2008年6月28日土曜日

キスゲ

キスゲ? 何だそりゃ?
サスケとか、キタロウとか、キクラゲみたいに変な名前。

これ、花の名前。
私が「水仙」と信じて疑わなかった庭の花は、キスゲと言うのだそう。今日、友達からメールがあって指摘された。恥ずかし!

キスゲとは、
ユリ科の多年草。山野に自生し、高さ1メートル。葉は線形。初夏、鮮やかな淡黄色のゆりに似た花が咲き、夕方開いて翌朝しぼんでしまう。そのため「夕すげ」とも呼ばれる

だって。

2008年6月27日金曜日

笑い

外に行くと、私はよく笑う。実家でもよく笑う。
でも自分の家ではあまり笑わない。って言うか、私がおかしいと思うところと、娘たちがおかしいと思うところの、ツボが違うらしい。夫のは、もっと思い切りずれている。全然面白くないテレビの場面で笑っている。

さて、通訳の仕事中に笑うなんてご法度。
スピーカーが面白いジョークを言っても、訳す前に笑ってはいけない。しかも、自分は笑ったものの、それが通訳できない言葉遊びだったりなんかすると最悪。

ところがその法度を冒してしまった・・・。

私の通訳中、聞いている人たちは、次々に噴出した。
私はひたすら笑いをこらえていた。だって笑うのは失礼な場面でもあったからだ。幸い笑い声は、別室のスピーカーには聞こえない。だからこそ、私と同室にいる人たちは笑っていられるのだが。

必死で笑いをこらえながら通訳している私の横で、ついに同僚たちまでが噴出した。
しかも、一人は涙を流して、ついには鼻までかみだした・・・。
笑ってはいけないと思うと、どんどん込み上げて来る、
もう限界。通訳している言葉が震える、そして途絶える・・・肩が震える・・・。

取り合えず5秒くらい黙ってしまったけれど、手をつねりながら、残りは何とか踏ん張った。
ひどいよ、ひどいよ! アンタたちまで笑うなんて!と同僚を恨みながら。

でも、ホーント可笑しかった。そして楽しかった!

2008年6月26日木曜日

韓国

ようやく昨日の朝、帰宅しました。

宿泊していたホテルのインターネットが有料(10ドル弱!)だったので、仕事関連の重要な連絡以外はBlackberryで済んでしまうので、ネットを利用したのは1日だけ。今日びはビジネス向けのホテルではどこでもインターネット無料なのに、ちょっといいホテルだと有料だなんて。金持ちビジネスパーソンは気にしないのでしょう。どうせ会社持ちだし。

さて、夏休みはがんがんバイトして、しっかり稼いでもらおうと思っていたキニコは、毎日家でだらだらしている。どうして積極的にバイトを探そうとしないんだ!と、本当に腹が立つのである。余り私が怒っているから、家の中の手伝いは結構積極的にやってはくれているけれど。

その上、先日は、「韓国に行きたいんだけど」となどと言ってきた。

「韓国でもシベリアでも北極でも、どうぞ。但し自分のお金で行くならね。お金は出しません」と答えた。すると、ちゃっかり父親に相談。彼は飛行機の値段や、マイレージでチケットが取れるか調べたらしい。私は夫にも、「私は反対だよ、行くなら計画的にお金をためて、冬休みでも、来年にでも行けばいい」と言ったけれど。私が出かけている間に、マイレージで韓国・日本行きの航空券を取っていた。

もし行くなら、ついでにジジババ孝行をして来いと言ったので、帰りは日本に寄ることになった。しっかりジジババに仕えて来るといい。(でも、あいつには、入学祝をせしめようと言う下心があるに違いない。)
韓国では、友達の家に遊びに行くのだという。キニコには仲の良い韓国人の友達が数人いる。

キニコの高校の3割ほどは外国からの留学生だった。中でも韓国人が一番多く、ついで中国系。中国系の場合はアメリカ永住者も多かったが、韓国人は家は韓国という子が多かった。ちなみに日本人はキニコ一人。もう一人、下の学年にお母さんが日本人と言うハーフの子がいたけれど。

中学までのキニコの友達にアジア系はいなかった。学校に日本人はいたし、補習校にも通っていたが、何故か親しい日本人の友人はなかった。ところが、高校に入ってからは、徐々にアジア系の友達が出来始めた。思うに、彼らの中に同様の文化を見出して、親しみを感じるようになったのではないか。勿論アジア系としか付き合わないわけでなく、アメリカ人の友達も多かったけれど。

私なんかは、やっぱりアジア系の人と一緒にいると、なんだかほっとする。何故だろう。構えないで良いというか。サウジ人の友人とも、「やっぱりアジア同士だと通じるところがあるね」と、話したことがあった。

私やキニコの世代は、韓国人と一緒にいても何のわだかまりも感じないし、相手も同様である気がする。もう一世代上の人たちでも、私がアメリカで出会う人たちは、日本や日本人に対して、過去の出来事に捕らわれていないと思う。勿論、過去の出来事をすっぱり忘れているわけではないだろうけれど。

なのに、どうして政治の世界では、いつもいつも「対日感情」が取り沙汰されるのか。これはもう、煽られて、故意に作り上げらている感情でしかないんじゃないかと疑いたくなる。

ただ、私たちが出会う韓国人は、少なくとも外界に触れることの出来る、開かれた環境にある韓国人。他のドメドメの韓国人の間ではどうなのか。機会があれば尋ねてみたい気がする。

2008年6月19日木曜日

ホンマ、疲れました

車で行けば4時間ちょっとのところに、飛行機で出かけた。1泊でとんぼ返りの予定だ。車か飛行機かで悩んだ末、翌日からまた遠出の予定があるので、スタミナを温存するため飛行機にした。そして案の定、結果はその逆。どれほど車にすれば良かったと後悔したか。

昨日は家を出たのが1時半。ホテルにチェックインしたのが真夜中。しめて10時間半の道のり。帰りは、向こうを出たのが4時、家にたどり着いたのが11時。しめて7時間。

昨日は空港で7時間、今日は空港で4時間半を過ごした。しかも空港は冷房が効き過ぎていて、体の芯まで冷えた。(これからは本気で毛布を持参するわ。)

飛行機が遅れることは、今や日常茶飯だけれど、これほどひどいのが2日連続なんて、よっぽど日ごろの行いが悪いのだろうか。

行きは、乗るはずの飛行機がキャンセルに。5時発の次の便は既にオーバーブッキングされていて、ボランティアで席をギブアップする人を募っているくらい。8時の便に変更しておきながら、一応この便にスタンバイしたけれど、結局乗れなかった。しかも8時の便も、飛行機が飛んで来ず、じりじりと遅れ、最終の9時半の便はキャンセルになり、8時の便が結局9時半までずれ込んだ。この便までキャンセルになって、真っ暗な中をレンタカーで行かなきゃいけないのかとハラハラした。無事飛行機は来たが、遅延の理由は「メンテナンス」。でも燃料が高騰する中、本当は4便を2便に集約したんじゃないかと疑ってしまう。

