2週間あまりの日程を無事終えて、ジジババはめでたく日本に帰りました。先ほど電話があって無事着いたとのこと。
この家を発って空港に向かうべく、愛車オデッセに乗り込み、口々に言う。
「シートベルトは、これじゃの。おー、入ったで。」
「私のも、すっと入りました。ようやく、すんなりシートベルトが出来るようになったと思たら、帰らなあかんのやねぇ。」
「ほんまやのう。身体もなじんで、やっと快腸になったのになぁ。」
と言いながらも、未だにオデッセの自動スライドドアの閉め方を父は学習していない。ドアを開けたまま、私が閉めるのを待っている。
最初のナイアガラへの2泊の旅。ラクイサ(アメリカのお母さん)とのハプニングもなく、楽しく過ごすことができた。私は自分が話すと、人が話す分も合わせて3倍話さないといけないので、極力話さぬようにした。
母:「いやぁ、お母さんとやっと会えて、いろんなお話できて嬉しいわ。でも、娘に通訳させていると、本人の悪口言えないわね」
ラクイサ:「大丈夫、その時は、シナコを呼べばいいじゃない」
その後、実際に私の悪口を言う為にシナコが呼ばれたかどうかは知らないけど。
母:「この前、娘が電話で通訳して、お母さんとお話したでしょ。あのことをエッセイに書いて投稿したら、入選したのよ」
ラクイサ:「あら、是非読みたいわ。訳してね」と私に言う。
そうだったの、私もまだ読んでないよ。
ナイアガラへの道すがら、助手席に座ったラクイサがどんどん私に話しかけてくるので、時々その内容をまとめて後部座席の両親に説明していたら、「いいよ、全部訳してくれなくても」と母が言う。私を気遣ってと思っていたけど、ひょっとして一方的なラクイサの話を聞くのがめんどくさかったから? されどラクイサ。「いーえ、私の話はどれも重要だから、一言漏らさず全部訳してちょうだいね! わっはっはー!」
ホテルはカナダ滝の真正面。「シニア料金」の割引が効いたので滝の側の部屋を取ったのだが、大正解。目の前にカナダ滝が見えて圧巻でした。(今回はマリオットにしたけれど、前に泊まったお隣のシェラトン・フォールズビューもとても良かった。ナイアガラに行くなら、このどちらかをお勧め。シェラトンはアメリカ滝に近いシェラトン・オンザフォールズもあるから、間違えないように。)
ナイアガラに着いた翌日は、曇りのち雨。ホテルから目の前のケーブルカーで滝の近くへ降りる。滝の裏側のツアーを終えて、いざ霧の乙女号へ向かって歩こうと言う段になって、「ワシは、もうええ。ホテルに帰る」と父。朝の儀式が、時差ぼけでホテルを出る前に終わっていなかったのが、ここへ来て、父のお決まりの表現を借りれば「エンジンがかかった」らしいのだ。父は一人で再びケーブルカーでホテルへ。貸しきりだったそう。そりゃそうだ。あの時間に戻る人なんていないわ。
そこで女3人で霧の乙女号へ。帰りは雨に打たれたけど、船で既にびっしょりだったし、もらったポンチョが役に立った。
http://www.maidofthemist.com/en/
その日は父の77歳の誕生日。滝を見下ろすスカイロンタワーの上にある、1時間かけて360度回転するというレストランを予約していたのだが、あいにくタワーは雲の中。よっぽどキャンセルしようかと思ったけれど、せっかくだから行くことにした。ガラガラだろうと予想していたのに、雨だからと予定が変更できないツアー客でレストランは結構埋まっていた。案の定、視界はほぼゼロ。見えるのは雲ばかり。
http://www.skylon.com/
景色は見られなかったけれど、ディナーの後に、突然ピアノがハッピーバースデーを奏で出し、ろうそく1本を立てたケーキが父に運ばれてきて、みんなに歌ってもらって、嬉しそうだった。
しかし、翌日判明したのだが、父はただ私たちが歌っているだけだと思っていたそうだ。ピアノの伴奏の音もも、店中の客が歌っていたのも全然知らなかったそうな。父は耳が遠いのである。
ナイアガラ2日目の夜は2度目の大統領討論会。ホテルの部屋に戻ったときは大方が終わっていた。
