私たちが迎えのバスに乗り込むと、日本人は全員戻っていたけれど、ガイジンのほとんどはまだやった。1時間後の便に乗るんやろ。それにしても、こんな何もないところで、ようそんなに長時間すごせるなぁ。感心する私らを乗せてバスは出発。
翌朝、そんな物好きなガイジンの一人に出くわした。
「昨日は遅いほうのバスで帰ったの? そんなに見るものあったっけ?」と聞けば、すごい剣幕で、
「あんな何もないところで誰が! バスの時間に合わせて戻ってみたら、出口でムタワに捕まって、お祈りの時間になったから終わるまでここを出てはいけないって言われたのよ! ようやくお祈りが終わって外に出たら、バスが5分早く出て行くところだった。あんな所に誰も長時間いるはずがないと想像して、皆が戻るまで待つべきだったのよ!」と、逆に私が責められてしまった。
そんなん知らんやんね。
ジャナドリア・フェスティバルの話はこれでおしまい。
壁の中で暮らす普段の私たちの生活からは推し量れないこの国の素顔に振れ、「極楽」とばかり笑ってられへんことを実感。しかもちょうどこの時、この国に関するある本を読んでいて、そこに書かれたことからの恐怖心も重なって、自分の考えを少し改めた。知りたいはずのヴェールの向こうも、知らずに帰るほうが幸せなのかも知れん。でも、私の好奇心はそれを許しそうにもない。
ここへ来て9ヶ月。いまだにまともにサウジの人と出会ったことがない。外国に住んで、その地の人と直接接することがない国も珍しい。彼らを良く知っているある人は、「知り合わんでえぇ」なんて言うけれど。
周りで話されていることが分からへんのもじれったい。そこで3ヶ月前からアラビア語を習い始めた。最初の授業で、今まで一体どこで切れているんかさえ分らなかったあの文字が、あれでも1文字と分って、目の前が明るくなった。でも、それも一瞬。後が続きまへん。
まず、使う機会がない。カタカナでもアルファベットでも表すことのできないあの発音も問題。30を越えると覚えも悪い。
私がアラビア語を習っているのを面白がっている運転手のマヒューブが、車に乗るたびに熱心に指導してくれる。この時は心行くまでリピートしても、車を降りてものの2,3分ですっかり忘れてしまう。このごろは彼の方から、「ほれ、書け」とばかりに、紙と鉛筆を差し出して来る。
あと言い訳にならへんけど、忙しすぎる。もっとちゃんと復習せなあかんのに、それを阻む、お茶、子供、買い物ツアー、刺繍。そしてこのライフスタイル(刊行誌)・・・。
それでもスークで覚えたての言葉を繰り返すだけで、相手は態度を軟化させる。2つで10リヤルのスイカが、3つで10リヤルになる。絶対負けへんと頑張っていたゴールドスークのおっちゃんが、私の差し出す額で折れてくれたりする。
投資の授業料の元が取れるまでは、まだまだ時間はかかりそうやけど、何とか帰るまでに片言で会話ができるようにならへんかなぁ。
+++++
と言うことで、ひとまずサウジ徒然記は終わります。実際にこれはVol.17まで、サウジアラビアやイスラムの起源について書いたり、休暇の出来事を書いたりして続きました。途中の6回は飛び入りでコイオの会社の所長さんが書いたものを挟んだから(執筆料はあげるから、代わりに編集してと言われた)正味私が書いたのは11回でしたが。
上記で触れた「この国について書かれていたある本」とは、Princess: A True Story of Life Behind the Veil in Saudi Arabia (邦題:プリンセス・スータナ)でした。サウジアラビアでは発禁だったため、私たちはそのコピーを回し読みしていました。当時はまだ翻訳本も出ていない、出版されて間もないころでした。
その内容や、本当に恐ろしかったです。例えば(記憶が正しければ)スータナと友人2人は、若いころ好奇心から内緒で男性と会い、それが家族にばれ、一人の友人は自宅牢に閉じ込められて発狂、もう一人は父親の手で家のプールに沈められて殺されました。こうした父親は正しいことをしたと褒め称えられるのだそうです。
華やかなロイヤルファミリーの暮らしと同時に、厳しい戒律と私たちの目には不公平、時には非道とも映る女性たちの暮らしが浮き彫りにされていました。
スータナはこの後2冊の本を出版しますが、3冊目は既に母親になった彼女が描くサウジのロイヤルファミリーの生活で、彼女自身がだんだん保守的になっていることがわかります。
既に発行されて20年近くの月日が経っていますので、現在のサウジアラビアや中東諸国の実情とはマッチしない部分も出て来てはいると思うのですが、まだまだここに描かれた儀式や伝統・しきたりが今も息づいている地域や家庭がたくさんあると確信しています。
さて、私が多くのお金を投資したアラビア語は、結局モノにはならず、今や1から10までの数と、「こんにちは、こんばんは、ありがとう、Let's go、ゆっくり(少し)、No problem、神のご意思があれば」これくらいしか覚えてません。
この最後の「神のご意思があれば」ですが、アラビア語で「インシャアッラー」と言います。
ムスリムは決して約束事をしません。
例えば、クリーニング屋さんに洋服を持って行って、「これは火曜日までに要るんですけど、大丈夫?」とお願いすると(サウジーはクリーニング屋さんで働いてませんが、働いているパキスタンの人はムスリムですから)
「火曜日ですね、インシャアッラー」
「つまり、火曜日は大丈夫なの?」
「だから、インシャアッラー」
てな具合。
何事も自分が決めるのじゃなくて、神様のご意思によってそうなるってことだから、勝手に決められないって言うんでしょうか・・・。私たちに取っては、とっても都合のいい方便に聞こえるのですよねぇ。
さてサウジネタも、面白いことを思い出すまでは、ひとまずおしまい。
さ、今日と明日で、家を整理するぞ!
インシャアッラー!
