2009年10月8日木曜日

陳先生と新聞配達

シナコのことを書いてきたけど、私があの子の歳のこの時期に何をしていたのかなぁと思いを馳せて、ふと思い出した。既にどこかで書いたかもしれないが、高校3年生の秋、私は朝刊を配達していた。

1年間の交換留学プログラムを終えて帰った夏、元の公立高校の2年生に復学した。私学から留学した人たちの中にはそのまま3年生に進級させてもらった人や、すごく頭の良い人はアメリカの卒業証書を使って翌春には大学(しかも東大)に進学した人もいたけど、たいていの公立高校からの留学生は留学期間は休学の扱いとなり留年する。

3年生に進級する前に受けた模擬試験。何故か英語と国語を合わせた成績がすごく良かった。生まれて初めてレベルに良かった。これまで英語の成績だけはずっと良かったけれど、元々頭のいいほうではなく、全般には中から中の上と言うところだった。だがその模擬試験の結果は学年で2番。

そこでちょっと欲が出た。

中学時代から憧れ続けた帰国子女のM子ちゃん。私が留年したので、1級上になった彼女は、その春ガイガイへ進学が決まった。

ガイダイ。それは何と魅力的な響きだったろう。そうだ、私もガイダイに行きたいと思った。でもガイダイはコッコーリツだった。共通一次試験を受けなくちゃいけない。但し配点の比率が、1次と2次で、1対5。つまり2次の英語(150点)と小論文(50点)に対して、共通一時の配点は5分の1になる。

それでも当時の私の成績と言えば、2年生だったか1年生だったか忘れたが、数学、化学、生物が5段階評価の2だった。なんせ理数系はさっぱりなのである。国語だって古文や漢文は超苦手。

自力では共通一時は太刀打ちできないと思い、親に頼みこんで家庭教師を雇ってもらう事になった。中学時代の塾の先生にお願いして、紹介されたのが陳先生だった。

陳先生は私の憧れのガイダイの、しかも「輝く」英語科の卒業生で、当時は神戸大学の大学院で中国関連の何かを勉強していた。苗字からわかる通り彼女は華僑。高校までは神戸にある中華同文と言う中国系の人だけの学校に行っていた。

陳先生は、こんなに賢い人知らないと言うくらい賢かった。家庭教師の科目は、共通一時の全科目に渡った。それら全てについて、相応しい問題集を知っていて、宿題を出し、進捗を確認しながら、わからないことは解説してくれた。英語と数学くらいなら誰しも家庭教師は出来そう。でも陳先生は、化学も古文も漢文もよーくわかっていて教えてくれた。数学も得意。英語も「発音だけはいいわねぇ」とほめてくれたけど、私の文法や語彙はお粗末なものだった。

陳先生と一緒に初めてまともに数学を勉強した気がする。化学もちょっとだけわかった。世界史は範囲を決めて覚えるように言われ、毎回テストされた。古文や漢文はちっともわからなかったけど、それでも問題集はこなした。英語も関西で当時「シケタン」「シケジュク」と呼ばれた暗記本で語彙を増やした。(関東では「デルタン」と言うのか?)これは後々結構役に立ったと思う。

そうして夏休みも終わりに近づいたある日。
父と私は大喧嘩をした。原因はもう覚えていないから、取るに足らぬ事に違いない。
怒り心頭した父は、「もうえー! お前のことは知らん! 家庭教師の金も出さん!」
売り言葉に買い言葉。
「結構です。家庭教師は自分で雇いますっ!」

興奮するその足で、私は駅前の朝日新聞へ向かった。我が家は朝日を取っていた。
「おじさん、新聞配達に雇ってください!」

そして翌朝から新聞配達を始めた。
黒縁眼鏡をかけた30歳くらいの雇われ配達員のおじさん(お兄さん?)が、それから2日間、私と一緒にルートを回って教えてくれた。自転車にどうやって新聞をくくりつけるか、どうすれば効率よく回れるか。
彼が言った。「どうせ、お嬢さんの気まぐれやろ」