帰り道、良いホテルだったねーと言う話になったときに
ライクサ:「でもひとつだけ難あり。フォックスニュースが入らなかった」
私:「えっ? そうだったの?」
ラクイサ:「そうよ。じゃなかったら、なんで私がCNNを観てたと思ってんの?」
私:「私への配慮かと思った・・・」
ラクイサ:「まさか!」
そして両親のほうを見て「彼女とわたしは政治的な見解だけは合わないのよ、ね?」
父:「お母さん、心配せんでえーです。何やかんや言うたかて、どうせコイツには、選挙権はないんやから。は、は、はー!」
行きはピークまでは今一歩と言うところだったのに、たった2日後の帰りのドライブでは紅葉した景色が最高にきれいだった。毎年きれいな紅葉が見られるわけじゃないので、これはとってもラッキー。とにかく、少し進む毎に「わぁ~きれー!」「すっごいきれー!」「めっちゃきれー!」を連発するので、ラクイサまでも「キデー!」
ナイアガラから戻って翌日は、キニコの母校、ホッチキスを案内。学校を見て父が言う。
「こりゃ、学校ちゅうよりは、美術館みたいな建物やな」
確かに、改めてきれいなところだと思った。その後、近くでランチを食べ、そこから少し北に行ったマサチューセッツ州にあるNorman Rockwell Museumへ。私は彼の絵が好きなのです。
http://www.nrm.org/
その後、ニュージャージーのベッツィーの家にラクイサを送って行った。本来は3時間半の道のりが、3連休の初日であったため、ジョージワシントン橋で大渋滞およびハプニングで、5時間かかった。
渋滞中、橋の少し手前で右手の高速の出口に長い列ができていた。列の最後尾のバスが4車線目のレーンをふさいでいる。そのレーンを走っていた私は、少しレーンにお尻がはみ出たバスをかわして通ろうとした。途端にバキっと言う大きな音が。
何じゃ?と思ってみたら、隣のラクイサが「あらー!見てコレ!」
なんと、右のサイドミラーが根こそぎ折れて、電動ミラーのワイヤだけでぶら下がっているじゃありませんか! はー、やってしまった。バスにも傷がついてるだろうけど、そんなの知ったこっちゃないし、あっちも渋滞、こっちも渋滞で、誰も追って来られない。こっちも止まるのも戻るの無理。サイナラ~とゆっくり現場を去りながらも、またしても夫コイオの怖い顔が浮かぶ。
みんなを見渡して、「いい、このサイドミラーはNorman Rockwellの駐車場に停めていた間に、誰かにぶつけられて折られたことね。絶対コイオに私がやったって言わないでよ! 怒るから。」
父:「ええけど、お前、ようそんな悪知恵がすぐに思い浮かぶのう」
私:「だって、前にバンパーぶつけたときに、チカちゃんに『何で言うたん? 黙ってたら分からへんかったのに』って言われたから」
父:「ホンマ、お前ら、悪知恵が働くのう」
そして父は母に向かって、「おい、お前が言うたれ。あいつが言うよりホンマっぽいやろ」
母:「そんなん、私じゃなくて、おじいちゃんが言うてよ」
父:「あかん、ワシは笑ろてしまう」
母:「じゃ、車に乗ったときに、まずラクイサが気がついたってことね」
ラクイサ:「それで、私が見てと言って、みんなでびっくりして憤慨した」
母:「あかん、私も笑ってしまう」
私:「あかんよ、笑ったら! 怒ってないとおかしいねんから」
母:「あかん、笑うわ」
父:「あかんぞ、お前が笑ったら」
母:「ほんなら、おじいちゃん言うてよ」
父:「あかん、ワシは笑う」
ラクイサ:「それにしても、このミラーは当たったときに折りたたまないの?」
私:「日本のオデッセは折りたためたのに、これは折りたためないの。そうや! これは車が悪いんやわ! 衝撃で折りたたむようになってたら、壊れへんかったのに」
ようやく橋を抜けて、スピードが出せるようになった。すると突然ゴーン、ゴロゴロ、ガンガンと音がする。見るとワイヤだけでぶら下がったサイドミラーが突風に煽られて窓ガラスやボディーに当たっている。まずい。サイドミラーだけならまだしも、ボディーにも傷がついたとなりゃ、ますますコイオが怒る。仕方なくスピードを落とす。が、トラックが横をすり抜けると、風圧でその度にガーン、ガラガラ、ゴロゴロ。