2010年6月19日土曜日
2010年6月18日金曜日
サウジ徒然記 Vol.4
今度は顔までスカーフでぐるぐる覆って、アバヤの下に鞄を隠し持ち、アバヤの前の結び目を解いて重ね合わせ足元まで隠した(結んでいると足が少し見える)。スカーフの正しい巻き方を習っといたら良かった。どう見てもネイティブには見えない。
丁度、サウジ女性の団体が前を通りかかったのを見て、咄嗟にメイドを装うことを思いつき、彼女たちの後におずおずとピッタリ付いて従った。
大勢のムタワ(宗教警察)がいる入り口までやって来た。思わずメイドを装っている自分たちに笑いがこみ上げてきたが、笑っている場合ではない。万一見つかったらどうなるのかと不安になる。
でも何のお咎めもなく、すんなりと難関突破。やっぱり顔まで覆っている敬虔な者に特別な注意を払ったりはしないらしい。
ほっとしたのも束の間。会場の中にも大勢ムタワがいて、臆病な私らは、なかなか顔のスカーフが取れない。
前日のメンズデーに野球帽とジーパンをはいて、旦那と息子に紛れて行ったわよというフランス人の女性が、「ムタワはいないし、写真も取り放題」と言うてたのに。その言葉をまに受けて、私らは捕まったんやと、彼女を恨んでみる。
ライフスタイル(コンパウンドの刊行誌)に「サウジの伝統、文化を知る良い機会」とあったので張り切ってきたのに、中は人でごった返し、砂埃がもうもうとたちこめるばかり。大して見るものもない。確かに工芸品のデモ販売みたいなのはあるが、スークにでもある代物。値段も安くはない。お客もガイジンは少なく、ほとんどはサウジー。
30分ほどで見尽くし、路肩に腰を下ろした。迎えのバスまでには、まだ1時間はある。
「一体、これ何やのん?」
「なんで、こんなに人が集まるん?」
「サウジーが見ても面白いんやろか?」
「それにしても、何であの一家にだけハエがたかってたんやろ?」
私は広場で何を売るでもなく、固まって座っていたベドウィンの家族を思い出していた。その人たちにはハエがたくさん止まっていた。特に目の周りは、まるでオアシスに集まる動物がごとく。しかも驚いたのは、その誰一人もが、追い払おうとしないこと。
だいたい皆の周りに同じだけハエが飛んでいるならともかく、その一家だけと言うのも妙な話。
「砂漠にはお風呂ないもんねー」
「自分の匂いを大切にするから敢えて入らへんって聞いたよ」
「ほんまー??」
真偽のほどは不明。
丁度、サウジ女性の団体が前を通りかかったのを見て、咄嗟にメイドを装うことを思いつき、彼女たちの後におずおずとピッタリ付いて従った。
大勢のムタワ(宗教警察)がいる入り口までやって来た。思わずメイドを装っている自分たちに笑いがこみ上げてきたが、笑っている場合ではない。万一見つかったらどうなるのかと不安になる。
でも何のお咎めもなく、すんなりと難関突破。やっぱり顔まで覆っている敬虔な者に特別な注意を払ったりはしないらしい。
ほっとしたのも束の間。会場の中にも大勢ムタワがいて、臆病な私らは、なかなか顔のスカーフが取れない。
前日のメンズデーに野球帽とジーパンをはいて、旦那と息子に紛れて行ったわよというフランス人の女性が、「ムタワはいないし、写真も取り放題」と言うてたのに。その言葉をまに受けて、私らは捕まったんやと、彼女を恨んでみる。
ライフスタイル(コンパウンドの刊行誌)に「サウジの伝統、文化を知る良い機会」とあったので張り切ってきたのに、中は人でごった返し、砂埃がもうもうとたちこめるばかり。大して見るものもない。確かに工芸品のデモ販売みたいなのはあるが、スークにでもある代物。値段も安くはない。お客もガイジンは少なく、ほとんどはサウジー。
30分ほどで見尽くし、路肩に腰を下ろした。迎えのバスまでには、まだ1時間はある。
「一体、これ何やのん?」
「なんで、こんなに人が集まるん?」
「サウジーが見ても面白いんやろか?」
「それにしても、何であの一家にだけハエがたかってたんやろ?」
私は広場で何を売るでもなく、固まって座っていたベドウィンの家族を思い出していた。その人たちにはハエがたくさん止まっていた。特に目の周りは、まるでオアシスに集まる動物がごとく。しかも驚いたのは、その誰一人もが、追い払おうとしないこと。
だいたい皆の周りに同じだけハエが飛んでいるならともかく、その一家だけと言うのも妙な話。
「砂漠にはお風呂ないもんねー」
「自分の匂いを大切にするから敢えて入らへんって聞いたよ」
「ほんまー??」
真偽のほどは不明。
2010年6月13日日曜日
サウジ徒然記 Vol.3
大方の皆様はここへ来る前にこの国のことについていろいろと本を読んだり、勉強して来はるのに、私は「外国に行ける」と喜ぶ以外何もしなかった。アバヤは知っていたけど、リヤドの空港で初めて頭の先から足の先まで黒づくめの装束をみて驚いた。顔までとは知らんかった。
そのせいで、余計にここに来てからのすべてが、見るもん、聞くもんおもしろかった。
嫌なはずのムタワ(宗教警察)さえ、会うのを楽しみにしていた。でもその機会はなかなか訪れなかった。
4月も半ば、ジャナドリアフェスティバルと言うのがあった。ライフスタイル(コンパウンドの刊行誌)で知って、レディースデーに皆でバスで行った。
バスが着くなり、運転手が慌てて「頭を覆え」と言うから、なんやと思って外を見たらムタワがいる。しかもリヤド中のムタワを集めて来たんちゃうかと思うほどウヨウヨ。
バスを降り、何も悪いことをしてへんのにドキドキしながら彼らの前をすり抜けようとした時、むんずと鞄をつかまれた。スカーフをしていたつもりが、ずり落ちて前髪があらわになっていたのだ。それを正しても、私の大きな鞄を見て「カメラ?」と聞く。カメラも大丈夫と聞いてたから、カメラどころかビデオまで持ってきていた。親切な私は、ご丁寧にかばんが小さくて自分のカメラが入らない友人のカメラまで預かっていた。
