2008年4月3日木曜日

地頭力

今、クローズアップ現代で企業が「地頭力」のある人材を求めている・・・という特集をやっていた。
「地頭力」とは、最近話題にされている能力らしい。

私に言わせれば、何も今になって注目される能力でもなんでもなく、要するに、経験に基づいて考える力およびその考えを表現することができる力でしかないと思うのだ。

英語ではRaw ThinkingとかCreative Thinkingとか言われているらしい。前者は新しい言葉だけれど、後者は別に新しい言葉でも何でもない。この二つの言葉の意味が同じということなのだから、求められているものも、やはり新しい素質でもなんでもない。

地頭力を持つ人材を開拓するために、企業の面接試験では、突拍子もない質問が出されているそうだ。日本のマイクロソフトでは、「富士山を動かすにはどうすればよいですか」、別の会社では、「日本では年間何個の鍋が売れますか」「ドラえもんのポケットから何を取り出したいですか」などなど。

正直言って、こんな質問してどないするねん? 会話のトピックとしては面白い。どのように回答するか、答えの内容よりも、これを題材に広がる会話のほうは面白いとは思う。

ニュースの解説の言葉の中に、「学校の成績は関係なく」地頭力のある人材が求められている・・・とか。

この言葉に私は非常に反論したい。学校の成績が関係ないって? 
確かに、穴埋め式のテストの点数は関係ないかもしれない。大化の改新=645年、関が原の合戦=
1600年、仏教伝来=ゴミヤの拾った仏=538。(情けないが、私の日本史の力はここまで。)
こんなこと覚えていても、こんな風にジョークに使う以外何の役にも立たない。重要なのは、何故この時期にこんなことが起きたか、その背景を理解すること。数式にしても、その数式を使って、現実のどのような問題が解くことができるかわかること、理科の知識も、それが実生活にどのように結びついているかが、面白さの元になると思うのだ。

正直言って、学校に行っている間は、これらの知識が受験以外の何の役に立つのか全然わかっていなかった。誰も教えてくれなかった。実生活との接点が見出せずに、単に勉強のための勉強だと思っていたから楽しくなかった。

ところが大人になって、身の回りの至るところに学校で学んだ知識が役立つ事象が埋もれていた。いや、学校で学んだではなく、学びそびれた知識が役に立つことがわかって愕然としたと言った方が正しい。

通訳として口に糊する身になってから、物理や化学が密接に関係する分野の仕事に携わる機会が多くなった。高校時代、理科と数学は不得意中の不得意。数学と化学は高校入学直後にあった実力考査で順位は全校で下から一桁だった。未だに記憶しているが、数学では、問題を解きながら、因数分解の公式が正しいのかどうかわからなくなって、何でこういう因数分解になるんだっけ・・・と考え始めそれで時間切れ。化学も出題された問題数は多くなく、中でも問題数が多かったのが、「下記の化学式を書きなさい」というものだった。「下記」の中に含まれていたのは、水、酸素、二酸化炭素・・・もっと難しいものも含まれていた。

数学では、簡単な説明の後に公式を覚えて、その後はひたすらその公式に数字を当てはめて解いていくというのが通常の授業。確かに公式を覚えてしまえば手っ取り早いが、何故その公式になるのかを理解していない限り応用力はつかない。ま、私みたいに、不必要なときに、一人で応用力を試そうとする奴は馬鹿でしかないけれど。

化学では「化学式」という言葉がわからなかった。「あ、例の手をつないだ形を書くのかな・・・」と思い、水は「H-O-H」と書いた。知っていたのは、2,3個だったから、書いた「絵」も2-3個だったが。

でも、結果はすべて×。化学式と聞かれたら、H2OとかO2と言う答えを書かなければならなかったのだ。そのときは、「あー私は馬鹿だー。化学は苦手なの~。下から数えて10位にも入らなかったよー」とみんなに自慢して回った。

以降、私は数学も化学も苦手、勉強するに値しないと決め込んだ。私の高校では理科の4科目(生物、地学、化学、物理)のうち、文系の生徒は2教科を1年間勉強するだけで良かったので、私は記憶力だけで何とかなる「生物」と「地学」を取った。文系の生徒はほとんどこの教科を選択するし、先生も「こいつらは理科に興味のない学生」と決め込んでいるものだから、授業も超退屈。たいていは教科書を前に立てて、その陰で、「あいつ(先生)のシャツ、昨日と一緒。どうりで彼女ができないはず」などと、友達に回すメモを書いて過ごしていた。

でも今になって、仕事で化学や物理の世界に遭遇し、なんて面白いのだろう、と思う。当時、この分野の面白さを知っていたら、今頃私はエンジニアになっていたかも・・・と大胆不敵な考えさえ頭をよぎる。

クローズアップ現代のゲストとして出ていた糸井重里氏。彼は「地頭力」をこんな風に解説した:個人が持つ知識の総合、これを元に、協議・検討を繰り返し、さらに新しい考えを生み出していくこと。この言葉に、私は思い切り拍手喝采した。

ゼロからは何も生まれない。多くの経験と背景知識を基に、先のことを考える力や自分の考えを肯定する自信が生まれて来る。そのためには、学校の成績は大切なのだ。いかに真剣に勉強に取り組んだかを表すものだから。

問題なのは、今の日本の教育が大学入試だけに焦点を絞っていること、および成績の評価の仕方。水の化学式と言われて「H2O」と答えることが大切なのではなく、水は水素分子とと酸素の原子(だよね・・・)が結びついていると知っていることのほうが、ずうぅぅぅぅっと大事なのら! 