ラクイサが窓を開けて何とかしようとしたが、どうにもならない。
仕方なくサービスエリアに出て、対処することに。
母:「ハンカチでくるんだら?」とハンカチを取り出したけど、小さすぎてくるめない。「あ、ベッツィーにあげようと思ってたお土産の風呂敷があるやん。あれで包み。」
風呂敷で包んで、ラクイサのアイデアで結び目を窓ガラスの内側にはさみ、ようやくミラーは動かなくなった。
「ほら見て。あんな風呂敷、誰が欲しいねんとか悪口言うてたけど、役に立ったでしょ」と母。
しかし、窓ガラスに白い丸い風呂敷包みが張り付いた車はとても奇妙。横を走る車の視線を感じる。
本当はラクイサをドロップした帰りに、マンハッタンに寄って、ペンシルバニア駅に9時過ぎに着くキニコを拾って帰ろうと思っていたのだが、ベッツィーの家に着いたのが9時。そんな時間もなくなった。私たちが10時半に帰宅したとき、既にキニコは一足先に電車で帰っていた。キニコの大学は、中間考査が終わってその日から4日間のお休みなのだ。
ドアを開けて、開口一番、コイオに向かって私は叫んだ。
「めっちゃ、腹立つねん! 聞いてよ! サイドミラー壊されてん!」
コイオのすごーく不機嫌な表情を見て、笑うと言っていた両親も、まじめにお芝居をする気になったらしい。
「お母さんが一番最初に見つけはってん、ね」と母がフォロー。
しかしコイオの不機嫌さはどうやらミラーのことばかりではなさそう。
「キニコの顔、見て来てみ」
キッチンで何かを食べていたキニコの顔をのぞいて、私のお芝居の怒りが、本物に変わる。
「何を考えてるの!?」
キニコは鼻にピアスを空けていたのである!
と聞くと、すぐに鼻輪を思い浮かべそうであるが、鼻輪ではなく、左の鼻の上の方にインド人の女性がつけているようなピアスをしている。
もうミラーのことはそっちのけで、コイオと私でキニコをしかり始めた。
「何でそんなところに穴を開けるのか」
「私の身体じゃない」
「アンタの身体でも、パパとママが養育している以上は好きにできないの。やるんだったら、自分で自立して生きていけるようになってからしなさい。それまでは許さない。すぐに外しなさい」
「いやだ」
「そんなんやったら、出て行け」
「これが最後だもん、もうあけないもん」
「そのうち、お臍や眉にも開けるんでしょ」
「そんなん、しないもん」
しばらくこんな応酬が続き、キニコはおいおいと泣き出したが、私たちは無視。
そこへ、母がやってきて、「もうやってしまったことは仕方ないじゃないの」
・・・で、私のほうはその話題をドロップすることにした。コイオは2、3日機嫌が悪かったけど。
車のほうは翌朝ディーラーに持っていって部品を発注。3日後には修理完了。その間、風呂敷包みをぶら下げたままでは恥ずかしいので、ミラーは取り外してもらった。
と言うことで、両親がいた間のハイライトはミラー風呂敷事件かも知れません。(未だにコイオは真実を知りませぬ。)
日曜日。マンハッタンのアッパーウエストにあるオーシャングリルと言う店で、私のアメリカの家族とキニコを除く我が家の総勢11名が集結してのブランチ。
ベッツィーは、彼女が16歳のときに日本の我が家に遊びに来たときのアルバムを持ってきて見せてくれた。父が半紙に墨で書いたベッツィーの名もあったが、本人はすっかり忘れている。
そうそう、ラクイサをベッツィーの家に送って行った時に、ベッツィーが母に見せようと人形を持って来た。それは当時母がベッツィーのために作ったもの。私たち娘もみんな作ってもらったけど、今も持っている者は誰一人としていない。「いやー、大事にしてもらって! 懐かしいわぁ」と、母はとても感激していた。
レストランで、カナダのお土産をラクイサはスザーンに渡していた。これを雪解けの機会にしたいと思っていたようだが、残念ながら、そうはならなかった模様。(あれからスザーンと話をしていないと、ラクイサが今朝の電話で言っていた。)夫のバーニーのほうは、普通にラクイサと会話していたんだけどな。