嘘ついて捕まるんも怖いし、とりあえず私のカメラだけ差し出したら(自分のを出すところが偉い)お預かりとなってしまった。
気がつくと友人二人も、カメラ所持とストレッチのスパッツ着用のかどで、お咎めを食らっていた。スパッツでは中に入れない、車へ戻れと言われている。(アバヤの丈が少し短く、スパッツに覆われた足首の線が見えていた。)
後からカメラが無事に戻ってくるか心配やったし、何と言ってもスパッツ一人を残されへん。ここは中に入らないでバスに戻る事にした。イカマ(サウジ政府発行の身分証明書)を見てフィリピーノやないとわかってから幾分優しくなった気がするムタワは、すんなりとカメラを返して、私たち3人を解放してくれた。
バスの所にまで戻ったけれど、そこにはバスはいなかった。ピックアップの時間までどこかに行ってしまったらしい。駐車場には女性を待つトーブ姿の男性たちがヤンキー座りをしてたむろしている。
彼らの容赦ない視線に戸惑った私らは再度中に入ることを試みた。
(次号へ続く)
+++++
<補足>
サウジで暮らしたのは今から15年ほど前のこと。
アメリカのアフガニスタン攻撃やイラク戦争で、中東やムスリムの生活がメディアを通して報道されるようになり、今や誰だってムスリムの服装や習慣、伝統についてはある程度の知識を持つようになったと思うのですが、当時はまだまだ知られていなかったと思うのですよね。私の無知もかなりのものでしたが。
今のサウジアラビアがどのくらい変わったのか良くわかりませんが、当時は建設ラッシュだったので、恐らく外観は大きく変化していると思います。でも人々の生活はどうなんでしょう。
再びあの地を訪れてみたいと思っても、観光ビザが発行されない国なので遊びに行くことはできません。特に女性にはその機会はほぼないでしょう。(時折ビジネスにかこつけた観光ツアーがあって女性も行けたりするのですけれどね。)
サウジには出稼ぎ者が多く、単身でパキスタン、フィリピン、インド、スーダン、イエメンなどからの大勢の男性が働きに来ていました。メイドや看護婦として働く単身の女性たちはフィリピン、マレーシア、エリトリア人が多かったように思います。空港では出稼ぎの人たち用の特別の入国の列があり、彼らは階層的にも下に見られ、そのような扱いを受けていました。多分今でもそれは変わらないのじゃないでしょうか。ムタワ(宗教警察)に嫌がらせを受けるのも、圧倒的にこうした国から来ていた人々でした。
サウジアラビアでは基本的に外での写真撮影、ビデオ撮影は禁止でした。
サウジ全土で最も締め付けが厳しいのがリヤドでした。紅海沿いのジェッダや湾岸のアルコバールあたりもっと開放的でムタワも少なく、スカーフなしで出歩けたのですけれどね。
そのせいで、余計にここに来てからのすべてが、見るもん、聞くもんおもしろかった。
嫌なはずのムタワ(宗教警察)さえ、会うのを楽しみにしていた。でもその機会はなかなか訪れなかった。
4月も半ば、ジャナドリアフェスティバルと言うのがあった。ライフスタイル(コンパウンドの刊行誌)で知って、レディースデーに皆でバスで行った。
バスが着くなり、運転手が慌てて「頭を覆え」と言うから、なんやと思って外を見たらムタワがいる。しかもリヤド中のムタワを集めて来たんちゃうかと思うほどウヨウヨ。
バスを降り、何も悪いことをしてへんのにドキドキしながら彼らの前をすり抜けようとした時、むんずと鞄をつかまれた。スカーフをしていたつもりが、ずり落ちて前髪があらわになっていたのだ。それを正しても、私の大きな鞄を見て「カメラ?」と聞く。カメラも大丈夫と聞いてたから、カメラどころかビデオまで持ってきていた。親切な私は、ご丁寧にかばんが小さくて自分のカメラが入らない友人のカメラまで預かっていた。
嘘ついて捕まるんも怖いし、とりあえず私のカメラだけ差し出したら(自分のを出すところが偉い)お預かりとなってしまった。
気がつくと友人二人も、カメラ所持とストレッチのスパッツ着用のかどで、お咎めを食らっていた。スパッツでは中に入れない、車へ戻れと言われている。(アバヤの丈が少し短く、スパッツに覆われた足首の線が見えていた。)
後からカメラが無事に戻ってくるか心配やったし、何と言ってもスパッツ一人を残されへん。ここは中に入らないでバスに戻る事にした。イカマ(サウジ政府発行の身分証明書)を見てフィリピーノやないとわかってから幾分優しくなった気がするムタワは、すんなりとカメラを返して、私たち3人を解放してくれた。
バスの所にまで戻ったけれど、そこにはバスはいなかった。ピックアップの時間までどこかに行ってしまったらしい。駐車場には女性を待つトーブ姿の男性たちがヤンキー座りをしてたむろしている。
彼らの容赦ない視線に戸惑った私らは再度中に入ることを試みた。
(次号へ続く)
+++++
<補足>
サウジで暮らしたのは今から15年ほど前のこと。
アメリカのアフガニスタン攻撃やイラク戦争で、中東やムスリムの生活がメディアを通して報道されるようになり、今や誰だってムスリムの服装や習慣、伝統についてはある程度の知識を持つようになったと思うのですが、当時はまだまだ知られていなかったと思うのですよね。私の無知もかなりのものでしたが。
今のサウジアラビアがどのくらい変わったのか良くわかりませんが、当時は建設ラッシュだったので、恐らく外観は大きく変化していると思います。でも人々の生活はどうなんでしょう。