つまり、本日の論点として最も重要なのは、私のあのときの化学の順位は、下から50番目以上であったに相違ないと言うことである!!!

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私が高校のときには、行きたい大学によって授業の取りかたを変えていました。「私立文型コース」に振り分けられた私は理数系の科目の授業が全く無かった…大学受験に必要ないからという理由。

翻訳を学ぶとき、先生が「高校レベルの化学の知識があれば医学などの翻訳もできます」といったとき、顔面蒼白に…そんな知識ないよ~って。未だにこればっかりはどうしていいかわかりません。

地頭力が必要だというのは、それが学校である知識などにプラスで、という意味でなら理解できるな。

同世代の友達は皆まじめで、社会に出ても、支持されたことをとにかく一生懸命やるんだけど、自分で何か考えて自分で何か生み出すということはしないの。だから会社で一生懸命働くんだけど、何も得るものがないといって皆3~4年でやめていくのです。

そういう意味では地頭力があれば、会社を辞めて社会から抜け出してしまう人が減るのかもしれません。

テンテン さんのコメント...

久しぶりに、コネ通拝読。少し私も余裕が出てきたのかしらん?

地頭力に関係あるかどうか…ですが、少し前、ちょっとしたご縁で東京のある小学校の先生の講座を受けました。

その学校の半数近く(だったかしら?)が外国籍、外国にルーツのある児童で、どうやって日本の授業に興味を持たせるかという一つのモデルとしての体験授業でした。それがとても面白かったです。

その日のテーマは漢字について。
先生曰く、漢字は元々象形文字であることは周知ですが、世界中に300(だったかな?)くらいある文字の中で唯一、一つ一つの字に意味を持つ文字なんだそうで、その構成ルールを覚えれば全部その字の意味がわかるんだそうです。それはすごい。

例えば、「道」。これは、しんにょうに首。しんにょうは進むという意味。では、なぜ首を書いて「みち」となるのか。先生は、「この話を聞くと、絶対に道という字を忘れないよ」とにんまり。

その昔、戦をしては勝利した軍の親方が、負けた軍の親方の首を持って、その領土を進んで「ここは俺達の領土だ」とふれまわったそうで、その進路が「道」となったそうです。

参考のプリントに、血がしたたる生首を持った昔の侍の漫画が描かれています。子ども達はきゃあきゃあ言いながらも、喜んで見ていました。はい、これで絶対「道」は忘れない。こんな風に先生が動機付けしてくれたら、きっと漢字好きになるだろうなぁって思いました。

学校教育って大切です。特に小学校の教育は学びの礎となる。しっかりした環境にしたいものです。でも、また学習指導要領が変わるんだよね。いつになったら日本はぶれない教育ができるようになるんだろう。

Jodako さんのコメント...

ブログに書きそびれたんだけれど、地頭力の解説として「ゼロからの発想」という言葉があったの。

私はゼロからの発想なんてないと思う。すべての発想は蓄積された知識や経験に基づくもの。飛躍的な発想という意味で言っているのだとは思うけれど、これも様々は知識や経験が連鎖的に新たな考えを生み出し、結果的に飛躍的なものに結びつくと思うの。

rieちゃんのお友達の話は、お友達の地頭力の問題なのか、周囲の地頭力の問題--つまり社内の人材をどう生かすかを考えることができるか否かの問題--なのかわからないけれど。

常々思っていることなのだけれど、日本人というのは、工夫ができる国民だと思う。環境さえ与えられれば、日本人それぞれ工夫してより良い方法を生み出すと思うの。もちろん個人差はあるけれど。工夫は大きな地頭力の要素だって思うから、環境さえ整えれば、すばらしい能力を発揮する人はたくさんいると私は思う。

テンテン、少し元気が出てきて良かった。教育にはお互い思うところが山ほどあるよね。いったいいつになれば多少なりとも満足できる教育環境が日本に生まれるのでしょうか。

教師の給料を上げるのが一番確かな近道だと思う。もちろん評価システムも必要。

給料目当てだけで教師になるのも困りものだからね。頭のいい人=良い教師という等式はなりたたない。苦労せずに学べる頭脳明晰な人って、たいていは教えるのが下手。自分が苦労して学んだ人は、どうすれば解るのかが分かっているから、教えるのが上手いことが多いと思う。

それと学ぶ側の能力に差があることも忘れてはいけない。「能力」と言うと語弊がある。素質、特性、長所、興味と言うべきかな。みんながみんな同じものを同じように理解できるわけでも興味があるわけでもない。違うことを基本にして、ますます学びたい人には更に深く学ばせ、そうではない人には、基礎力をつけさせることを重視し、得意とする分野や興味のあるところを伸ばしてあげるようなシステムが必要だよね。

均質的な教育では個人個人の差異や才能には対応できない。

公共の教育機関でどこまで追求できるか限度や制約はあるにせよ、今の教育の現場では、こういう方面の努力はないに等しいもの。

過去には逆に、差をつけないがために、かけっこでタイムが同じ子達を集めて走らせるなんてこともやってたんだよ。勉強は苦手でもかけっこなら得意という子の自負心は育てようとしていなかったんだよね。