帰りは、案の定、早々と1時間遅れになっていた。でも嬉しいことに、1時間遅れの表示はそのまま変更されず、飛行機もこちらに向かってるとのことで、ちょっとほっとした。ようやく飛行機が到着。これでひと安心。

すると、「タイヤ交換を行います。15分ほど済むので、まもなく搭乗できるでしょう。」とアナウンス。
ところが、15分過ぎても、30分過ぎても、外では延々とタイヤ交換作業が続いている。大丈夫かな・・・。最終的には、ダメってギブアップするのでは。そうなるとこれがNYへの今日の最終便。明日からまた出かけるし、這ってでも帰らなきゃ・・・。

でも、ようやく1時間以上待たされた後に搭乗開始。乗り込むと、フライトアテンダントが、「どの席でも結構ですが7列目より後ろに座ってください」だって。
つまり1列目から6列目には座ってはいけないと言うのだ。

素直に従いながらも、むずむず。やっぱり理由は聞きたい。
「どうして、7列目以降なんですか?」
「重さとバランスの問題です。」
バランスたって、乗っている乗客が全員後ろに座っているんだから、こんなにバランスが悪いことはないのだ。
「本当はタイヤがバーストしたときに、後ろのほうが安全とかじゃないの?」
周りの乗客が苦笑した。(もしシナコが一緒だったら、思いっきり嫌そうな顔をしたに違いない。)

自分で縁起でもないことを言っておきながら、ふと、本当にこれが人生最後の日になるかも知れないと言う不安が胸をよぎった。
どうしよう、もしもそうなったら・・・。
このハプニングは、一体誰がブログに書くんだ・・・?

2008年6月14日土曜日

愛は傷つけない by ノーラ・コーリ

本を読みながら、何度も何度も本の内容から離れて考え込んでしまった。

日本にいると、いかに日本が男尊女卑的な社会か、半ば感覚が麻痺してわからなくなってしまう。
でも、海外にいると、そんなところが浮き彫りにされ、余計にそれを強く感じるのだ。

一昔前の日本は、ある面それも致し方のない部分もあっただろう。情報もなければ、社会的に受け入れられていた部分があるからだ。それが、徐々にこれではいけないと言う意識と理解が世界的にも得られて来たにも関わらず、生活が近代化し質が向上した日本社会が、精神的な発展を殆ど遂げていないのはどうしてだろう。

それは、社会の中枢にいる男性が、そう言う考えを浸透させないがための制度を維持しようとしているからではないか。女性の進出を妨げ、妨げられたが故に社会的に身分の低い女性を、あざ笑い、あざ笑うことで自分の優位性を誇示しようとする。

このブログを読んでいる男性は、俺はそう言う人間じゃないと思っていることでしょう。でも、果たしてそうでしょうか。きっと多かれ少なかれ、自分が優位な立場にあることから満足感を得ているんじゃないでしょうか。

「妻より稼ぎが良い」と言うのが、優位性を感じる最も大きな要因だと思う。何を隠そう、家の中のことをたくさん手伝ってくれる、一般的にはとても「よく出来た」我が夫ですら、「俺より稼いでから言ってくれ」と言ったことがある。彼にとっては何気ない言葉だったかも知れないが、私はかなり悔しい思いをした。(未だに覚えているほどだもん。)

でも私が彼より稼げないのは、単に私の能力が彼より劣っているからだろうか? そうじゃない。社会のシステムがそうさせているのだ。おそらく私が男だったら全く違っていただろう。(そうじゃ、なかったりして。) 

念のため、この本はDVの本だが、肉体的な暴力と言うより、主に精神的な暴力としてのDVについて書かれた本である。だから、被害者である女性にではなく、男性諸君に、是非とも読んで欲しい本である。加害者としての男性には、全く加害者としての意識がないから、この本を読むことで、女性たちがどう感じているのか是非とも気づいて欲しい。

「愛は傷つけない」を読んでみたい方は、下記のサイトからメールにて注文を入れてね。
http://www.caretheworld.com/japanese/books/books.html

私の体験で、こんな例がある。ある日本人管理職男性が、部下に当たるある女性のアメリカ人マネージャーに言った。
「キミは、女性なのに、非常に良くやってくれている。本当に感謝しているよ。」
通訳をしている私は固まった。はて、このまま訳して良いだろうか?
即座の判断は、「女性なのに」を飛ばすことだった。うっかり口が滑ったかも知れないと、良心的に解釈したからだ。

しかし、その後も彼は、たびたび、「女性なのに」を連発した。以降は、きっちり訳させて頂いた。それは彼の考え方の根幹にあるものを、この女性にもしっかり伝える必要があると思ったからだ。

日本人男性の考え方の根底には、無意識にもこんな思いがしみこんでいるのではないだろうか。

もうひとつ、この本にあったある女性の話で共鳴した点がある。私の常々の思いが、その文章に的確に表されていた。そのまま引用させてもらう。

「夫の転勤が決まってから2週間は殆ど家に帰ってきませんでした。その間、私は引越しの手配、学校の手配、など全て自分でしました。企業は子供への教育アドバイザーを設置するものの、妻の今の仕事をどうするか、妻の海外でのキャリア、帰国後の仕事への復帰など考えもおよばないでしょう。これは子供以下の扱いです。彼らは妻が仕事をやめ、夫についていくのは当然と見ています。妻の人生に対する尊敬の念が夫にも、企業側にもありません。」

企業側にすれば、夫についていくのが当然ではなく、夫が単身で行き、妻や子供は残るというオプションも与えている、と言うのでしょう。そう言うことを言っているのではなく、帯同するための便宜をもっと図ってくれてもいいと思うのだ。会社からのフォローは全くなしで、アメリカで働きたければ、これこれこういう憂目に会いますが、それは覚悟の上でね、なんて、余りにあんまりだ。

それと、今回のブログの文頭に書いた海外で初めて浮き彫りになる日本社会の男尊女卑・・・って言うか、女性排他主義と言ったほうがもっと正確かな。

アメリカに来たら、いたるところで夫婦同伴の機会があるだろう、と思っていたら大間違いであった。仮にも日本の有名企業でグローバルに仕事をしている夫の会社。郷に入れば郷に従えで、アメリカ文化を受け入れているのかと思いきや、夫の企業のみならず、どの日系企業もまるっきりドメドメな習慣・文化をニューヨークに持ち込んでいるのだと発見。(オハイオで仕事していた会社は違ったんだけど、日系企業マイナーなオハイオじゃ、地域に溶け込む努力を図っているが、「日本」と言って大きな顔ができるNYでは事情が違うのだと思う。)

何も日本文化を前面的に否定する気はない。でも、夫の仕事と言う点で、家族を排除するような、家族の存在を無視するような、そんな習慣、どうなんだろう。(もちろん、日本にいる間はそれが当たり前で、みんな疑問にも思わないわけだが。)夫の会社も、あたかも自分の会社のように愛したいと思っても、残念ながら、この2年間で私の気持ちは後ろ向きになるばかりだ。

会社の集まりは、男だけか、妻だけ。だれがよその奥さんに会って楽しいのだ。(いや、楽しい時もあるけど。)でも、私が会いたいのは、夫が一緒に仕事をしている人の奥さんではなく、一緒に仕事をしている人そのものだ。その人たちを知れば、共通の知人も増える。「xxさんの奥さんの○○さんは・・・」なんて話をしても、夫は上の空だもん。