再びあの地を訪れてみたいと思っても、観光ビザが発行されない国なので遊びに行くことはできません。特に女性にはその機会はほぼないでしょう。(時折ビジネスにかこつけた観光ツアーがあって女性も行けたりするのですけれどね。)
サウジには出稼ぎ者が多く、単身でパキスタン、フィリピン、インド、スーダン、イエメンなどからの大勢の男性が働きに来ていました。メイドや看護婦として働く単身の女性たちはフィリピン、マレーシア、エリトリア人が多かったように思います。空港では出稼ぎの人たち用の特別の入国の列があり、彼らは階層的にも下に見られ、そのような扱いを受けていました。多分今でもそれは変わらないのじゃないでしょうか。ムタワ(宗教警察)に嫌がらせを受けるのも、圧倒的にこうした国から来ていた人々でした。
サウジアラビアでは基本的に外での写真撮影、ビデオ撮影は禁止でした。
サウジ全土で最も締め付けが厳しいのがリヤドでした。紅海沿いのジェッダや湾岸のアルコバールあたりもっと開放的でムタワも少なく、スカーフなしで出歩けたのですけれどね。
2010年6月12日土曜日
サウジ徒然記 Vol.2
前任者と比べて文章に知性が光らへんとの噂もありますが…。
それはさて置き、びっくりと言えば、先日の我が家のハッジ旅行。<ハッジとはメッカ巡礼のこと。この時期、サウジは祝日でお休みとなる。> 大方の日本人の皆さんが、豪勢に海外へお出かけになった中、私たちは寂しくアル・ジュベイルへ。<アル・ジュベイルは、アラビア湾沿いのローカルなリゾート地。>
それでもプライベートビーチで家族で泳げると聞いてたんで、勝手にサウジとちゃうところをイメージしてたんやけど、大きな勘違い。
夫は私の旅行鞄の中から、ショートパンツやノースリーブが出てきたのを見て「あほか」の一言。実際、ホテルのロビーでショートパンツでいたら。「マダム、ベリーショート」と注意を受けた。(ほんまは、背ぇ低いって言われんたんかな(笑))
いつもは欧米人でにぎわっているはずのこのホテルも、ハッジのこの時期はサウジーで一杯。(それもここだけの話、あんましリッチそうでないところの。やっぱしお金があったら、海外行くわ)。
ところがこれが意外に楽しかった。普段身近に接することのない彼らを目の前で観察できて、私は大満足。
特にビーチでの彼らの様子は特筆に価する。私は彼らを5つのカテゴリーに分けた。
第1のカテゴリーは純正統派。トーブ<男性が着る足元まである白い装束>とアバヤ<女性を服の上からすっぽり覆う黒い装束>姿でビーチから泳いでいる人を眺めるだけ。(そんなんやったら来ーへんかったらええのに。)
第2は、男と子供は泳ぐけれど、女性はアバヤ姿で眺めている。このタイプが最も主流。
第3は、女性も泳ぐけれどアバヤは脱がず。子供も水着を着ないで洋服のまま泳ぐ。伊達に浮輪なんか持ってきているところを見ると、満更泳ぎに行かないわけでもなく、しばしばこの姿でやっている模様。
第4は、アバヤは取れど、服のまんま。裾をまくるでもなく(まくったらあかんのやろうけど)躊躇もせず、きれいな洋服のままズブズブ入って行くところは、ほんま見上げた心意気。
最後はぐっと進んで水着姿。でも下にスパッツはくのは忘れたらあかん。
唯一水着姿だった私は、なんか気恥ずかしくて、常時タオルを巻いていた。フランスのトップレスビーチで一人胸を隠しているときにも感じた、妙な気分。どっちがほんまなのか、わからなくなる。
+++++
<補足>
ハッジホリデーのこの期間、このホテルでは子供たちのための特別なイベントを用意しており、中庭には「ディズニーキャラクター」もどきがおり、子供のための音楽が流れていました。
しかしこのディズニーキャラクター…恐らく中国政府も顔負けのコピー…いえ、コピーと呼ぶには余りにもかけ離れすぎ。ミッキーマウスもどきには眉毛があって、背中が寒くなる。極めつけは、どう頑張ってもエレファントマン(古いですが怖い映画でした)にしか見えないダンボ。
泣く子も黙るを通り越して、わが子達は姿を見ただけで火がついたように泣き叫ぶ始末。それでもサウジの子供たちはキャラクターが珍しいと見え、喜んでいました…。
耳を澄ませば、流れている子供向けの歌は、"Jesus loves me, yes I know. Holy bible tells me so…" (イエス様は私を愛しています。聖書にそう書いてあります)じゃないですか! クリスマスを祝うことさえ禁じられているこの国で何ゆえ…。恐らくこの曲をかけているホテルの従業員は歌詞の意味も知らずにいるのだと思いますけれど、聞いている私の方が心配になっておりました。
それはさて置き、びっくりと言えば、先日の我が家のハッジ旅行。<ハッジとはメッカ巡礼のこと。この時期、サウジは祝日でお休みとなる。> 大方の日本人の皆さんが、豪勢に海外へお出かけになった中、私たちは寂しくアル・ジュベイルへ。<アル・ジュベイルは、アラビア湾沿いのローカルなリゾート地。>
それでもプライベートビーチで家族で泳げると聞いてたんで、勝手にサウジとちゃうところをイメージしてたんやけど、大きな勘違い。
夫は私の旅行鞄の中から、ショートパンツやノースリーブが出てきたのを見て「あほか」の一言。実際、ホテルのロビーでショートパンツでいたら。「マダム、ベリーショート」と注意を受けた。(ほんまは、背ぇ低いって言われんたんかな(笑))
いつもは欧米人でにぎわっているはずのこのホテルも、ハッジのこの時期はサウジーで一杯。(それもここだけの話、あんましリッチそうでないところの。やっぱしお金があったら、海外行くわ)。
ところがこれが意外に楽しかった。普段身近に接することのない彼らを目の前で観察できて、私は大満足。
特にビーチでの彼らの様子は特筆に価する。私は彼らを5つのカテゴリーに分けた。
