしょ、そこやん、振り向いて見てみ」
「はー、あった、あった、そやけど、これがなかなか入らへんのよね~」
「どこにあるか、わからん。どないなっちょるんや。お~、これか。ほんま、アメリカ言うところは、わからんところやの~。」
アメリカやないでしょ。
だいたい、この車はオデッセ、日本車やで。
かくして、車に乗るたびに「アメリカ言うところはわからんの~」を繰り返しながらシートベルトを探している。
前の人を入国管理官が連れてどこかに消えてしまい、なかなか戻って来なかった。その後、戻って来て両親に質問するも、両親は全く英語を解せず。
管理官は両親にどうやら何ジンかと聞いている模様。「日本のパスポート見せてるんやから、聞かんでもわかるやろ」思いながらも『ジャパニーズ』と答える。管理官は、後ろに並んでいる東洋人に向かって何か聞いたが、彼は「コリアン」と答えている。するともう少し後ろのほうに並んでいた人が、少し日本語が分かると言って、助けに来てくれ、ようやくめでたく入国。
車の後ろの席に乗り込むや父は、「ほんま、アメリカちゅうところはわからんなぁ」
「何が?」
「このシートベルトがどないなっちょるかわからん。なんじゃこれは、どないなっとるんや?」
「それは、真ん中の席のベルトでしょ。パパのは、あっち。」
「えっ? そうか、ようわからんのう。」
すると私の隣に乗った母も、「私のもないわ」
「ないわけないでしょ、そこやん、振り向いて見てみ」
「はー、あった、あった、そやけど、これがなかなか入らへんのよね~」
「どこにあるか、わからん。どないなっちょるんや。お~、これか。ほんま、アメリカ言うところは、わからんところやの~。」
アメリカやないでしょ。
だいたい、この車はオデッセ、日本車やで。
かくして、車に乗るたびに「アメリカ言うところはわからんの~」を繰り返しながらシートベルトを探している。
2008年10月3日金曜日
副大統領候補の討論会
昨日は早々と夕食の支度を追え、一分たりとも逃さずディベートを見る万全の体制を整えていた。
開始直前にコイオ(夫を以降こう呼びます)が帰宅。
「テレビ見なあかんから、ごはん出してあるから勝手にして」と告げて、いそいそと居間へ移動。
こんなにして臨んだのに、なのに、なのに、それなのに、不覚にも最後の30分は意識不明に陥り、気がついたらディベートは終わっておりました・・・。
なんでや~!
つまり、期待したほどのエンターテイメント性はなかったのであります。十分な練習を積んだのか、ディベートの司会者が優しいからか、CBSのケイティークーリックとの単独インタビューで見せたような場面は皆無。実際、ディベートが始まった直後は、「こりゃペイリンに軍配が上がったか・・・」と思ったほど、彼女は画面を見据えて語る一方、バイデンのほうは司会者のほうを見てうつむきがち。声もあまり抑揚がない。
でも、まもなくバイデンもトーンが上がってきて、やはり討論の内容だけを見ると、バイデンは質問に直接答える一方、ペイリンのほうは自分の言いたい内容へ話を持っていく。逃げたわけだが、うまく強調したい内容に摩り替える作戦でもあった。
同性愛者カップルの「権利」について、ペイリンが「結婚以外は認める」と言い切ったものだから、エバンジェリカルな保守派からブーイングが出るのでは。
そのあたりまで記憶はあるのだが・・・あとは覚えておりません。睡魔に負けました。
言ってみれば、投票権もなく物見胡散的に選挙を眺めている者にとっては、興奮する場面もなく、面白みにかけたということでした。
あ、こんなことしてるバヤイじゃない。ジジババを空港に迎えに行かねば!
開始直前にコイオ(夫を以降こう呼びます)が帰宅。
「テレビ見なあかんから、ごはん出してあるから勝手にして」と告げて、いそいそと居間へ移動。
こんなにして臨んだのに、なのに、なのに、それなのに、不覚にも最後の30分は意識不明に陥り、気がついたらディベートは終わっておりました・・・。
なんでや~!