日系人社会が小さかったサウジ時代は、家族ぐるみでお付き合いが出来た。夫婦共通の友人ができた。正直言って、我が家が最も輝いていた、最も楽しかった時代だ。

ところが、NYに来てからは、日本人社会がデカ過ぎるから、そう言う集まりはなくなった。同時に妻の存在も無視されるに至った。(無視はされても、簡単には自由にはさせてくれないのだ。)

先日も、夫だけが、日系企業とニューヨークにある日本人関連組織、および日本と利害のある米国企業の出席するディナーパーティーに出た。何でもブラックタイ(正装)で出席を要求される立派なディナーパーティーである。それに、夫が一人で出席すると言うのだ。ブラックタイで男だけ? 私はのけぞった。 

夫が持ち帰ったパーティーの出席者リストを、早速色分けしてチェック。(私も暇と言うか、こだわると言うか。)ざっと見て400名くらいの出席者の中で、出席者の内訳は下記の通り:

日本人のカップル:  18組
アメリカ人カップル:  23組
日本人女性(単身):  19人
アメリカ人女性(単身):68人 
野郎の単身:    約230人 (多分4分の1は日本人)

出席者の大半が単身の男性と言うのを見て、いかに考え方に隔たりがあるか、上記の数は如実に伝えている。思うにアメリカ人男性で単身で出席した人の中には、「どうせ日本人はみんな単身で参加するんだから、釣り合いが取れない」と、妻を伴うことをやめた人も多いだろう。

このディナーは1972年から続いている伝統的なものらしく、40年近くたったNYでもこの状態だなんて、日本での「女性排他主義」は、おそらく止むことはないんだろう。

ちなみに、「なんで、私は招待されないのよ~! ブラックタイで男だけなんて馬鹿みたい!」という言葉に対して、夫は、
「俺かて、行きたいわけやない。それに、高いディナーなんやで。」

行きたくなきゃ私が行ってやるのに。女には高いディナーを食べる値打ちもないってわけ?

こんなことってあるんだなぁ(2)

結局昨日の仕事は(勉強の甲斐あって!)まずまずに終わりました。ほっ。

でも、ブースなのにあれほど劣悪な音声環境は初めて。ノイズはすごい、声は割れてる、おまけにしょっちゅう音が聞こえなくなる。そもそも言われている言葉が普段聞きなれない言葉で、推測しながら理解しようとしているのに、言葉の一部が欠損すると、もはや推測も不可能。おまけに知らない固有名詞やアクロニム(英語の略語)の連発で、音がひとつ聞き取れないともうお手上げ。全く音声が途絶えたときは、「聞こえません」で済むけれど、途切れ途切れでも聞こえたら、なんとか頑張ろうとするし。

「それにしても、あの環境で流石でした」とブースの設営会社のお兄ちゃんには褒められたけれど、そもそも彼に会議の内容がわかるわけでなし・・・。ちなみに昼食後は、2時間半のウィスパリング。これは予定外の依頼で、相棒は別件があるからと帰らなくちゃいけないし、私一人で2時間半。私の通訳が必要なのはたった一人。だから、「スケジュールが押していますから」と、予定では入っていた休憩もすっ飛ばして・・・ホント脳みそが酸欠になりました。

思うに、普段通訳を使い慣れていない会社は、通訳を機械か何かと間違っているんじゃないかと思ってしまう。ま、このあたりの話は、この会社に限った話じゃないので、別途するとして。

そうそう、相棒の話をしようと思ったのでした。
昨日は初めて現場で会ったMさん。神戸育ちのアメリカ人と聞いて、「わー、私も関西!」
すぐさま彼も関西弁に切り替わり、どこに住んでたとか、どこの学校だったとか。
「ボクはインターやったから」
ふうん。その後も個人的な話をしていたら、彼が同い年と言うことも判明。

「え、私と同い年ってことは・・・、じゃあ学校にXXっておらへんかった?」
しばらく、いろいろ探り合っているうちに、
「えっ? 夙川に住んどった? 知っとー、知っとー。うっそ~、ほんまか~、信じられへんわ!」
なんか、アメリカン人の口から、こんなバリバリの神戸弁が飛び出すと、その方が信じられへん。
「竹園とかあったよな~」。私の住んでいた町の店の名前も飛び出して、めっちゃ懐かしい。

仕事が始まる前で、あまりおしゃべりもしてられないので、今度また会おうということになった。
いや、ほんま、どこでどんな風に繋がっているか解らない。(ちなみに上述のXXも8運でした。)

で、昨日はマンハッタンからの帰りに、途中の町で下車して、コーラさんという女性と会うことになっていた。コーラさんは、私の仲良しのRちゃんの知り合いで、Rちゃんがイランにいた時代にメールを介して知り合った人。当時私はオハイオだったから、コーラさんがNYに住んでいると聞いても、特別何の意味もなかったので、記憶にとどまっていなかった。

先日、Rちゃんからコーラさんが本を出版されたという話を聞き、自費出版でもあるそうなので、私も貢献しようと注文のメールを彼女に入れた。すると彼女がすぐ近くにお住まいだということがわかり、早速本を貰いに立ち寄った次第。

家に着いたら、初対面にもかかわらず、「お腹空いてる?」
すっかり夕食の用意も整えて待っていてくださった。
コーラさんはカウンセラーの仕事をしている。そんな話や、同じく海外を転々としている彼女とおしゃべりしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。

コーラさんはこれまで、主に海外での子育てに関してのカウンセリングをされていたが、コロンビアでMedical Social Workerの資格を取られてからは、精神医学の面からのカウンセリングも幅広く行われていて、海外に住む多くの日本女性に対して、メールを介して相談を受けている。今回出版された本は特にDVで悩んでいる女性たちのために書かれたもの。彼女の仕事や本に興味のある方は、こちらのウェブサイトへ。(心に訴えかけることがとたくさん書いてあります。)

http://www.caretheworld.com/


それにしても、世の中、どこでどう繋がっているやら。これって、長く生きて来て知人が増えたからそうなるのか、それとも、やっぱり「類は友を呼ぶ」で似たもの同士が引き合うのか。確かに同じような興味を持った人間って、同じような行動パターンになるから、線が交差する確率も上がるのかな。

いずれにせよ、縁は異なもの味なもの、です。

2008年6月12日木曜日

引越し(1)

さて、さて、昨日いらしたB子さんよりメールがあり、めでたくIKEAもマッサージチェアも卓球台も、お引取り願えるみたい。嬉しいなぁ。

今回はプライベートな引越しなので、もちろん費用は全て自分持ち。運送業者の見積もりは数社から取ったけれど、アメリカの業者はウェブサイトから運ぶ予定の荷物をインプットして計算する方法。それで行くと、作業者3人で、1250ドルと出た。後でいくつか入力し忘れたアイテムもあったし、これはあくまで見積もりで、実際の費用はその日にどれくらいの時間がかかったかで計算される。