第1のカテゴリーは純正統派。トーブ<男性が着る足元まである白い装束>とアバヤ<女性を服の上からすっぽり覆う黒い装束>姿でビーチから泳いでいる人を眺めるだけ。(そんなんやったら来ーへんかったらええのに。)
第2は、男と子供は泳ぐけれど、女性はアバヤ姿で眺めている。このタイプが最も主流。
第3は、女性も泳ぐけれどアバヤは脱がず。子供も水着を着ないで洋服のまま泳ぐ。伊達に浮輪なんか持ってきているところを見ると、満更泳ぎに行かないわけでもなく、しばしばこの姿でやっている模様。
第4は、アバヤは取れど、服のまんま。裾をまくるでもなく(まくったらあかんのやろうけど)躊躇もせず、きれいな洋服のままズブズブ入って行くところは、ほんま見上げた心意気。
最後はぐっと進んで水着姿。でも下にスパッツはくのは忘れたらあかん。
唯一水着姿だった私は、なんか気恥ずかしくて、常時タオルを巻いていた。フランスのトップレスビーチで一人胸を隠しているときにも感じた、妙な気分。どっちがほんまなのか、わからなくなる。
+++++
<補足>
ハッジホリデーのこの期間、このホテルでは子供たちのための特別なイベントを用意しており、中庭には「ディズニーキャラクター」もどきがおり、子供のための音楽が流れていました。
しかしこのディズニーキャラクター…恐らく中国政府も顔負けのコピー…いえ、コピーと呼ぶには余りにもかけ離れすぎ。ミッキーマウスもどきには眉毛があって、背中が寒くなる。極めつけは、どう頑張ってもエレファントマン(古いですが怖い映画でした)にしか見えないダンボ。
泣く子も黙るを通り越して、わが子達は姿を見ただけで火がついたように泣き叫ぶ始末。それでもサウジの子供たちはキャラクターが珍しいと見え、喜んでいました…。
耳を澄ませば、流れている子供向けの歌は、"Jesus loves me, yes I know. Holy bible tells me so…" (イエス様は私を愛しています。聖書にそう書いてあります)じゃないですか! クリスマスを祝うことさえ禁じられているこの国で何ゆえ…。恐らくこの曲をかけているホテルの従業員は歌詞の意味も知らずにいるのだと思いますけれど、聞いている私の方が心配になっておりました。
サウジ徒然記 Vol.1
引っ越しモードで荷物の整理をしていたら、出てきたのがこれ。
サウジアラビアに住んでいた時、最初の2年間に住んだ「アラビアンホームズ」と言う名のコンパウンド。コンパウンドとは壁に囲まれた居住区のこと。ゲートがあって、アメリカでもGated communityなんていうのがあるけれど、あれに似ている。違いは、サウジの場合コンパウンドの中と外では天と地ほどの差がある。コンパウンドの中は西洋、まさに別世界。短パン・タンクトップで闊歩できるし、よそのご主人や息子さんなんかと言葉を交わしても咎められない。でも一歩外に出ると、厳しい戒律が待っている。
そのアラビアンホームズでは、週に1度の割合でコンパウンド内の広報誌が刊行されていた。A3の紙を2つ折りにした4面しかない刊行誌。その週のイベントやお買い物バスのスケジュール、コンパウンド内のレストランのメニュー、メンテナンスからのお知らせなど。その中の3分の1ページが日本語コーナーに割り当てられていた。このコンパウンドには日本人が大勢住んでいたから。
で、ある日、このコーナーを以前に担当していた人から「是非引き継いで」と言われ、しばらく書いたことがあった。今回読んでみたら、昔の話だけれど、なかなか面白い(自画自賛)。
と言うことでその一部をご披露します。
+++++
某氏に泣きつかれ、原稿料の百リアルに目が眩み、OKしたものの、締め切り2日前だったという現実。いったい何を書いたらええもんやら。帰国までに一度は書きたいと思ってはいたけれど、こんなに早う回って来るとは思わなんだ。とにかくゴールドスークで、太っと~いネックレスとブレスレットのセットが買えるくらいお小遣いを稼ぎたいと思ってますんで、しつこく続くかも知れませんが、よろしゅう。
リヤドに来て早8ヶ月。極楽、極楽言うてるうちに飛ぶように過ぎた。あんまり極楽言うたら僻地手当てが減らされるからアカン、と諸先輩方から注意を受けたけど、こんな楽しい生活、言わいでおれますか。
なんたって、午前中、子供から解放された。日本じゃ幼稚園前の子を連れて、公園めぐりに明け暮れているはずの主婦が、やれブリッジや、テニスや、お茶にヨガ、エアロビのスケジュールを苦心して調整する。晴れた朝には、早から起きて布団を干し、洗濯を干してたのが、ベッドやから当然万年床。乾燥機があるから、別に朝やなくても、24時間、時間を気にせず洗濯できる。お宅によってはメイドさんが洗濯して、挙句の果てには引き出しにまでしまってくれる。これを極楽と呼ばずになんと呼びましょう。
それはさて置き、リヤドに来てびっくりしたことが数々あります。まず関西人が多い。東京に住んでいた頃は、家の中と外で、自由に関西弁と標準語を使い分け、バイリンギャルの異名をとっていたこの私。今じゃ誰かれかまわず「あんた、なにゆうてんのん」と語りかける始末。
あと世の中狭いということを実感。叔母の家の隣に住んでいたというT夫妻。同じ小学校だったと言うK夫人。偶然大学の同級生だったY夫妻。みーんな日本じゃ目と鼻の先にいながらすれ違っていたのが、こんな砂漠の真ん中で出会うなんて。
笑っても3年。泣いても3年。仲良く楽しく過ごさなソンソン。