ブランチの後は、みんなでセントラルパークを散歩。その後私たちはミュージカルのライオンキングを見るためにブロードウェーに。これにはキニコも参加。
翌日、父が言う。
「昨日、あのザコバの前を通ったやろ」
「ザコバ~? なんやそれ?」
「ほれ、何や、オノヨーコか誰かの・・・」
「・・・ダコタハウスのこと!?」
「そうや、そのザコバ」
落語家の家やないねんから・・・。
ミラーの修理が終わった日は、キニコが大学に戻る日。またキニコの運転免許の実地試験の日でもあった。1時のテストの予約に2時間待たされた挙句、テスト結果は見事「不合格」。次の再試験は冬休みの12月に予約を入れた。教官からもらった紙には、「一旦停止の線を越えて止まった」が3回、「制限速度30マイルを45マイルで走った」とある。終わってから友達に電話で「あの、バカ教官が・・・」と話していたが、「そういう言葉は使わないの。バカはアンタでしょ」 (キニコは「お尻の穴」と言う英語を使ってました、はい「麻生」さんです。)
大学へキニコを送りついでに、両親をペンシルバニア州に住むアーミッシュの村に連れて行こうと、寮でキニコをドロップした後は、ランカスターという町に行って泊まった。翌朝、午前中一杯をアーミッシュ観光にあて、その後お土産を買って帰った。あまり興味がないかなと思っていたけれど、二人とも結構、興味をそそられたようで良かった。
http://www.pbase.com/terry434/amish&page=all
日本語でのマンハッタンバスツアーと言うのがあって、両親だけで参加。友達のチカエと4人で昼食を食べた後、2人をツアーに送っていき、私はチカエと、お茶して待っていた。
さて、どんなツアーだったかと聞くと、想像していた2階建てバスではなく、ただのマイクロバス。参加者も両親を入れて8人。ガイド兼運転手の日本人のおじさんが、運転しながら前を見て話すので、耳の遠い父には3割しか聞こえず。また「右手を見てください」と言われて、一番後部座席の両親が自分たちの右手を見ていたら、どうやら運転手さんの右手だったらしく、どの建物のことやらわからなかったそうな。「上のほう」と言われても、バスの天井で何も見えないし。バスを降りたのは、唯一バッテリーパーク。遠~くに自由の女神を眺めるだけ。エンパイヤステートビルも外から眺めるだけ。「逸話や歴史の話は面白かったけど、いったいどこを走っているのやら、さっぱり分からなかったわ。」しかも、前の座席に陣取った6人組みは、今朝の飛行機で日本から来たばかり。時差ぼけで、バスに乗るなり船をこいでいたので、これじゃ、ガイドさんのやる気も削がれるわな。
翌日の土曜日はマチネでミュージカル「オペラ座の怪人」を見に再びマンハッタンへ。父はミュージカルは、もうええ、とミッドタウンにある「日本囲碁クラブ」へ碁を打ちに行く。残念ながら、その日のお客は父とアメリカ人の大学生一人だけ。初心者の学生に父が教える羽目に。「先生」と呼ばれる囲碁クラブのおじさん(日本からわざわざ3ヶ月交代で来ているそう)とも打ったそうだけど、あまりに人がいなくて、期待を裏切られたらしい。
オペラ座の怪人で、私は前半の途中から意識を失った。やっぱ、私のミュージカルに対する理解はライオンキング止まりです。ちなみに母もコイオも居眠り。しっかり見て面白かった~と言ったのはシナコだけ。
夜はチカエとマブ男さんも一緒に中華街で晩御飯。海鮮料理が中心の中華料理店(Fuleen)は、とっても美味しかった。特にdungeness crab(アメリカイチョウガニ)が! これから中華はここにしよう。ご飯の後、マブ男さんがガイド、チカエの通訳で、夜のダウンタウンを案内してもらう。マンハッタンの夜景が見られるRiver Cafeへ行ったが、残念ながら結婚式の貸切となっていて入れず。横からブルックリン橋とマンハッタンを眺めた。
