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2009年12月20日日曜日

読書デー

昨日は日中から降る降るという予報で、映画もモールでの買い物も見合わせて一日家でおとなしくしてたのに、結局降り始めたのは夜になってから。

朝起きると25センチくらい積もっていた。
今夜はシイナのピアノの発表会があるので車を出さないといけない。昼前、出張で空港まで行くコイオを迎えに来たタクシーは、前の坂道が滑ってうちの前まで入って来れなかったから、大丈夫かな。車で出かけたはいいけど、坂道が上がれなくて帰って来れないなんてことにならなきゃいいけど。

と言うことで雪で閉じ込められすることもないので本でも読むかってことになりました。

知人に少し前に勧められた「日本語が亡びるとき」と言う本。日本の国語教育に一石を投じる考えさせられる本と聞いていたのですが、とにかく文字が多くて、文章が長くて・・・読んでも読んでも頭にはいらなーい。私の頭悪いんだろうけど、何が言いたいのかわからくって・・・だんだん読むのが辛くなり、斜め読み。斜め読みすると余計にわからない。でも頑張って最後まで行かねば・・・と何とか一番最後まで読んだものの、いい加減に読んでたから、結局良くわからず仕舞い。

せっかく勧めてもらったのにごめんなさい。私には高度すぎました・・・。次に読んだのが、友達に面白いといわれて借りた「日本人の知らない日本語」。
漫画なんだけど、これは超級におもしろーい。
日本でガイジンに日本語を教える日本語学校の先生がクラスでのエピソードをまとめたもの。知らない日本語の知識も満載で、勉強になります。漫画でちょっと中身が少ないから、880円が惜しいというあなた。是非本屋で立ち読みしてちょうだい。1時間もあれば十分読めます。(速読できるなら30分)。但し、つい爆笑してしまうこと請け合いなので、「立ち読み禁止」の書店の場合は、店員さんから遠いところでね。

2009年11月13日金曜日

趣味は読書

昨日、受けていた翻訳の仕事が終わって、今日は丸一日暇だった。
いやー、子育ての終わった主婦って、本当にすることがない。

そんなことないでしょって?
そりゃ、やらなきゃいけないことはたくさんありますよ。掃除に洗濯、食事の支度。
だけど家事には納期はないのであります。絶対に今しなくちゃいけない訳じゃない。ちいっと散らかってるのや汚いのを我慢して、ちょっと粗食を我慢し、そして文句を聞き流しておけば良いのであります。

と言うことで、こんな塊で暇な時間ができた時に私が何をするかと言うと、本を読むのであります。暇つぶしにゲームをするときもありますけど。最近のマイブームは数独ですが、このところ記録が上がらないので飽きてきた。

何故かあまりテレビは観ない。連ドラとか見出したら、はまることもあるのだけど、とっかかりがないとだめ。もっとアメリカの番組を見て英語力を伸ばせば、と思ってはみるのだが、なんしかチャンネルが100くらいあって(実際にウチが視聴できるのは40くらいと思う)200番台のチャンネルとかもあって、覚えられない。記憶できるチャンネルは、子供時代から刷り込まれている12止まりなのだ。

暇な折に見ようと映画やドラマのDVDも買ってあるのだが、ここだけの話、どうやればリビングのテレビでDVDが見られるのかワカランのである。DVDは挿入できても、チャンネルをどうやって切り替えるのか・・・。リモコンだって2つも3つもあって、どれがどれだか、どのボタンを押すのやら・・・。

別に読書家と言うほどたくさん本も読んでないし、文学少女だったわけでもない。フリーの仕事をはじめてから、塊で暇な時間が出来ることが多いし、移動時間も多く、手っ取り早い暇つぶしとして、本に手が伸びるようになった。だいたい、本と言うのは時と場所を選ばない。テレビは、お風呂やトイレまで持って行けないもんね。という訳で、私の蔵書には波打っている本が何冊かある。うち一冊はトイレの中に落とした・・・そのタイトルも、インザプール。

しかも本を読んでその時は感動したり、含蓄があるなーとうなったり、私もこうしよう!と心に誓ったりするのだが、それも束の間。1年もすればそのとき感じたことはおろか、読んだ内容もすっかり忘れて、何も残っちゃいない。