サウジアラビアに住んでいた時、最初の2年間に住んだ「アラビアンホームズ」と言う名のコンパウンド。コンパウンドとは壁に囲まれた居住区のこと。ゲートがあって、アメリカでもGated communityなんていうのがあるけれど、あれに似ている。違いは、サウジの場合コンパウンドの中と外では天と地ほどの差がある。コンパウンドの中は西洋、まさに別世界。短パン・タンクトップで闊歩できるし、よそのご主人や息子さんなんかと言葉を交わしても咎められない。でも一歩外に出ると、厳しい戒律が待っている。
そのアラビアンホームズでは、週に1度の割合でコンパウンド内の広報誌が刊行されていた。A3の紙を2つ折りにした4面しかない刊行誌。その週のイベントやお買い物バスのスケジュール、コンパウンド内のレストランのメニュー、メンテナンスからのお知らせなど。その中の3分の1ページが日本語コーナーに割り当てられていた。このコンパウンドには日本人が大勢住んでいたから。
で、ある日、このコーナーを以前に担当していた人から「是非引き継いで」と言われ、しばらく書いたことがあった。今回読んでみたら、昔の話だけれど、なかなか面白い(自画自賛)。
と言うことでその一部をご披露します。
+++++
某氏に泣きつかれ、原稿料の百リアルに目が眩み、OKしたものの、締め切り2日前だったという現実。いったい何を書いたらええもんやら。帰国までに一度は書きたいと思ってはいたけれど、こんなに早う回って来るとは思わなんだ。とにかくゴールドスークで、太っと~いネックレスとブレスレットのセットが買えるくらいお小遣いを稼ぎたいと思ってますんで、しつこく続くかも知れませんが、よろしゅう。
リヤドに来て早8ヶ月。極楽、極楽言うてるうちに飛ぶように過ぎた。あんまり極楽言うたら僻地手当てが減らされるからアカン、と諸先輩方から注意を受けたけど、こんな楽しい生活、言わいでおれますか。
なんたって、午前中、子供から解放された。日本じゃ幼稚園前の子を連れて、公園めぐりに明け暮れているはずの主婦が、やれブリッジや、テニスや、お茶にヨガ、エアロビのスケジュールを苦心して調整する。晴れた朝には、早から起きて布団を干し、洗濯を干してたのが、ベッドやから当然万年床。乾燥機があるから、別に朝やなくても、24時間、時間を気にせず洗濯できる。お宅によってはメイドさんが洗濯して、挙句の果てには引き出しにまでしまってくれる。これを極楽と呼ばずになんと呼びましょう。
それはさて置き、リヤドに来てびっくりしたことが数々あります。まず関西人が多い。東京に住んでいた頃は、家の中と外で、自由に関西弁と標準語を使い分け、バイリンギャルの異名をとっていたこの私。今じゃ誰かれかまわず「あんた、なにゆうてんのん」と語りかける始末。
あと世の中狭いということを実感。叔母の家の隣に住んでいたというT夫妻。同じ小学校だったと言うK夫人。偶然大学の同級生だったY夫妻。みーんな日本じゃ目と鼻の先にいながらすれ違っていたのが、こんな砂漠の真ん中で出会うなんて。
笑っても3年。泣いても3年。仲良く楽しく過ごさなソンソン。
2009年10月8日木曜日
陳先生と新聞配達
シナコのことを書いてきたけど、私があの子の歳のこの時期に何をしていたのかなぁと思いを馳せて、ふと思い出した。既にどこかで書いたかもしれないが、高校3年生の秋、私は朝刊を配達していた。
1年間の交換留学プログラムを終えて帰った夏、元の公立高校の2年生に復学した。私学から留学した人たちの中にはそのまま3年生に進級させてもらった人や、すごく頭の良い人はアメリカの卒業証書を使って翌春には大学(しかも東大)に進学した人もいたけど、たいていの公立高校からの留学生は留学期間は休学の扱いとなり留年する。
3年生に進級する前に受けた模擬試験。何故か英語と国語を合わせた成績がすごく良かった。生まれて初めてレベルに良かった。これまで英語の成績だけはずっと良かったけれど、元々頭のいいほうではなく、全般には中から中の上と言うところだった。だがその模擬試験の結果は学年で2番。
そこでちょっと欲が出た。
中学時代から憧れ続けた帰国子女のM子ちゃん。私が留年したので、1級上になった彼女は、その春ガイガイへ進学が決まった。
ガイダイ。それは何と魅力的な響きだったろう。そうだ、私もガイダイに行きたいと思った。でもガイダイはコッコーリツだった。共通一次試験を受けなくちゃいけない。但し配点の比率が、1次と2次で、1対5。つまり2次の英語(150点)と小論文(50点)に対して、共通一時の配点は5分の1になる。
それでも当時の私の成績と言えば、2年生だったか1年生だったか忘れたが、数学、化学、生物が5段階評価の2だった。なんせ理数系はさっぱりなのである。国語だって古文や漢文は超苦手。
自力では共通一時は太刀打ちできないと思い、親に頼みこんで家庭教師を雇ってもらう事になった。中学時代の塾の先生にお願いして、紹介されたのが陳先生だった。
陳先生は私の憧れのガイダイの、しかも「輝く」英語科の卒業生で、当時は神戸大学の大学院で中国関連の何かを勉強していた。苗字からわかる通り彼女は華僑。高校までは神戸にある中華同文と言う中国系の人だけの学校に行っていた。
陳先生は、こんなに賢い人知らないと言うくらい賢かった。家庭教師の科目は、共通一時の全科目に渡った。それら全てについて、相応しい問題集を知っていて、宿題を出し、進捗を確認しながら、わからないことは解説してくれた。英語と数学くらいなら誰しも家庭教師は出来そう。でも陳先生は、化学も古文も漢文もよーくわかっていて教えてくれた。数学も得意。英語も「発音だけはいいわねぇ」とほめてくれたけど、私の文法や語彙はお粗末なものだった。