この2週間余、予定が全くないのは3日ほどで、殆ど毎日のように何か予定が入っていて忙しかった。それでもせっかく来ているので、常に何かしていたい父は、予定のない日は退屈気味。そんな日は母と長い散歩に出かけていた。結果的には結構フルで楽しんで帰った模様。
でも一番良い目をしたのは私かも。外食も多かったが、この間に食事の支度をしたのはたったの1度、昼ごはんにチャーハンを作っただけ。あとはずっと母がおさんどんをしてくれた。一応悪いから「手伝おうか」と心にもない声は掛けていたが、いいというので、全~部お願いした。
買い物に行っても父が払うと言うので、お言葉に甘え、遊びに行った費用も含めて全部2人に出してもらった。いいのかなぁ・・・と思いつつも、出すと言うので、お願いしました。ちなみに誕生日のディナーは私が出しましたよ~。それも払うと言ったけど、誕生日のお祝いを自分で出させるのは申し訳ないからね。
年金暮らしの両親に払わせて・・・と罪悪感がないわけでもありませんが、カネ食い虫のいる我が家への思いやりとありがたく受け取っておきますです。ちなみに父曰く、母はシルバーセンターでのアルバイトで羽振りが良く、父にも月に2万円のお小遣いをくれているそうであります。
シルバーセンターと言うのは、芦屋市が斡旋する老人の派遣アルバイト。登録者は60歳(?)以上の市民。派遣先もやっぱり市民か市に関する仕事。母は週1で、子供のいない大学教授夫妻の家に3時間掃除に行き、これまた週1で病気で寝たり起きたりの奥さん(子供7歳)のところに食事を作りに行く。3日分くらいをまとめて作っておくそう。また不定期で火災報知機の検査をよそのおじいさんとペアで回っている。掃除のほうは3階建ての家なのに、掃除機が1つしかなくて持って上がったり降りたりがしんどいそう。家の中にエレベーターもあるのに、電気代が高いので止めてあるんだって。「各階に掃除機おいてもらったら? うちですら各階にあるのに」と私。これホント。地下はもらったやつ、1階は簡易の充電式のやつだけど。
食事のほうは楽しいらしい。そこのお譲ちゃんがとっても可愛いんだって。「おばちゃまのピラフは本当においしい」と、母の焼き飯は、このオタクではピラフに格上げされる。「おばちゃまの作るものが大好き」といつも言ってくれるそうな。
ちなみに、母はシルバーセンターでのアルバイトの他、ボランティアで盲人のための朗読をし、毎朝、早起きして山へ散歩に行き、同窓会と称して小学校の同級生と月一でハイキングに出かけ、幼馴染を含む高校の同級生4人組でしょっちゅう旅行したり食事したりと、超級に元気で忙しいのである。父も子供にテニスを教えたり、碁会所へ行ったり、母の不在時に家を掃除したりしているそう。
そんな話を聞きながら、母が食事の支度をするのを眺めておりました。食事の後は、いつものごとくコイオがさっさと後片付け。それを見て母が、「お義母さん、こんなん見たら泣かはるわぁ」
「よう、躾けてありまっしゃろ?」と私。
「慣れてますから」とコイオ。
「おじいちゃん! おじいちゃんも、ちょっとは見習ってよ」
3日ほどすると、父が自分で食べたものを流しに運び、洗っているではありませんか。はて、日本に帰っても続いているかなぁ。
そんなわけで、両親がいた間は極めて充実した食生活だったわけです。帰国した日の夜の分も前日に用意しおいてくれました。従って本日より普段の悲惨な食生活に戻りま~す。
しかし両親の帰国を誰よりも誰よりも惜しんでいるのはジョダ。と言うのも2人がいた間は朝晩1時間ずつお散歩に連れて行ってもらっていたから。朝はたいてい母が。夜は、母が食事の支度をしている時は父が。外出から帰って来たときは、その足で2人で散歩に行ってくれていました。ジョダは少しスリムになったみたい。
「お陰で、ええ冥土の土産ができました」と言ってたけど、そのくらいの土産では足らんと冥土の人に言われるかもしれんので、もうちょっと土産を増やしに、また是非来てくださいまし。今度は1日分とは言わず、1か月分くらいの食事の支度して帰ってちょうだい。
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