その証拠に、しばらく前に実家に帰ったときに、すごく暇で、母に「なんか面白い本ない?」と聞くと、「じゃあこれは。世田谷の一家殺人事件をモデルにした本やけど・・・」と推理小説を手渡してくれた。なんかデジャヴのようだった。これと同じようなセリフを前に聞いたことがあるような。そう思いながら、小説を読み進んで行った。途中で何度か読んだことがある気がしながらも、結末が思い出せない。推理小説だから、結末が知りたい。知らないってことは、やっぱり読んだことないのだろう。で、最後まで読んで、あ、やっぱり読んだわ、これ。・・・まるで「かりんとうの話」を地で行くようなエピソード。(かりんとうの話、知ってますよね? 最後に舐めてみて、「あー、踏まなくて良かった」って奴です。)

長~い前置きでしたここからが本題。

今日読んだ本はブログのタイトルの「趣味は読書」。
読書をする人と言うのは、いまや人口的にはマイナーな存在らしい。でもそのマイナーな中でのメジャー(大衆)が読むのがベストセラー。そのベストセラーを辛口文芸評論家の斎藤美奈子が読んで中味を解説・批評したのがこの本。

この本は1999年から2002年までに雑誌に連載されていたものなので、対象となった本も当時のベストセラーでちょっと古いのだけれど、私が単純に感動した本もばっさり切られていたりして、いやぁ面白かった。また、「ああこんな見方もあるのね」と感心させられたり。

なかなかユーモラスな皮肉がおかしくて結構笑えるのだ。一人でキッチンのテーブルでお茶を飲みながら、何度声を出して笑ったか。私のような暇人には是非お勧めの一冊である。

例えば、こんな感じ。

村上春樹の「海辺のカフカ」

<読者がこれをどう読んだのかはわからない。ひとつ言えるのは、これはもともと60万部も売れるようなタイプの小説ではないってことだ。「何がいいたいのか、ぜんっぜんわかんねぇ」とほうっぽり投げるのが全うな反応のはずなのよ。(中略)
とはいえ、「海辺のカフカ」が久々の「村上春樹らしい村上春樹作品」だったのは事実だろう。頻出する謎。とっぴな出来事。果てしないおしゃべり。コンピュータのロール・プレイング・ゲームにも似た、謎解き心をくすぐる込み入った展開。このくらいの大作家(といっていいでしょう、もう)になると、読者を裏切ることよりも「らしさ」がやっぱり重要なのだ。>

私も読んで、ちーーーっともわかんなかったし、感動もクソもなかったから、この批評を読んで嬉しかったね。

でも、斎藤美奈子は「五体不満足」まで切っちゃう。
そりゃないでしょー、って思ったけれど、彼女の視線はちょっと新鮮だった。

<事実、「五体不満足」にはいやになるほどいやな話がない。すばらしい両親と仲間。文武両道に通じた黄金の学校生活。本には「これが青春だっ!」と叫びたくなる逸話の数々が満載だ。>

で、ここで他の障害者がこの本をどう思ったかで、「障害者は全部、頑張ればああいうことができるんだ、と思われると大変だな」と言うコメントが引用されていた。

そうか、乙武洋匡と言う人は障害はあっても、それを上回る特殊な才能を持って産まれた人なのだと、斎藤美奈子の評を読んで改めて気付いた次第。

翻訳ビジネス書の「ザ・ゴール」(550ページの長さらしい。)

<この本の長さを支えているのは、謎かけと思案とディスカッションである。(中略)
そんなこんなで「メーカーの目標は、お金を儲けることである」という大前提に主人公等が気付くまでに90ページ、「工場の生産能力を決定するのは、生産能力が一番低い工程(ボトルネック)である」という原則を発見するまでにさらに110ページが消費され、気がつけば既に本の半分くらいまで到達しているという寸法である。生産性の工場を目指す本にしては、なにかおそろしく生産性が悪い感じである。メイド・インジャパンのビジネス書だったら、こんなの10ページもあれば説明できちゃうのではないか。(中略)
一時が万事、噛んで含めるようなこの調子。噛み砕きすぎて、かえってわかりにくい気もする。アメリカ人の頭の回転速度が、最大のボトルネックじゃないだろうか。>