陳先生と一緒に初めてまともに数学を勉強した気がする。化学もちょっとだけわかった。世界史は範囲を決めて覚えるように言われ、毎回テストされた。古文や漢文はちっともわからなかったけど、それでも問題集はこなした。英語も関西で当時「シケタン」「シケジュク」と呼ばれた暗記本で語彙を増やした。(関東では「デルタン」と言うのか?)これは後々結構役に立ったと思う。
そうして夏休みも終わりに近づいたある日。
父と私は大喧嘩をした。原因はもう覚えていないから、取るに足らぬ事に違いない。
怒り心頭した父は、「もうえー! お前のことは知らん! 家庭教師の金も出さん!」
売り言葉に買い言葉。
「結構です。家庭教師は自分で雇いますっ!」
興奮するその足で、私は駅前の朝日新聞へ向かった。我が家は朝日を取っていた。
「おじさん、新聞配達に雇ってください!」
そして翌朝から新聞配達を始めた。
黒縁眼鏡をかけた30歳くらいの雇われ配達員のおじさん(お兄さん?)が、それから2日間、私と一緒にルートを回って教えてくれた。自転車にどうやって新聞をくくりつけるか、どうすれば効率よく回れるか。
彼が言った。「どうせ、お嬢さんの気まぐれやろ」
それほど部数は担当していなかったので、毎朝5時に起きて7時前まで、家の近所を配った。
誤配があっても足りるように、新聞は必ず3部余計に持って回るのだが、最後に3部以上残ると困った。配って回ったルートを再び回り、記憶をたどる。ひょっとして、ここに入れ忘れたかなぁと、ポストを覗く。既に取り込んでいる可能性もあるけど、とりあえず新聞が入ってなければ入れておく。そして翌朝、おじさんにしかられる。「XXのあの家、忘れたやろ」
広告の裏紙を閉じたて作った配達先を書いたリストを持たされているのだが、慣れてくると、いちいちそんなものは見てられない。
長期で不在の場合には「止める」家とかあったり、朝日の他に日経も取ってたり、英字新聞を取ってたり、新聞配達も結構頭を使った。
毎朝お経をあげている家があって、暗がりにお経の声が聞こえてくると怖かった。
寝坊して、電話で起こされる日も一度や二度はあった。
11月に入って、だんだん寒くなってきた。おまけに配り終わっても真っ暗だ。
寒いのは苦手だ。怖いのも苦手だ。
とうとう父が言った。
「もうええ。家庭教師代だしたるから、やめてええ」
待ってましたとばかり、11末を最後にすっぱり止めた。
最後の日に、あの黒縁眼鏡の人が言った。彼は明日から私の担当していた所もカバーしなければならない。
「な、やっぱり、お嬢さんの気まぐれや言うたやろ」
苦労人のオーラをかもし出していた彼に返す言葉はなかったけど。
(お嬢さんやないけど、寒いのも怖いのも苦手やもん・・・)
陳先生は、私を教え始めた当初には彼氏がいた。ところが日本人との結婚を許さないご両親に反対された。
私を教えている最中に、どうやら同じ華僑の人とお見合いをしたようだった。ある日、「お見合いってバカにしてたけど、案外悪くないかもしれないわねー」と言っていたから。
しばらくすると、ほのかにタバコの臭いがするようになった。
共通一時の結果が出た。点数を見た陳先生は、「インドネシア語も面白いよ。『走る』っていうのは、『歩く』を2回言うと走るになるんだよ」
これが本当かどうか真偽の程はわからない。(多分、本当は『歩く』を2回言うと、『散歩』って意味になるんじゃないかと思う)
陳先生の勧めは無視して、私の共通一時の点数で入れそうなイタリア語を選んだ。別にイタリアに興味があったわけでも何でもない。ヨーロッパ系は、言語も文化も英語と変わりないだろうと思ったからだ。これは後になって大きな間違いだったと気付く。が、時既に遅し。
春が来て、私はめでたくガイダイに合格した。
父は狂喜乱舞した。我が家は後にも先にも「コッコーリツ」なんて人間は輩出していないのだから、父のこの喜びようもうなづける。
陳先生が私にお祝いを言いに来た日、父は先生に「お礼」と書いた封筒を押し付けていた。
「いや、もう、気持ちだけでっさかい」
中味は10万円だったと記憶している。
陳先生なしでは、ガイダイ入学は絶対に有り得なかったと私も確信しているし、姉も妹も四捨五入して授業料100万円ののM短大やK短大だったのだから、10万円は安いものだ、と私も思う。
陳先生はその後、例の華僑のお見合い相手であるお医者さんと結婚し、彼の研究のためにニューメキシコに渡った。その後、音信普通になってしまった。
陳先生、どうしておられるのかなぁ。すっごい才媛だったけど、今はどうしておられるのか。懐かしく、しばしば思い出すのである。
1年間の交換留学プログラムを終えて帰った夏、元の公立高校の2年生に復学した。私学から留学した人たちの中にはそのまま3年生に進級させてもらった人や、すごく頭の良い人はアメリカの卒業証書を使って翌春には大学(しかも東大)に進学した人もいたけど、たいていの公立高校からの留学生は留学期間は休学の扱いとなり留年する。
3年生に進級する前に受けた模擬試験。何故か英語と国語を合わせた成績がすごく良かった。生まれて初めてレベルに良かった。これまで英語の成績だけはずっと良かったけれど、元々頭のいいほうではなく、全般には中から中の上と言うところだった。だがその模擬試験の結果は学年で2番。
そこでちょっと欲が出た。
中学時代から憧れ続けた帰国子女のM子ちゃん。私が留年したので、1級上になった彼女は、その春ガイガイへ進学が決まった。
ガイダイ。それは何と魅力的な響きだったろう。そうだ、私もガイダイに行きたいと思った。でもガイダイはコッコーリツだった。共通一次試験を受けなくちゃいけない。但し配点の比率が、1次と2次で、1対5。つまり2次の英語(150点)と小論文(50点)に対して、共通一時の配点は5分の1になる。
