2月頃、マンハッタンでの仕事のあとに、友人たちとレストランで夕食を食べたときのこと。途中から、近所に家がある友人のご主人(アメリカ人)も加わった。
本の話題になったとき、そのご夫婦が二人して村上春樹を絶賛。NYUで数学を教えているご主人は村上ファンで、英訳された作品をたくさん読んでいるそう。「ノーベル賞に一番近い日本人作家って言われているんだよね。」
村上春樹の名前は知っていたけれど(昔は村上龍と区別がつかなかった。後者がテレビに登場するようになってようやく区別がつくようになった)、作品は一冊も読んだことはなかった。そんなにすごい作家なら、よし! 何事も「形から入る」私は、早速本を買い集めた。丁度日本に帰国する前のことだったので、ブックオフ・オンラインでたくさん購入して実家に送りつけた。
最初に読んだのが「アフターダーク」。ところが、あまり面白くなくて、途中で止まってしまった。代表的な作品じゃないし、これじゃ村上の良さはわからないのだろう。
しばらく手をつけないでいたが、最近になって「ノルウェーの森」を読んだ。必死に読み終えたという感じ。だってのめりこめないし、ヘンチクリンな話しだし、うーん、私の読み方が悪いのかなぁ? あ、ノルウェーの森は初期の作品だし、ひょっとしてもっと最近の作品がスゴイのかも。
次に挑戦したのが「海辺のカフカ」。「ノルウェーの森」よりさらに太い文庫本の上下2巻。しかし、これもダメ。もう読むのがしんどい。でも読まねば彼の良さはわからない。とにかく、文章はどうでもいいから、ストーリーだけでも追おうと、超級の斜め読み。ところが話の展開も妙。ひょっとして、最後まで読めばこれがみんな繋がって、な~るほど!と納得するのかも。(部分的には面白いと思えるところもあるにはあった。ネコと会話できるおじさんのところは面白かった。)
ところが、最後まで読んでも、変な話のなぞは解けない。では、何か哲学的なものが含まれているのか。いや、それもなさそう。文章も英語の文章を日本語訳にしたような文章なのだよ。これがいいのかも知れないけれど・・・。
誰かに、何かをしていいかと聞かれて、「もちろん」なんて答える日本人はあんまりいない。でも村上の文章中の会話には頻出する。実際のところ、私はしょっちゅう口にするんだけれど、これは英語のOf courseの直訳。別に意識して使っているわけではなく、アメリカに長くいると、つい口をついて出ていしまう。私に限らず多くの日本人が使っている。でも、純粋の日本人(と言うのも変だけど)は、こんなこと言わないよね? 超ドメな、うちのオカンやオトン、兄弟姉妹は絶対に使わない自信がある。
とにかく、村上春樹はダメでした。これは文学価値のわからぬ私が悪いのか?
そこで昨日、髪を切りにマンハッタンのA子さんのところへ行ったとき、彼女に聞いた見た。彼女もたくさん本を読む人。
「あたしもダメだった。途中でやめちゃった。」
なるほど。私が悪いわけじゃなかったのね。
A子さんのところに行った後は、恒例のCちゃんとの待ち合わせ。近くのホットチョコレート屋さん(Max Brenner ここのイタリアンのホットチョコレートは、パリのアンジェリーナのホットチョコレートと同じくらい濃い)でひとしきりダベる。
「私も読んだけど、アカンかった。」
おー、やっぱり。そう聞いて、自分は普通だったのかと安心する。そうなると今度は、いったい村上のどこがいいのか不思議になる。わっからなーい。今度、Y子さんに聞いてみよう。
それにしても、「ノルウェーの森」にも「海辺のカフカ」にも、女性が男性を”手でイかせてあげる”シーンが頻出する。セックスシーンの一部としてじゃなくて、ただそれだけ。よっぽど村上春樹って、コレが好きなんだろうなぁ。「そうやろ」とCちゃんに言われ、自分のこの意見に自信を持った。
2 件のコメント:
元村上春樹大ファンです。
最初に読んだのはたぶん大学1年の時、友人に借りて。「1970年のピンボール」だと思う。「ノルウェイの森」は1988年、長男が生まれた年に読んだと思われる。安西水丸との対談集とか面白かったわ~。共感できるところも多かった。
その後ね~、世界のアンダーグラウンド・・・だったかなんだったかあたりから読めなくなったわ。
旅行記みたいなのは読んだけど、小説は読めない。何が変わってしまったのか・・・作風が変わったというよりもたぶん自分が変わったんだと思う。その後、吉本ばななとか群ようことかに移ったんだけど、今読んでもこれまた共感できないんだろうなぁ。
今は文献と仕事関連本しか読めないです。
そっか。「若い」と読めるのかしら・・・。
今、三島由紀夫のエッセイ読んでるけど、これ結構いける。三島由紀夫なんて読めないと思っていたら、とっても普通だった。まだ小説には挑戦していませんが、今度ブックオフで探してみようっと。
コメントを投稿