なかなか笑えるでしょ。

最後は、そもそもは電子メールのチェーンメールが本になった「世界がもし100人の村だったら。」
持つものと持たざるもの、南北の差を数字で訴えるやつ。
「20人は栄養が不十分だが15人は太りすぎ、富の59パーセントを6人のアメリカ人が持っている、エネルギーの80%を20人が消費している・・・」というやつです。

私も確かにこの本を読んで、単純に世の中間違っとると正義の心に燃えましたとも。

で、斎藤美奈子はこう書く。

<ここから導かれる感情は「ああ、わたしはめぐまれていてよかった」ではないか? ネットにアクセスできるのは、元々北の連中だ。
(中略)
この本の読者を100人の村に縮めるとどうなるでしょう。8人が自らの豊かな生活を反省し、5人が悲惨な国の人々に胸を痛め、4人が反戦メッセージと受け取り、3人が反感をおぼえました。残る80人は心が癒され「私はまだまだ幸せだ」「日本人に生まれてよかった」「小さいことにくよくよせずに生きていこう」と思いました。>

ブックオフの1ドルコーナーでゲットしたけれど、その何倍もの値打ちがありましたわ。

2009年5月6日水曜日

オトナ語の謎

遠方の友達に貸していた本がどさっとUPS(アメリカのクロネコ)で返却されてきた。

その中に見つけた糸井重里の「オトナ語の謎」

確か、大いに笑った記憶がある。再び手にとってページをめくる。
わははは!やっぱり期待は裏切らない!

あまりに面白いから著作権に触れるのかも知れないけど、最初の所だけ。本書の「基本編」からちょびっと紹介。

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オトナの世界は謎めいた言葉に満ちている。(中略)

基本用語編

お世話になっております

オトナの世界はこのひと言より始まる。いわば「お世話になっております」はオトナの世界における万物の始まりといっていい。使い方の基礎を述べるとすると、ほんとうにお世話になっているかどうかは関係がない。とにかく、開口一番、あっと言う間にそう述べるべきだ。
「お世話になっております」
そう、たとえあなたがまるでお世話になっていなくても。
「お世話になっております」
むしろオレがおまえを世話しているのだと思っても。
「お世話になっております」
あなたと私は絶対に初対面であるけれど。(中略)

よろしくお願いいたします

オトナの世界における万物の始まりが「お世話になっております」だとしたら、世界が終わる日に交わされる挨拶はこの言葉。すべての終わりにオトナはこう添える。
「よろしくお願いいたします」
むしろおまえが俺にお願いしているのだとしても。
「よろしくお願いいたします」
先方の担当者がマイケル・ジャクソンだったとしても。(後略)

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あ~あ、私もこのパターンに漏れず、毎回、仕事のメールを「お世話になっています」で始めて、「よろしくお願いします」で締めくくっているよ・・・確かに。もっと別の始め方と終わり方はないものか。

ついでに、もうひとつ、ふたつ紹介しちゃお。

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~マツ

月の数字を頭につけて使うのが一般的であり「イチマツ」「ニマツ」「サンマツ」というふうに使う。つまり「ハチマツ」といえば「8末」のことであり「8月の終わり」を指す。ただし、「12月の終わり」については「ネンマツ」、もしくは「ネンナイ」となるのがふつうであり、「ジュウニマツ」とは言わないようである。「クマツ」や「ゴマツ」は直感しづらい。「ジュウイチマツ」は発音しづらい。「ジュウシマツ」は鳥である。

みょうにち

「明日」と書いて「みょうにち」。そういえば学生は使わない言葉である。大学生が「みょうにちは追試があるから」とは言わないし、女子高生が「みょうにち電話するね~」とも言わないわけであるが、オトナになるといともあっさり使うのである。
「それでは、みょうにち朝イチに御社受付へ手前どものにんげんが参上いたしますので」

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あ~、何回読んでも楽しくてしかたがない!!

日本語を勉強しようとする者には必読の書だ。

「言いまつがい」シリーズも欲しいよ~!!