つまり、期待したほどのエンターテイメント性はなかったのであります。十分な練習を積んだのか、ディベートの司会者が優しいからか、CBSのケイティークーリックとの単独インタビューで見せたような場面は皆無。実際、ディベートが始まった直後は、「こりゃペイリンに軍配が上がったか・・・」と思ったほど、彼女は画面を見据えて語る一方、バイデンのほうは司会者のほうを見てうつむきがち。声もあまり抑揚がない。
でも、まもなくバイデンもトーンが上がってきて、やはり討論の内容だけを見ると、バイデンは質問に直接答える一方、ペイリンのほうは自分の言いたい内容へ話を持っていく。逃げたわけだが、うまく強調したい内容に摩り替える作戦でもあった。
同性愛者カップルの「権利」について、ペイリンが「結婚以外は認める」と言い切ったものだから、エバンジェリカルな保守派からブーイングが出るのでは。
そのあたりまで記憶はあるのだが・・・あとは覚えておりません。睡魔に負けました。
言ってみれば、投票権もなく物見胡散的に選挙を眺めている者にとっては、興奮する場面もなく、面白みにかけたということでした。
あ、こんなことしてるバヤイじゃない。ジジババを空港に迎えに行かねば!
2008年10月2日木曜日
会食
昨夜、マンハッタンでお寿司を食べた。
少し前に友人のブログを覗いていて、アッパーイーストに10貫以上食べると「半額」になるお寿司屋さんがあると言う。味もいいそうだし、是非行って試してみたいと、夫にお願いした。
「そんなもん、10貫なんて、誰かて普通に食べる量やないか。初めから半額を前提にして値段をつけてるに決まってる」
まぁ、そうなんだろうけれど、やっぱりどんなものか試してみたい。Cちゃんに話すと、「私も行きたい。マビ男もいいかな?」
マビ男さんが来るのは私は全然構わないのだが、夫は英語を話すのが面倒なので、嫌がるに違いない。さりとて、Cちゃんだってご主人に来るなとは言えない。
かくして、4人でその激安すし店に行く事になった。夫は「俺は貝になる」と宣言。
シナコはマンハッタンが嫌いだし、親と出かけるのはもっと嫌いなので、不参加。
Cちゃん夫妻とは6時過ぎにグランドセントラル駅のコンコース内にあるMetrazurというレストランのバーで待ち合わせて、夫の仕事が終わるのを待つ。しかしMetrazurは人が一杯。反対側にあるCiprianiのバーが空いていたのでそちらに移動。私はキール・ロワイヤル、Cちゃんはシャンペン、マビ男さんはモルトウィスキー。こういう時間っておしゃれでいいなー。
7時過ぎに夫がやってきて、皆でタクシーでおすし屋へ。店に足を一歩入れてちょっとショック。写真で見た以上にみすぼらしかったから・・・。でも、外観じゃない。中身よ。
しかし、更なるショックが。今日はウニはありません・・・だって。ウニは私の大好物なのだ。寿司はウニに始まってウニに終わる。コレ、私が何十年も守ってきた伝統の食べ方。あー残念。でも気を取り直して注文。
味的には、美味しかった。ものすごく美味しいかと聞かれたら、ものすごくはつかないけれど。半額になると、回転すしの値段と同等になるから、そう思うととても値打ちがある。お店の人もとても良心的な対応だたった。
ただ出てくるのが遅いのである。「一人で握っているから、仕方ないよ」と言うけど、でも、やっぱり一人にしても遅いよ・・・。
でも、食べる物がないのが功を奏したのか。その間はおしゃべりで埋めるしかない。貝になるはずの夫だったが、直接マビ男さんに話しかけられて、黙っているわけにもいかない。マビ男さんも夫を思いやった分かりやすい会話をしてくれる。「今の金融問題は仕事には影響ありますか」とか、自分たちのブラジル旅行の計画とか。夫は何度もブラジルに出張しているから、その辺の話題なら問題ない。
マビ男さんに、ハワイのコンドを使っていいよって言われて、「ホント!?」とすごく喜んでいたけど、アンタが会社休まなきゃ、いけないでしょうが。山ほど有給休暇あるのに。