それでも当時の私の成績と言えば、2年生だったか1年生だったか忘れたが、数学、化学、生物が5段階評価の2だった。なんせ理数系はさっぱりなのである。国語だって古文や漢文は超苦手。
自力では共通一時は太刀打ちできないと思い、親に頼みこんで家庭教師を雇ってもらう事になった。中学時代の塾の先生にお願いして、紹介されたのが陳先生だった。
陳先生は私の憧れのガイダイの、しかも「輝く」英語科の卒業生で、当時は神戸大学の大学院で中国関連の何かを勉強していた。苗字からわかる通り彼女は華僑。高校までは神戸にある中華同文と言う中国系の人だけの学校に行っていた。
陳先生は、こんなに賢い人知らないと言うくらい賢かった。家庭教師の科目は、共通一時の全科目に渡った。それら全てについて、相応しい問題集を知っていて、宿題を出し、進捗を確認しながら、わからないことは解説してくれた。英語と数学くらいなら誰しも家庭教師は出来そう。でも陳先生は、化学も古文も漢文もよーくわかっていて教えてくれた。数学も得意。英語も「発音だけはいいわねぇ」とほめてくれたけど、私の文法や語彙はお粗末なものだった。
陳先生と一緒に初めてまともに数学を勉強した気がする。化学もちょっとだけわかった。世界史は範囲を決めて覚えるように言われ、毎回テストされた。古文や漢文はちっともわからなかったけど、それでも問題集はこなした。英語も関西で当時「シケタン」「シケジュク」と呼ばれた暗記本で語彙を増やした。(関東では「デルタン」と言うのか?)これは後々結構役に立ったと思う。
そうして夏休みも終わりに近づいたある日。
父と私は大喧嘩をした。原因はもう覚えていないから、取るに足らぬ事に違いない。
怒り心頭した父は、「もうえー! お前のことは知らん! 家庭教師の金も出さん!」
売り言葉に買い言葉。
「結構です。家庭教師は自分で雇いますっ!」
興奮するその足で、私は駅前の朝日新聞へ向かった。我が家は朝日を取っていた。
「おじさん、新聞配達に雇ってください!」
そして翌朝から新聞配達を始めた。
黒縁眼鏡をかけた30歳くらいの雇われ配達員のおじさん(お兄さん?)が、それから2日間、私と一緒にルートを回って教えてくれた。自転車にどうやって新聞をくくりつけるか、どうすれば効率よく回れるか。
彼が言った。「どうせ、お嬢さんの気まぐれやろ」
それほど部数は担当していなかったので、毎朝5時に起きて7時前まで、家の近所を配った。
誤配があっても足りるように、新聞は必ず3部余計に持って回るのだが、最後に3部以上残ると困った。配って回ったルートを再び回り、記憶をたどる。ひょっとして、ここに入れ忘れたかなぁと、ポストを覗く。既に取り込んでいる可能性もあるけど、とりあえず新聞が入ってなければ入れておく。そして翌朝、おじさんにしかられる。「XXのあの家、忘れたやろ」
広告の裏紙を閉じたて作った配達先を書いたリストを持たされているのだが、慣れてくると、いちいちそんなものは見てられない。
長期で不在の場合には「止める」家とかあったり、朝日の他に日経も取ってたり、英字新聞を取ってたり、新聞配達も結構頭を使った。
毎朝お経をあげている家があって、暗がりにお経の声が聞こえてくると怖かった。
寝坊して、電話で起こされる日も一度や二度はあった。
11月に入って、だんだん寒くなってきた。おまけに配り終わっても真っ暗だ。
寒いのは苦手だ。怖いのも苦手だ。
とうとう父が言った。
「もうええ。家庭教師代だしたるから、やめてええ」
待ってましたとばかり、11末を最後にすっぱり止めた。
最後の日に、あの黒縁眼鏡の人が言った。彼は明日から私の担当していた所もカバーしなければならない。
「な、やっぱり、お嬢さんの気まぐれや言うたやろ」
苦労人のオーラをかもし出していた彼に返す言葉はなかったけど。
(お嬢さんやないけど、寒いのも怖いのも苦手やもん・・・)
陳先生は、私を教え始めた当初には彼氏がいた。ところが日本人との結婚を許さないご両親に反対された。
私を教えている最中に、どうやら同じ華僑の人とお見合いをしたようだった。ある日、「お見合いってバカにしてたけど、案外悪くないかもしれないわねー」と言っていたから。
しばらくすると、ほのかにタバコの臭いがするようになった。
共通一時の結果が出た。点数を見た陳先生は、「インドネシア語も面白いよ。『走る』っていうのは、『歩く』を2回言うと走るになるんだよ」
これが本当かどうか真偽の程はわからない。(多分、本当は『歩く』を2回言うと、『散歩』って意味になるんじゃないかと思う)
陳先生の勧めは無視して、私の共通一時の点数で入れそうなイタリア語を選んだ。別にイタリアに興味があったわけでも何でもない。ヨーロッパ系は、言語も文化も英語と変わりないだろうと思ったからだ。これは後になって大きな間違いだったと気付く。が、時既に遅し。
春が来て、私はめでたくガイダイに合格した。
父は狂喜乱舞した。我が家は後にも先にも「コッコーリツ」なんて人間は輩出していないのだから、父のこの喜びようもうなづける。
陳先生が私にお祝いを言いに来た日、父は先生に「お礼」と書いた封筒を押し付けていた。
「いや、もう、気持ちだけでっさかい」
中味は10万円だったと記憶している。
陳先生なしでは、ガイダイ入学は絶対に有り得なかったと私も確信しているし、姉も妹も四捨五入して授業料100万円ののM短大やK短大だったのだから、10万円は安いものだ、と私も思う。
陳先生はその後、例の華僑のお見合い相手であるお医者さんと結婚し、彼の研究のためにニューメキシコに渡った。その後、音信普通になってしまった。
陳先生、どうしておられるのかなぁ。すっごい才媛だったけど、今はどうしておられるのか。懐かしく、しばしば思い出すのである。
登録:
投稿 (Atom)