PS.さっきから一人で爆笑してるのだが、どうしても、もうひとつ追加したくなった。翻訳しているときも、しょっちゅう登場するんだよな、この言葉。

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等

名詞に「など」をつけて、「そのほかのもの」といった意味合いを持たせるという、じつにまっとうな使い方をするが、オトナ語における「等」の問題点は「そのほかのもの」があったためしがないということである。「そちらに資料等、お届けしいます」というとき資料以外のものは届けられない。「サンプル等、お持ちします」というとき、持っていくのはサンプルだけである。謎めいている。ああ、謎めいている。「広報の写真等、いただけますでしょうか?」と言われた場合、広報用の写真以外に求められているものはない。

2008年8月17日日曜日

奥田英朗

彼の名を初めて知ったのは、米原万理の「打ちのめされるほどすごい本」を読んで。

(米原万理の作品は大好き。本当に本当の惜しい人を亡くしてしまったと思う。あの人の脳ミソをどうにか保存することが出来ていたら・・・と、本気で思う。)

「打ちのめされるほどすごい本」は、米原万理がいろんな雑誌に書いていた書評をまとめたものと、後半は闘病日記。

この書評の中で彼女が「良かった」と書いたものの中から、自分が興味ありそうな本を買い集めた。確かに「アタリ」が多い。

そのアタリの中の一冊が奥田英朗の「最悪」だった。

この「最悪」をきっかけに、次々に彼の作品を読んだけれど、殆どハズレがない。軽いけど、「精神科医・伊良部」シリーズは、ちょっと風刺も入っていて面白い。お勧めです。(そういえば、「打ちのめされる・・・」には、村上春樹の作品はなかったなぁ・・・。)

村上春樹

2月頃、マンハッタンでの仕事のあとに、友人たちとレストランで夕食を食べたときのこと。途中から、近所に家がある友人のご主人(アメリカ人)も加わった。

本の話題になったとき、そのご夫婦が二人して村上春樹を絶賛。NYUで数学を教えているご主人は村上ファンで、英訳された作品をたくさん読んでいるそう。「ノーベル賞に一番近い日本人作家って言われているんだよね。」

村上春樹の名前は知っていたけれど(昔は村上龍と区別がつかなかった。後者がテレビに登場するようになってようやく区別がつくようになった)、作品は一冊も読んだことはなかった。そんなにすごい作家なら、よし! 何事も「形から入る」私は、早速本を買い集めた。丁度日本に帰国する前のことだったので、ブックオフ・オンラインでたくさん購入して実家に送りつけた。

最初に読んだのが「アフターダーク」。ところが、あまり面白くなくて、途中で止まってしまった。代表的な作品じゃないし、これじゃ村上の良さはわからないのだろう。

しばらく手をつけないでいたが、最近になって「ノルウェーの森」を読んだ。必死に読み終えたという感じ。だってのめりこめないし、ヘンチクリンな話しだし、うーん、私の読み方が悪いのかなぁ? あ、ノルウェーの森は初期の作品だし、ひょっとしてもっと最近の作品がスゴイのかも。

次に挑戦したのが「海辺のカフカ」。「ノルウェーの森」よりさらに太い文庫本の上下2巻。しかし、これもダメ。もう読むのがしんどい。でも読まねば彼の良さはわからない。とにかく、文章はどうでもいいから、ストーリーだけでも追おうと、超級の斜め読み。ところが話の展開も妙。ひょっとして、最後まで読めばこれがみんな繋がって、な~るほど!と納得するのかも。(部分的には面白いと思えるところもあるにはあった。ネコと会話できるおじさんのところは面白かった。)

ところが、最後まで読んでも、変な話のなぞは解けない。では、何か哲学的なものが含まれているのか。いや、それもなさそう。文章も英語の文章を日本語訳にしたような文章なのだよ。これがいいのかも知れないけれど・・・。

誰かに、何かをしていいかと聞かれて、「もちろん」なんて答える日本人はあんまりいない。でも村上の文章中の会話には頻出する。実際のところ、私はしょっちゅう口にするんだけれど、これは英語のOf courseの直訳。別に意識して使っているわけではなく、アメリカに長くいると、つい口をついて出ていしまう。私に限らず多くの日本人が使っている。でも、純粋の日本人(と言うのも変だけど)は、こんなこと言わないよね? 超ドメな、うちのオカンやオトン、兄弟姉妹は絶対に使わない自信がある。

とにかく、村上春樹はダメでした。これは文学価値のわからぬ私が悪いのか? 
そこで昨日、髪を切りにマンハッタンのA子さんのところへ行ったとき、彼女に聞いた見た。彼女もたくさん本を読む人。