もちろん日系の業者にもお願いした。この時期は日本向けと日本からの引越しのピークで、Y社には、鼻も引っ掛けられず、「一杯です」と即座に断られた。でももともと本命はN社。これまでに引越しは全てN社だったし、その昔、会社勤めで貿易業務に関わっていたときも、N社だったし、ついでにBFもN社だったしで、常に親近感を感じていたから、やっぱりここが一番かなと思っていた。

お願いすると、いつでも空いてますと言われた。実は、後で聞いたのは、夫の会社と取引があるから、特別に便宜を図ってくださったらしい。悲しいけれど、会社の名前を盾にしないと、物事はスムーズにはかどらないのね・・・。早速見積もりに来てくれて、見積額は上記の金額より高い1480ドルだけれど、作業者は4人だし、頑張って運ぶアイテムを減らして当日少しでも早く終われば安くなるかも。

今日、確認の電話があった時に、何時間での見積りか聞いてみると、8時間だとのこと。ところが、よくよく聞くと、この8時間はトラックがNJにあるオフィスを出発してからの時間なんだって。えー、それってないよ~。だってNJからCTへは必ず橋をわたらなければならなくて、この橋が混むのだ! 悪名高きジョージワシントン・ブリッジを越えてくるのか、北へ回ってタッパンジー・ブリッジを越えてくるのか知らないけど、渋滞ひどい時には2時間くらいかかるのよ。

そこで、我が家の台所事情をアピールしておいた。
「わかります、うちも大学生の子がいますから、大変ですよねぇ」と、事務のオバサンとは心が通じ合ったが、とにかく請求書にそれを反映してね。
「担当の者に伝えておきますが、理不尽な額を請求することはありません」と言ってくれたから、大丈夫よね?

家にあるピアノも卓球台も、日本に帰国される方から買い受けたものだけれど、先方の引越しの一部として無料で運んでもらった。ついでだから親切で運んでくださるのだと思っていたけど、かかった時間分の費用は、しっかり会社側に請求されていたのね・・・。

きっと今回の規模の引越しだったら、アメリカ人なら、いや、オハイオに住むアメリカ人なら、自分でトラック借りてきて、友達数人に頼んで自分たちでやっちゃうんだろうなぁ。

あ、ところでKDDの話。B子さんは、85年入社の8運で8時出勤。3年ちょっといらしたそう。私が80年入社で83年まで。同じく8時出で、記憶が正しければ8期だったと思う。(すごい、8時出勤の8運の8期。888だわ。) B子さんと重なって、共通の知り合いがいるんじゃないかと思うんだけれど。エリちゃん、Cちゃん、知らない? サザエさんが残っていたかも。あ、スーパーで、山下さんってオバサンいたよね、結構怖い感じの。でも何故か私は彼女に気に入られていたんだけど・・・。

呪われた獣医

忙しくなるって書いてからのほうが、ブログの更新がスピードアップしているのは何故だ。本当は、こんなことしてないで、明日の勉強しなくちゃいけないのに・・・。ああ、これは私の逃避癖。

高いからもう行かないって宣言したあの獣医に、まだ通っています。

今日もまた、ジョダを連れて行ってしまった。というのもグリニッチ市に毎年犬の登録料を納めなくちゃいけないのだが、先日送った小切手が、「当市にある記録では、あなたの犬の狂犬病予防接種の有効期限が切れています。新たな摂取を証明するコピーを送ってください」と言うメモ付で戻ってきたのだ。

この前、予防接種を受けに行った本来の目的は狂犬病だった。なのに「狂犬病はまだ有効ですから」と言われて、ワンサカ他の注射を打たれて、〆て500ドル以上も払ったのだ。なのに期限切れ?

おかしいと思って電話したら、やっぱり獣医の間違いで、有効期限は切れていた。

日本の狂犬病ワクチンの有効期間は1年。対してこのあたりのワクチンの有効期間は3年である。それで誤解したみたいだった。実はこの有効期間は、多分に政治的な意図がある、とオハイオ時代の獣医さんに教えてもらった。と言うのも、摂取するワクチンは全く同じものなのに、ある地域ではそれが1年有効で、他では3年有効と見なされる。私たちが住んでいたオハイオの郡では3年だったのに、隣の郡では1年だったから、飼い主がどこに住んでいるかで証明書を違えなければならない、と彼は言っていた。

「こちらの手違いでしたので、今回は注射の実費だけで、診療費は無料にします。今からでも来てください。」

なかなか、いいとこあるじゃん。
ってことで、早速ジョダコを連れて行ってきた。

中に入って暫くして気づいた。持ってきてたはずの小さな鞄がない。
はて、車に置き忘れたか?
接種が終わって、支払いの段になり、「すみません、鞄を車に置いて来たようなので取ってきます。」

ところが、車の中を探しても見つからない。おっかしいなぁ。絶対に車に乗せた記憶はあるのに。でも、もしかして家に忘れたかも。財布にはクレジットカード全てにATMカード、免許証も入っているし、鞄にはブラックベリー(携帯)も入っている。無くしてたら最悪。

再びオフィスに戻り、「すみません、電話を貸してください。」 家にいるキニコに、鞄があるかどうか確認してもらうためだ。
ところが、キニコは電話に出ない。留守電に繋がって、私は叫ぶ。
「キ~ニ~コ~! 居るのはわかっているのだ! 電話に出なさ~い!」
待合室中に私の声がこだまする。格好悪いったらありゃしない。でもキニコは出ない。あきらめて受話器を受付のオバサンに返す。

待合室にいる人たちが、気の毒がって声を掛けてくる。
「鞄に何が入ってたの?」
「クレジットカードと、免許証と・・・」
「全てってことね。」
ジョダの後に、ブラックラブを連れてきたおじさんが、
「車の外は見たかい?」
「見ましたよ・・・ない。」
「転がって、車の下にも入り込んでいることがある。よくあることだから、必ずそう言うところも必ずチェックしないといかん。ほら、俺も行って見てやろう。」

立ち上がって、外に出て行くおじさん。慌てて後を追う私。
這いつくばって車の下をのぞいたおじさんは、
「ほれ、あった! 俺の車の下の、君の車に近い側にあるだろう!」
「きゃー、ほんとだ! こんなところにあるとは、思いもよらなかったわ。おじさん、ありがとう!」
どうやら、ドアを開けたときに、シートの横においてあった鞄が転げ落ちたらしい。

再びオフィスに戻って支払いをしながら、
「それにしても、この獣医さんに来るたびに何か起きるのよね。1回目に来たときは、この子が中からロックを押して締め出され、この前は持っていた車の鍵が、何かの拍子で少し曲がってしまって、エンジンがかからなくなったの。それで、今日はコレ。」
「要は、ここに来るなってことさ!」と、おじさん。

おじさんに何度もお礼を言い、車に戻る。
ふと気がついた。
私が来た時、おじさんの車はまだなかったよな・・・。
はは~ん。きっと彼は、車を入れるときに黒っぽい物体が落ちているのに気づいていたんだ。だから即座に車の下を見よ、なんて発想があったのだ。なんだ、そう言うことか。