お寿司を待っている間に、私は(夫も少し飲んだけど)サッポロビールの大瓶2本とマビ男さんたちが注文した日本酒も飲んで、かなり酔っ払った。帰りの電車では、またしても爆睡。夫は新聞を読んで起きていたので、乗り過ごしせず。酔っ払って登る家の前の坂は、しんどかった・・・。
お勘定は、私たち2人分で、合わせて40貫くらい(越えていたかも)食べて、ビール2本、お味噌汁2杯で120ドルくらい。うん、やっぱり回転すし並み。安いわ。ちなみにCちゃん夫妻は我が家ほど食べてないので90ドルほどでした。
少し前に友人のブログを覗いていて、アッパーイーストに10貫以上食べると「半額」になるお寿司屋さんがあると言う。味もいいそうだし、是非行って試してみたいと、夫にお願いした。
「そんなもん、10貫なんて、誰かて普通に食べる量やないか。初めから半額を前提にして値段をつけてるに決まってる」
まぁ、そうなんだろうけれど、やっぱりどんなものか試してみたい。Cちゃんに話すと、「私も行きたい。マビ男もいいかな?」
マビ男さんが来るのは私は全然構わないのだが、夫は英語を話すのが面倒なので、嫌がるに違いない。さりとて、Cちゃんだってご主人に来るなとは言えない。
かくして、4人でその激安すし店に行く事になった。夫は「俺は貝になる」と宣言。
シナコはマンハッタンが嫌いだし、親と出かけるのはもっと嫌いなので、不参加。
Cちゃん夫妻とは6時過ぎにグランドセントラル駅のコンコース内にあるMetrazurというレストランのバーで待ち合わせて、夫の仕事が終わるのを待つ。しかしMetrazurは人が一杯。反対側にあるCiprianiのバーが空いていたのでそちらに移動。私はキール・ロワイヤル、Cちゃんはシャンペン、マビ男さんはモルトウィスキー。こういう時間っておしゃれでいいなー。
7時過ぎに夫がやってきて、皆でタクシーでおすし屋へ。店に足を一歩入れてちょっとショック。写真で見た以上にみすぼらしかったから・・・。でも、外観じゃない。中身よ。
しかし、更なるショックが。今日はウニはありません・・・だって。ウニは私の大好物なのだ。寿司はウニに始まってウニに終わる。コレ、私が何十年も守ってきた伝統の食べ方。あー残念。でも気を取り直して注文。
味的には、美味しかった。ものすごく美味しいかと聞かれたら、ものすごくはつかないけれど。半額になると、回転すしの値段と同等になるから、そう思うととても値打ちがある。お店の人もとても良心的な対応だたった。
ただ出てくるのが遅いのである。「一人で握っているから、仕方ないよ」と言うけど、でも、やっぱり一人にしても遅いよ・・・。
でも、食べる物がないのが功を奏したのか。その間はおしゃべりで埋めるしかない。貝になるはずの夫だったが、直接マビ男さんに話しかけられて、黙っているわけにもいかない。マビ男さんも夫を思いやった分かりやすい会話をしてくれる。「今の金融問題は仕事には影響ありますか」とか、自分たちのブラジル旅行の計画とか。夫は何度もブラジルに出張しているから、その辺の話題なら問題ない。
マビ男さんに、ハワイのコンドを使っていいよって言われて、「ホント!?」とすごく喜んでいたけど、アンタが会社休まなきゃ、いけないでしょうが。山ほど有給休暇あるのに。
お寿司を待っている間に、私は(夫も少し飲んだけど)サッポロビールの大瓶2本とマビ男さんたちが注文した日本酒も飲んで、かなり酔っ払った。帰りの電車では、またしても爆睡。夫は新聞を読んで起きていたので、乗り過ごしせず。酔っ払って登る家の前の坂は、しんどかった・・・。
お勘定は、私たち2人分で、合わせて40貫くらい(越えていたかも)食べて、ビール2本、お味噌汁2杯で120ドルくらい。うん、やっぱり回転すし並み。安いわ。ちなみにCちゃん夫妻は我が家ほど食べてないので90ドルほどでした。
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