「あたしもダメだった。途中でやめちゃった。」
なるほど。私が悪いわけじゃなかったのね。

A子さんのところに行った後は、恒例のCちゃんとの待ち合わせ。近くのホットチョコレート屋さん(Max Brenner ここのイタリアンのホットチョコレートは、パリのアンジェリーナのホットチョコレートと同じくらい濃い)でひとしきりダベる。

「私も読んだけど、アカンかった。」
おー、やっぱり。そう聞いて、自分は普通だったのかと安心する。そうなると今度は、いったい村上のどこがいいのか不思議になる。わっからなーい。今度、Y子さんに聞いてみよう。

それにしても、「ノルウェーの森」にも「海辺のカフカ」にも、女性が男性を”手でイかせてあげる”シーンが頻出する。セックスシーンの一部としてじゃなくて、ただそれだけ。よっぽど村上春樹って、コレが好きなんだろうなぁ。「そうやろ」とCちゃんに言われ、自分のこの意見に自信を持った。

2008年6月14日土曜日

愛は傷つけない by ノーラ・コーリ

本を読みながら、何度も何度も本の内容から離れて考え込んでしまった。

日本にいると、いかに日本が男尊女卑的な社会か、半ば感覚が麻痺してわからなくなってしまう。
でも、海外にいると、そんなところが浮き彫りにされ、余計にそれを強く感じるのだ。

一昔前の日本は、ある面それも致し方のない部分もあっただろう。情報もなければ、社会的に受け入れられていた部分があるからだ。それが、徐々にこれではいけないと言う意識と理解が世界的にも得られて来たにも関わらず、生活が近代化し質が向上した日本社会が、精神的な発展を殆ど遂げていないのはどうしてだろう。

それは、社会の中枢にいる男性が、そう言う考えを浸透させないがための制度を維持しようとしているからではないか。女性の進出を妨げ、妨げられたが故に社会的に身分の低い女性を、あざ笑い、あざ笑うことで自分の優位性を誇示しようとする。

このブログを読んでいる男性は、俺はそう言う人間じゃないと思っていることでしょう。でも、果たしてそうでしょうか。きっと多かれ少なかれ、自分が優位な立場にあることから満足感を得ているんじゃないでしょうか。

「妻より稼ぎが良い」と言うのが、優位性を感じる最も大きな要因だと思う。何を隠そう、家の中のことをたくさん手伝ってくれる、一般的にはとても「よく出来た」我が夫ですら、「俺より稼いでから言ってくれ」と言ったことがある。彼にとっては何気ない言葉だったかも知れないが、私はかなり悔しい思いをした。(未だに覚えているほどだもん。)

でも私が彼より稼げないのは、単に私の能力が彼より劣っているからだろうか? そうじゃない。社会のシステムがそうさせているのだ。おそらく私が男だったら全く違っていただろう。(そうじゃ、なかったりして。) 

念のため、この本はDVの本だが、肉体的な暴力と言うより、主に精神的な暴力としてのDVについて書かれた本である。だから、被害者である女性にではなく、男性諸君に、是非とも読んで欲しい本である。加害者としての男性には、全く加害者としての意識がないから、この本を読むことで、女性たちがどう感じているのか是非とも気づいて欲しい。

「愛は傷つけない」を読んでみたい方は、下記のサイトからメールにて注文を入れてね。
http://www.caretheworld.com/japanese/books/books.html

私の体験で、こんな例がある。ある日本人管理職男性が、部下に当たるある女性のアメリカ人マネージャーに言った。
「キミは、女性なのに、非常に良くやってくれている。本当に感謝しているよ。」
通訳をしている私は固まった。はて、このまま訳して良いだろうか?
即座の判断は、「女性なのに」を飛ばすことだった。うっかり口が滑ったかも知れないと、良心的に解釈したからだ。

しかし、その後も彼は、たびたび、「女性なのに」を連発した。以降は、きっちり訳させて頂いた。それは彼の考え方の根幹にあるものを、この女性にもしっかり伝える必要があると思ったからだ。

日本人男性の考え方の根底には、無意識にもこんな思いがしみこんでいるのではないだろうか。

もうひとつ、この本にあったある女性の話で共鳴した点がある。私の常々の思いが、その文章に的確に表されていた。そのまま引用させてもらう。

「夫の転勤が決まってから2週間は殆ど家に帰ってきませんでした。その間、私は引越しの手配、学校の手配、など全て自分でしました。企業は子供への教育アドバイザーを設置するものの、妻の今の仕事をどうするか、妻の海外でのキャリア、帰国後の仕事への復帰など考えもおよばないでしょう。これは子供以下の扱いです。彼らは妻が仕事をやめ、夫についていくのは当然と見ています。妻の人生に対する尊敬の念が夫にも、企業側にもありません。」