それにしても、やっぱ獣医を変えたほうがいいのかなぁ。

2008年6月11日水曜日

こんなことってあるんだなぁ・・・

この家の新たな借り手となるご夫婦が、再度家を見たいからと、今朝うちに来られることになっていた。不動産屋のエージェントも来られることになっていたが、おそらくマンハッタンに宿泊中のご夫妻(日本人)は電車で直接来られるので、この家で落ち合うことになっていた。

ご主人は既に赴任され、奥様は家探しのために短期でNYに来られている模様。
今朝、「で、結局どの人に決まったの?」夫にと聞かれ、
「私が日曜日に出かけていた間に来たご夫婦だって。ほらね、やっぱり、ちゃんと奥さんが来て一緒に家探しするんだよ!」と、未だに2年前の事を根に持っている私。

夫が毎週末、熱心に家探しをしてくれていることは知っていたけれど、学区のことなどかなり詳しく調査していた私としては、自分の目線で家を見たかった。だってその家に一番長い時間いるのは私じゃない。だから、ちょっとだけ私もNYに行きたいと言ったら、
「誰がシナコを見るんだよ。どうせお前は遊びに来たいだけだろ」みたいに言われてかなり憤慨した。確かにシナコの問題があったから、私にしては珍しく素直にあきらめたものの、この家の掃除が行き届いてなくて、おまけにゲジゲジの館だと判明したときは、「ほら、私が見てたら、ちゃんとお掃除してもらってたのにぃ!」と、めちゃくちゃ怒った。

それはさて置き、この家を借りることに決めた人が、私が留守のときに訪ねて来た人たちだったということも、少々ショックである。だって、それまでとっかえひっかえ家を見に来る人たちに、まるで大家さんのスポークスマンのごとく、この家がどんなに素晴らしいか、大家さんがどれほどナイスな人か、宣伝していたのに、こともあろうに私の努力の成果とは全く関係ないところで決まってしまうとは。宣伝能力のなさを思い知らされたというか、当日家にいた夫に軍配が上がったようで、ちと悔しいのだ。

で、今朝は先にエージェントの方が到着された。
「きっと奥様の方からいろいろご質問されると思いますので、よろしくお願いします。」
「あ、任せてください。絶対ポジティブなことしか話しませんから。契約不成立になったら悪いですからね。ネガティブな話は口が裂けても言いませんよ。は、は、は・・・。」

まもなく、そのご夫婦が到着された。仮にA男さんとB子さんご夫妻としよう。
今朝も、エージェンシーの方を迎えるため外に出たとき、ピーターが庭に居た。丁度のその話をしていたところだった。
そこで、「ここね、ウサギが居るんですよ!」

日本から来られる人に、「ウサギがお庭にいるお家なんて素敵でしょ」というアピールであった。
すると、A男さんとB子さんが口を揃えて、
「知ってます。」
「へ・・・?」
「あ、ブログで読みました。」

どっひゃー!
「え、嘘。ホントですか!? 嘘。え、じゃ、みんなばれてる? みんな。ゲジゲジの話も?」
「はい、ばれてます。」

A男さんはコネチカット州の運転免許のことを調べたいと思い、ネットで検索していたそうだ。すると私のブログのページがヒットしたそう。見てみると、自分たちが借りようとしている家にソックリの写真が出ているではないか。しかも昨日のブログには、ご丁寧に番地付きの郵便受けの写真まで。

「はれ~。いえね、今ね、絶対にポジティブな話しかしないで置こうって話していたところなんですよ。そうですか、全部ばれてますか・・・。」

B子さんはご主人にブログの存在を教えてもらって、何時間もかけて隅々まで読んでくださったようだ。そこには、私たちの宿替えの理由もちゃんと書いてあるし、最近はこの家に対する未練と愛着の情も書き綴っていたし、契約が流れる要素はないと思う。でも一応念押しもしておいた。ブログのせいで契約不成立にはしないですよねって。(でも、にわかに不安になって、ご夫妻が帰られたあと、私も何時間もかけて自分のブログを読み直しましたよ。どんなこと書いたか覚えてないし。家はともかく、なんかマズイこと書いてなかったかと・・・。今のところセーフ。)

お二人も関西ご出身で、にわかに親近感も湧き、またB子さんは私の「後輩」でもあった。そ、KDDの短時間制職員をされていたそう。これも驚き。何かご縁を感じてしまいました。

「新しい入居者が決まりました」と書いた数日前のブログに、「それは私です」と思わずコメントしようかと思ったとか。そうしてもらったら、ますますびっくりだったのに。

試しに「コネチカット、免許」と入れてグーグルで検索してみたら、上から4つ目に出てきた・・・。
悪いことはできませんね(やってないけど)。ブログでアイデンティティーは隠しているつもりだったけれど、最近は、じいちゃん・ばあちゃんが孫たちの写真も見たかろうと、娘たちの写真も掲載し始めたし、どこでどうなっているか解らないので、気をつけねばなりません。口が裂けても、人様の悪口とか中傷とか書いてはいけませぬ。あ、夫は別。ま、夫はこのブログのアドレス知らないから。興味もないらしいし。読んだらムカつくだけと知っていて、避けているか。義母もPCないから、読めないし(ほっ)。

親近感を感じて、早速、A男さんとB子さんに、ご相談を持ちかけた。
実は、我が家には1年半前に購入したIKEAの洋服ダンスがある。夫イメルダの洋服と靴が、備え付けのクローゼットには収まり切らないからです。

イメルダってのも死語かな。フィリピンの元独裁者マルコスの妻、イメルダ。彼女はものすごい数の靴を持っていたと言う。今なら、お洒落にSex and the Cityのキャリーってところか。オハイオから帰国したとき、玄関の靴箱は全て夫の靴に埋め尽くされ、ウォークインクロゼットの中にも大量の服。箪笥も同様。私のものを入れる隙がなかった。渡米前にかなり処分してもらい、こっちに来て洋服が入りきらないと気づいて、再び処分。そしてつい先日も大きな紙袋に9袋分の古着をSalvation Armyに持っていったところ。但しこの9袋のうち7袋までは私と娘のものだったけど。

本当は夫ばかりも責めらない。私に散々文句を言われて、可哀そうに彼は、NYに赴任してから、いや、正確には私が到着してから、洋服も靴も一切買っていない。一方、私のほうは、日本に帰国してから仕事着が必要となり、かなりの数の洋服を買い込んだ。だってオハイオ時代はユニフォームだったから、洋服要らなかったんだもん。パジャマとまでは行かないが(サウジ時代にはアバヤの下はパジャマで外出したが)、どうでもいいTシャツを来て出勤していた。たまに上着を脱ぐ必要があったときには焦った。

ところが、かなり投資した上等の服も、アメリカに来てからあれよあれよと言う間に入らなくなった。日本じゃ結構歩くし、自然と食べるものも健康的。ところがこっちじゃ動かないし、しばらくは立派な専業主婦をしていたから、あの生活で太らないわけがない。(「2007年のコネチカット通信その4」をご覧あれ。)今も家にいるときは大差のない生活。加えて、何を隠そう私のバックグラウンドはアパレル業界なのだ。また父親も繊維関係、主に婦人服の問屋業を営んでいたから、小さい頃から、洋服の数だけは多かった。娘たちにもその昔は必要以上に洋服を買い、また貰い受け、シナコなんて一時はワンピースだけで60着持っていた。(まさにイメルダ状態。)今にして思えば、あのお金を大学資金に貯蓄しておくべきだった・・・。