それほど部数は担当していなかったので、毎朝5時に起きて7時前まで、家の近所を配った。

誤配があっても足りるように、新聞は必ず3部余計に持って回るのだが、最後に3部以上残ると困った。配って回ったルートを再び回り、記憶をたどる。ひょっとして、ここに入れ忘れたかなぁと、ポストを覗く。既に取り込んでいる可能性もあるけど、とりあえず新聞が入ってなければ入れておく。そして翌朝、おじさんにしかられる。「XXのあの家、忘れたやろ」

広告の裏紙を閉じたて作った配達先を書いたリストを持たされているのだが、慣れてくると、いちいちそんなものは見てられない。
長期で不在の場合には「止める」家とかあったり、朝日の他に日経も取ってたり、英字新聞を取ってたり、新聞配達も結構頭を使った。

毎朝お経をあげている家があって、暗がりにお経の声が聞こえてくると怖かった。
寝坊して、電話で起こされる日も一度や二度はあった。

11月に入って、だんだん寒くなってきた。おまけに配り終わっても真っ暗だ。
寒いのは苦手だ。怖いのも苦手だ。

とうとう父が言った。
「もうええ。家庭教師代だしたるから、やめてええ」

待ってましたとばかり、11末を最後にすっぱり止めた。
最後の日に、あの黒縁眼鏡の人が言った。彼は明日から私の担当していた所もカバーしなければならない。
「な、やっぱり、お嬢さんの気まぐれや言うたやろ」
苦労人のオーラをかもし出していた彼に返す言葉はなかったけど。
(お嬢さんやないけど、寒いのも怖いのも苦手やもん・・・)

陳先生は、私を教え始めた当初には彼氏がいた。ところが日本人との結婚を許さないご両親に反対された。
私を教えている最中に、どうやら同じ華僑の人とお見合いをしたようだった。ある日、「お見合いってバカにしてたけど、案外悪くないかもしれないわねー」と言っていたから。
しばらくすると、ほのかにタバコの臭いがするようになった。

共通一時の結果が出た。点数を見た陳先生は、「インドネシア語も面白いよ。『走る』っていうのは、『歩く』を2回言うと走るになるんだよ」
これが本当かどうか真偽の程はわからない。(多分、本当は『歩く』を2回言うと、『散歩』って意味になるんじゃないかと思う)

陳先生の勧めは無視して、私の共通一時の点数で入れそうなイタリア語を選んだ。別にイタリアに興味があったわけでも何でもない。ヨーロッパ系は、言語も文化も英語と変わりないだろうと思ったからだ。これは後になって大きな間違いだったと気付く。が、時既に遅し。

春が来て、私はめでたくガイダイに合格した。
父は狂喜乱舞した。我が家は後にも先にも「コッコーリツ」なんて人間は輩出していないのだから、父のこの喜びようもうなづける。

陳先生が私にお祝いを言いに来た日、父は先生に「お礼」と書いた封筒を押し付けていた。
「いや、もう、気持ちだけでっさかい」
中味は10万円だったと記憶している。

陳先生なしでは、ガイダイ入学は絶対に有り得なかったと私も確信しているし、姉も妹も四捨五入して授業料100万円ののM短大やK短大だったのだから、10万円は安いものだ、と私も思う。

陳先生はその後、例の華僑のお見合い相手であるお医者さんと結婚し、彼の研究のためにニューメキシコに渡った。その後、音信普通になってしまった。

陳先生、どうしておられるのかなぁ。すっごい才媛だったけど、今はどうしておられるのか。懐かしく、しばしば思い出すのである。

2 件のコメント:

serena さんのコメント...

おもしろい~~。
へぇぇぇぇぇぇ、そんなことがあった後にJodakoさんと知り合ったのね、私は。
私にとってはJodakoさんは十分「お嬢さん」だったよ(住んでいた場所だけでなく、お家も大きかったし)。

ちなみに私はフラ語志望でした~。私は逆に他教科はそこそこだけど、英語もそこそこでしかなかったので、二次で太刀打ちできないと思い、共通一次が800に届かないことが分かった時点でイタ語にしちゃったんだわ~。(地理さえもうちょっとできてれば~)

Jodako さんのコメント...

お家が大きいって思ったのは何かの勘違いだよ。フツウの家だし、あの町レベルで行くと貧弱になるんじゃないの。
次ぎはセレナとのイタリア武勇伝?を書こうかな。すでにどこかに書いた気もするけど・・・。