企業側にすれば、夫についていくのが当然ではなく、夫が単身で行き、妻や子供は残るというオプションも与えている、と言うのでしょう。そう言うことを言っているのではなく、帯同するための便宜をもっと図ってくれてもいいと思うのだ。会社からのフォローは全くなしで、アメリカで働きたければ、これこれこういう憂目に会いますが、それは覚悟の上でね、なんて、余りにあんまりだ。

それと、今回のブログの文頭に書いた海外で初めて浮き彫りになる日本社会の男尊女卑・・・って言うか、女性排他主義と言ったほうがもっと正確かな。

アメリカに来たら、いたるところで夫婦同伴の機会があるだろう、と思っていたら大間違いであった。仮にも日本の有名企業でグローバルに仕事をしている夫の会社。郷に入れば郷に従えで、アメリカ文化を受け入れているのかと思いきや、夫の企業のみならず、どの日系企業もまるっきりドメドメな習慣・文化をニューヨークに持ち込んでいるのだと発見。(オハイオで仕事していた会社は違ったんだけど、日系企業マイナーなオハイオじゃ、地域に溶け込む努力を図っているが、「日本」と言って大きな顔ができるNYでは事情が違うのだと思う。)

何も日本文化を前面的に否定する気はない。でも、夫の仕事と言う点で、家族を排除するような、家族の存在を無視するような、そんな習慣、どうなんだろう。(もちろん、日本にいる間はそれが当たり前で、みんな疑問にも思わないわけだが。)夫の会社も、あたかも自分の会社のように愛したいと思っても、残念ながら、この2年間で私の気持ちは後ろ向きになるばかりだ。

会社の集まりは、男だけか、妻だけ。だれがよその奥さんに会って楽しいのだ。(いや、楽しい時もあるけど。)でも、私が会いたいのは、夫が一緒に仕事をしている人の奥さんではなく、一緒に仕事をしている人そのものだ。その人たちを知れば、共通の知人も増える。「xxさんの奥さんの○○さんは・・・」なんて話をしても、夫は上の空だもん。

日系人社会が小さかったサウジ時代は、家族ぐるみでお付き合いが出来た。夫婦共通の友人ができた。正直言って、我が家が最も輝いていた、最も楽しかった時代だ。

ところが、NYに来てからは、日本人社会がデカ過ぎるから、そう言う集まりはなくなった。同時に妻の存在も無視されるに至った。(無視はされても、簡単には自由にはさせてくれないのだ。)

先日も、夫だけが、日系企業とニューヨークにある日本人関連組織、および日本と利害のある米国企業の出席するディナーパーティーに出た。何でもブラックタイ(正装)で出席を要求される立派なディナーパーティーである。それに、夫が一人で出席すると言うのだ。ブラックタイで男だけ? 私はのけぞった。 

夫が持ち帰ったパーティーの出席者リストを、早速色分けしてチェック。(私も暇と言うか、こだわると言うか。)ざっと見て400名くらいの出席者の中で、出席者の内訳は下記の通り:

日本人のカップル:  18組
アメリカ人カップル:  23組
日本人女性(単身):  19人
アメリカ人女性(単身):68人 
野郎の単身:    約230人 (多分4分の1は日本人)

出席者の大半が単身の男性と言うのを見て、いかに考え方に隔たりがあるか、上記の数は如実に伝えている。思うにアメリカ人男性で単身で出席した人の中には、「どうせ日本人はみんな単身で参加するんだから、釣り合いが取れない」と、妻を伴うことをやめた人も多いだろう。

このディナーは1972年から続いている伝統的なものらしく、40年近くたったNYでもこの状態だなんて、日本での「女性排他主義」は、おそらく止むことはないんだろう。

ちなみに、「なんで、私は招待されないのよ~! ブラックタイで男だけなんて馬鹿みたい!」という言葉に対して、夫は、
「俺かて、行きたいわけやない。それに、高いディナーなんやで。」

行きたくなきゃ私が行ってやるのに。女には高いディナーを食べる値打ちもないってわけ?