限りなく話は逸れたが、IKEAの話。
それでIKEAの組み立て家具のクローゼットを買い、夫と二人でほぼ1日かかりで組み立てた。大きな家具で、リビングで組み立ててからベッドルームに運ぶことはできないので、設置場所であるキニコの寝室の中で組み立てた。立派なものができて、かなり満足。

昨日、引越し業者さんに見積りに来てもらった。お金をセーブするために、大物の家具だけを頼み、残りは全て自分たちで運ぶことにしている。「自分たち」と複数で書いたけれど、正味は私一人だ。夫にも「引越しは独りでやるから」なんて大見得を切ってしまったし。とほほ・・・。

で、IKEAのタンスを見て、「これは分解しておいてくださいね。それで運んでからもお客さんが再組立てしてください。」
「え、やってもらえないんですか?」
「もちろんやりますよ。でも分解する時間がかかりますし、IKEAの家具って組み立てるの結構大変なんですよ。その時間分全部チャージされちゃいますよ。」
そうなのか。確か組立てるのに1日かかったし、大きかったからかなり苦労した。ならば、新しく入居される方に相談して、できれば買っていただこうと思っていたのだ。この家は築が古いから、クローゼットも小さい。他に押入れがあるわけでもないし、洋服が入れられるスペースは限られている。地下には物が置けるスペースはたくさんあるけれど、毎日必要な物を置くには不便だ。

と言うことで考えていただくようにお願いした。家計簿を調べると購入時457.87ドルのあのクローゼットも、私たち二人の工賃も入っているから、えーっと、このあたりの車のディーラーのLaborが時間90ドル。そこまで専門的じゃないから、半額として45ドル。掛ける2人。掛ける5時間としても・・・、これだけで450ドル。A男さんとB子さん、買って下さらないかなぁ・・・。

Salvation Armyにかなり持っていったので、今は結構スペースが空いてるでしょ。
寄付するとレシートがもらえて、その分が税金控除の対象になるのだが、9袋で一体どれくらいの価値かわからず、控えめに300ドルって申告をした。後で知人に聞いてみると、大体、その時点での販売価値(購入価値ではない)の15%が妥当だそうだ。夫のバーバリーのハーフジャケットもあったし・・・きっと価値としてはもっともっとあったはず。残念。

あと処分の対象は、地下の卓球台にマッサージチェア。次の家には当然置く場所がない・・・。日本出国前にマッサージチェアのコンセントがなくなって、わざわざコンセントを取り寄せてくれたRちゃん。ごめんね。やっぱり手放さなければならなさそうです。Salvation Armyに言えば、無料で取りに来てくれるはず。思えばあれも30万円したんだよね。サウジ成金時代の話です。(A男さん、B子さん、ご希望とあれば、差し上げますよ。)

2008年6月10日火曜日

シンガポール商人

きっとコイツもベニスの商人みたいにあくどいんだろう。
あ、違った。ベニスの商人であくどかったのは、ユダヤの高利貸しだったわ。

昨夜、リヤド時代からのお友達が、内緒でこんなブログを書いているのを発見!
面白いから、読んでみてください。
私のブログの一番下にリンクが張ってあります。

ウサギと花

どうやら、ピーター母子のほかにもいるみたい。
ひょっとしたら親子3人家族かも。

さっき郵便を出しに行こうと外に出たら、2匹が前庭の芝生(って言うか、雑草)の上にチンと座っていた。慌ててカメラを取りに家に引き返し、写真を取った。この2匹は今朝見たピーターより大きくて、2匹ともほぼ同じくらいの体格。ピーターのお父さんとお母さんかな。(ピーターの写真と比べると解ると思うけれど、耳もちょっと長いし、毛並みも悪い。)

数枚写真を撮っていたら、なぜかジョダコが家から飛び出してきて、2匹を追っかけた。どうやら私がドアをちゃんと閉めていなかったらしい・・・。ジョダコより俊足だったと見え、すぐにジョダコは手ぶらで帰ってきた。良かった・・・。

そんなこんなで、すっかり郵便を出しに行くのを忘れ、しばらくしてからまた思い出した。(ところで、日本の皆様、郵便を出しに行くって言っても、自分の家のメールボックスに郵便物を入れておくだけです。郵送物がある時は郵便屋さんへのサインとして旗を立てておきます。10ってあるのは番地。)

で、郵便受まで行ったら、また側の植え込みからピーターが飛び出した。あの大きいほうの2匹はジョダに追いかけられて遠くに行っちゃったみたいだけど、この子はまだ残っていた模様。

ああ、ジョダコに恐れをなして、もう戻ってこなかったら嫌だな。

ついでに花の手入れをしようと、麦藁帽子を被って、ハサミと袋を手に庭に出た。オハイオで教えてもらったペチュニアの手入れ方法。花が咲いた後、すぐに枯れた花を摘み取っておけば、種を作るための栄養を使わないから、もっと元気に花が付くらしい。真っ盛りになると花の数も多くなるから、3日に1回くらい手入れしても、かなりの数の枯れた花を摘み取らなくちゃいけない。今日だけでも100個近く切ったよ。

でもこうして花の世話をしている時間って結構好き。
なんか年寄りじみてきたかなぁ。
でもさ、花もペットも、世話した分だけちゃんと見返りがあって、子供を育てるよりずっと世話のし甲斐あるのだ。だから花やジョダコには自然に優しい声が出るんだけど、振り向いて子供や夫に話す時は自然と声が1オクターブ声が下がるのである。

未練

あと少しで引越しと思うと、だんだんこの家にも未練が出てくる。
ゲジゲジの館の地下室や、レンガ敷きで、くもの巣が至るところにすぐできるファミリールームとおさらばできるのは嬉しいけれど、春になると次々と花をつける表と裏庭の木々を来年は見られないと思うと寂しい。

これまで植物なんか全然興味はなかった。オハイオ時代のコンドミニアム時代(と言うと小洒落た響きだが、何のことはない洋風長屋だ)、ネコの額より狭いねずみの額ほどの中庭があり、中央には人工芝が敷いてあったが、塀に沿っての少しの部分が土だった。その少しの部分を、ジョダと分かち合って、半分はジョダのトイレ、残りを私の花壇とし、ペチュニアやインパシャンスを植えた。

周りの人々が花を植えて綺麗にしているから、半ば義務感から始めたものの、育ててみると案外可愛いかった。チェリートマトは次々と、余りにたくさん実を付けるものだから、食べないままに腐って行ったっけ。ジョダの有機肥やしで育っていると思うと、食欲をそそらぬと言うことでもあったのだが。

そして今年も、この家の付加価値を上げて大家さんから感謝され、できるだけたくさん敷金を返してもらおうと、ペチュニアを植え、他にもいくつかの花を買ってきて、裏庭と表に投資した。

ペチュニアは、少し花が出てきたところで、全て頭をちょん切ってやると、横に広がって行く・・・とオハイオの補習校で、春の花植えのお手伝いをした時に教わった。そこで少し花がついたところで、ちょんちょんと花を切って行った。

ところが、いつまで経っても殆ど花がつかない。なかなか暖かくならなかったから、お天気のせいかな・・・と思っていたのだが、先日、間近で見てみると、花が弁のところまで食べられてなくなっていることに気づいた。

実は我が家の庭にはウサギが2匹住んでいる。大きいのと小さいコットンテール(茶色で尻尾が白い)で、おそらく母子。小さいのは15センチくらいの大きさ。植え込みの中に巣があるのか、中でがさごそ音がしているし、しょっちゅう芝生にも出てきている。1メートルくらいまで近づいても逃げない。

今日も郵便を取りに出ると、ポストの下の植え込みの中から、チビが飛び出して行った。丁度お向かいの小学生の男の子たちが下校してきたところだった。


「ここにウサギが住んでるの知ってる?」
「うん、知ってるよ。家の花をみんな食べちゃったもん。」
「やっぱり。うちのだけじゃなかったんだ。」
「レタスを植えてるんだけれど、それもやられちゃった。」
「はは~ん。最近になってようやくうちの花が育ち始めたと思ったら、もっといいものを見つけたんだ。」

ここ2-3日、ヒートウェーブで猛暑となり、今日も気温は99度(37度!)。信じられない暑さ。(もったいないけれど、昼間からエアコンかけてます。)おまけに、2日前は夜中に嵐で、翌朝は学校の始業は1時間遅れ。嵐で木がたくさん折れて、通行が妨害されたため。太陽と雨がたくさんで、裏庭の雑草も思いっきり元気よく伸びたし(もう新しい入居者が決まったから、庭の手入れは怠慢しよう・・・)、それでペチュニアもたくさん咲き出したのかと思ったけど、どうやらウサギちゃんたち、もっと美味しいものを見つけたらしい。


子供のウサギ。コットンテールだし、ピーターって呼ぼう。

仕事と引越し

4月、5月と割合に暇で、このまま開店休業状態が続くのかなぁ・・・と不安になっていたら、キニコの卒業式の後、にわかに忙しくなり始めた。アイツの学費も稼がにゃならんし、スケジュールの許す限り予定を入れ始めた。

おまけに7月10日に引越しを決めたから、その準備もある。

金曜日1件、土曜日3件、日曜日1件、そして今日も1件の訪問客と、立て続けに、この家を見に来る人が続き、うんざりし始めていた。これまでは、なるべく部屋を片付けていたけれど、シイナのひどく散らかった部屋を毎回片付けるのもアホらしくて、今日の訪問者には、ありのままの姿をご覧入れた。

で、夕方に嬉しいニュース。新たな借り手が見つかったとのこと。(無論、あのシイナのとっ散らかった部屋を見た人ではない。)良かった! これで落ち着いて生活できる。

さあ、頑張って働くぞ。キニコが帰ってきたので、気楽に家を空けられる。シナコは全く料理をしない(電子レンジのチンですら、めんどくさがってやらない)から、何か準備して出かけなくちゃいけないけれど、キニコがいればご飯のことは心配しなくていいし、ジョダが朝からご飯をもらっていないなんてことも起きない。

まだ免許がないから、買い物とシナコのピックアップができないのが残念。早く免許取って欲しいな~。(運転試験の予約の希望を出して、指定された日にしか試験を受けられないのだ。)

ということで、しばらく忙しくなります。

キニコのお戻り

パーティーを転々として、ようやく昨日キニコが帰宅した。
いや、金曜の夜のパーティーに行くのをやめて、一旦予定より1日早く帰宅したのだが、それは体を休めるためで、翌日土曜日に再びニュージャージーでのパーティに出かけて行き、日曜日に帰ってきた。

パーティーはどんな内容だったのか聞くと、招待客は殆ど生徒たちだけで、他の招待客がいてもそれは親の友達か親戚くらい。
どのパーティーでもお酒が出て、キニコも飲んだらしい。法律では飲酒は21歳からだけれど、高校を出たら飲酒くらい普通になるのだろう。これは日本と変わらない。

あ、日本じゃ高校生も飲酒するよね。私が高校生のときは、頻繁ではないにしろ、もう友達と外で飲んでいたからな。ボトルキープしている子もいたよ。

さて、帰るなり、「夏休み、日本に帰りたいんだけど」と言う。
「バイトしてお金稼いでからにして。あ、それか、大阪のおばあちゃんが独りで寂しがっているし、片付けとか大変って言っているから、そこで掃除とか手伝ってあげたら?」って言うと、
「え? ホント? じゃ、そこから韓国に行ってもいい?」

やはり。本当の狙いはコレなのだ。韓国人の後輩ヘイの家に遊びに行きたいのだった。

ほんと、遊ぶことしか考えていない。夏休みくらいバイトして、学費の一部でも稼ぎ出せってんだ。

2008年6月5日木曜日

卒業式の写真


ホッチキスのスクールカラーのM&M



前日のリンクでのディナー


卒業生入場


卒業証書を受け取るキニコ




ベッツィー、キニコ、アンドリュー、オースティン

2008年6月4日水曜日

卒業式

で、肝心の卒業式の話を書くのを忘れた。

式の前日の夜、学校のスケートリンクの上でディナーが催された。
「リンクの上でディナー?」と尋ねるシナコに、「そうだよ。寒いから厚着していかなきゃだめだよ。食事はウェイトレスがスケートしながら運んで来る」と言ったら信じた。簡単なヤツだ。

まさか。リンクでのディナーは本当だけど、氷が張ってるわけないでしょ。

10人掛けのテーブルが幾つも用意され、家族単位で席に着く。給仕は下級生のボランティア。招待客は卒業生一人に対して原則6人までで、あらかじめ申し込まなければならない。それでベッツーとアンドリューには遠慮してもらって、私たち夫婦、シナコの他、お母さん、オースティンで申し込んであったのに、見回すとみんな6人以上人を連れて来ている。代々この学校って人は事情を心得ているのだ。

ディナーの後は表彰式。スポーツ、芸術、いろんな活動、学業面での優秀さが認められた生徒たちが様々な賞を受賞する。全部で60以上の賞があり、177人が卒業するのだから、ざっと3人に1人が受賞する計算になる。

スポーツから始まり、生徒の名前が呼ばれる。キニコはスポーツでの受賞はありえない。芸術、これも関係ないな。このあたりから、同じ子の名前が呼ばれるようになる。次第に「え、またあの子?」って具合。これじゃ3人に1人どころか10人に1人にもならないかも。もらっている子は何度も何度も名前が呼ばれるのだ。

「キニコ、呼ばれないね・・・。あ、この賞くらいはどう。『教職員・生徒共に認めるみんなを盛り上げた人』っての。いや、やっぱりアンタは成績優秀者への学長賞で決まりだね」なんて冗談を言いながらも、内心はやっぱり穏やかでない。

そしてとうとう最後の賞。これはもう15個は賞をもらったと思われるキャロリン・リーが受賞。彼女は全米レベルのスピーチコンテストでも優勝していたし、これまでも何度も学校が発行する雑誌で名前が掲載されていた。キニコの仲良しエレンも7~8個は貰っていた。「最も学業優秀」っていう賞もその中にあった。ベッカも写真の賞と、学校生活に貢献した人への賞だった。ベッカのママのリンダは、「あー、ようやく3人目にして日の目を見たわ。ジョシュもザックも何もなしだったからね。ザックなんか、俺だって写真やってたし、全然ベッカよりうまいのにって、怒ってたわ。は、は、は。」

ディナーの後、エレンに会い、
「ねぇ、エレン。そんなにたくさんもらったんだから、1個ぐらいキニコにあげてよ」って言ったら、
「でも私はキニコみたいに、お母さんにミュージカルを捧げたりできないから。」と私を慰めてくれるじゃないの。なんと優しい子なのだ。ちなみに、エレンには1週間前にハーバードから合格通知が届いた。本当に良かったね!

さて、翌日の朝11時より卒業式。卒業式といえばキャップ&ガウンといういでたちが通常だが、この学校は伝統的に男子はブレザーに白のパンツ、女子は白のドレスと決まっている。卒業式のスピーカーとして招待されていたのは、Carry Me Home: Birmingham, Alabama—The Climactic Battle of the Civil Rights Revolutionと言う本でピューリッツァー賞を取ったDiane McWhorterと言う女性。残念ながらマイクがひとつの方向に向いていて、彼女があっちこっちを向きながら話すので、声がきれいに入らず何を言っているのか聞きづらかった。(ちなみに、今年から学長となった南アフリカ出身のマッケンジー先生もアクセントがあって、彼の祝辞もわかりにくかった。アパルトヘイトの中で育った学長ならではのスピーカーの人選と言う気がした。)

続いて卒業証書の授与。卒業生の人数の多い公立高校なら、次々に生徒の名前を読んで、列になって順序良く証書を受け取るのだろうか、たかだか177人の学校なので、一人ひとりが壇上に上がって、学長から証書を受け取る。呼ばれる際に、成績が良いと名前の後に「cum laude クムラウディー」つまり「成績優秀者」と付く。

当然エレンも前述のキャロリンもクムラウディー。30人弱はいたんじゃないだろうか。通常、クムラウディ、スンマクムラウディ(最優秀)なんて呼ばれるのは大学の卒業式。公立高校じゃ通常はやらないらしい。

さて、キニコの順番だ。耳を澄ます。
案の定、名前の後には静けさだけが漂っていた・・・。
あとでベッツィーが「キニコのとき、クムラウディって言うの忘れてたじゃない」と言うと、
「そうなの。先生に聞いたら、手違いで間違えたって言ってたよ」とキニコはジョークで返していた。

さあて、式の後はカフェテリアでランチョン。1時半ごろ食事を終え、キニコの寮へ向かう。部屋から荷物を出して、4時までにはキャンパスを出なければならないのだ。キニコの部屋を見た皆は愕然とした。あれだけ前々から少しずつ整理しておけって言っていたのに、何もしてないどころか、ものすごい有様。ま、想定内だったけれど。アンドリュー、オースティンにも手伝ってもらい、3階(実質は出口が地下なので階段の数から言えば4階と同じ)から何往復もして全ての荷物を下ろす。汗だくになり、無事4時にはキャンパスを後にした。

帰りにベッカの家に寄る約束をしていたので、そこでみんなでデザートをいただいた。

で、キニコはこれで一緒に帰るのかと言えばそうではないのだ。その夜は学校から10マイルほどの距離にあるマサチューセッツ州のある子の家で、卒業生全員を招いたパーティーが催される予定で、ベッカもキニコも参加する予定。それだけでなく、その後来る日も来る日も色々な子の家で、卒業パーティーが予定されており、キニコはパーティー梯子をするので、今週の土曜日までは帰宅しない。本当にはじけまくっている。

で、ベッカの家にキニコを残して私たちは辞去した。
キニコの荷物は今もまだ車の中に積んだまま。(当然卒業式にはそれを覚悟で車2台で行った。)オデッセイの助手席まで荷物で一杯。車が沈んでいる。でも、どうして私たちが荷下し作業しなくちゃいけないのだ、とむかつくので放置することにした。今週末、帰ってきたら片付けてもらおう。それにしてもあの大量の荷物を一体どこに置くのか。ゲジゲジの館の地下にでも放り込んでおいて貰おう。

そうそう、ディナーの席でキニコが言った。
「もうギャップイヤーするの辞めた。申し込んだプログラムからは何も言ってこないし、遅すぎたんだと思う。秋からはディキンソンに行きます。」

じゃ夏休みはしっかりバイトでもしてお金を稼いでもらおう。

2008年6月3日火曜日

終わった!

とうとうキニコの卒業式が終わった。
振り返って、結構感慨深いものがある。
ただ、娘が成長したと思う感慨深さではなくて、まったく自分勝手な感傷だが、キニコがホッチキスを受験し、入学して卒業するまでの5年間に本当に様々なことがあったなぁという思い。

5年前、私たちはオハイオ州に住んでいた。オハイオでの生活3年目のこと。夫に約束した帰国期限を既に3年も過ぎ、毎年のように来年は帰国するとふれ回っていたから、狼オバハン扱いされて久しかったし、ここらが潮時。そこで本気で帰国準備にかかろうとしていた。娘たちにもその旨伝えると、キニコは絶対に帰りたくないと言う。無理やり連れ帰って、グレられたりしてもと思い、プレップスクールを奨学金付で合格したら残っても良いと条件を出した。

「レイコ@チョート校」を読み、こんな学校があったのかと興味深く思っていたし・・・正直に言うと、そのときは愚かにもまだ「末はハーバードかイェールか」なんて夢を描いていた。

それから受験までのプロセス、入学、ビザ切り替えの手続きなど、面倒な手続きを経ながらも、普通だったら知り得なかった世界を覗き見、体験をした。キニコの学生ビザの切替えのために、本末転倒ながら、3年で終わるはずのオハイオ滞在が5年まで延長された。

そして帰国。今度はシナコの編入、日本の学校への適応。新婚時代の再来の予定だった夫婦は、独身生活に慣れ過ぎた中年には、再び生活を共にすると言うのは思いのほか苦であった。おまけにキニコの学費を払い続けるために、帰国直後からフル回転で仕事を始め、それが更に夫婦関係の摩擦に拍車を掛けた。あーこのままでは崩壊か・・・と思った矢先に夫の転勤。

帰国してたった1年で再びアメリカへ。その先の話はコネ通に書いてきたからご存知の通り。本当に目まぐるしい歳月だった。

ホッチキスの学費に関しては、そんな学校を娘に紹介したのは私だっただけに、責任を感じていたし、それがストレスでもあった。大学進学に関しては同じ状況に陥りたくなかったので、私は意図的に決定には介入しなかった。だから今後の大学の学費の支払いは夫と娘に頑張ってもらおう。ま、二人とも私に優しくしてくれるなら、ちょっとくらいなら協力してやってもいいよ。(あ、それであのふたり、誕生日に花をくれたり、ミュージカルを母に捧げますなんてセリフが易々と口から出たか?)

とにかく終わった!
そっか。この解放感は結局、自分が金銭的な義務から解き放たれた喜びなのかも知れない。
やけに納得。