2010年6月20日日曜日

卒業ランチ

今日はマンハッタンのリトルイタリーにあるイタリアンレストランでシナコとオースティンの卒業祝いのランチだった。

そもそもは我が家の3人とアメリカの妹ベッツィーの家族3人の6人の予定が、もう一人の妹のスーザーン夫婦も予定を変更して参加してくれたし、ベッツィーの近所に住むヘレインの家族4人、ベッツィーの旦那のアンドリューの母ジョウンも参加で総勢13人の大所帯となった。

ベッツィーとアンドリューには、娘たちは本当にお世話になっている。小さな頃から機会があるたびに行き来していたが、特にモントレー時代とオハイオ時代の7年間には、毎夏のように1~2ヶ月間、子供たちを預かってくれていた。だからヘレインとも顔見知りだし、ヘレインの子供たちとは幼馴染のよう。キニコだけがアメリカに残った1年間も親代わりに色々やってくれた。まさに足を向けて寝られない存在。

ベッツィーたちはニュージャージーに住んでいるので、コネチカットに引越す事になったときに、もっと頻繁に行き来する事になるだろうと思っていたが、実は事情は全く逆になった。ここ4年間は昔よりずっと会う頻度が少なくなって、1年に1回と言ったペース。理由は子供たちが大きくなって色々とスケジュールが合わなくなったこと。ベッツィーも仕事を始めて忙しくなってしまったから。

8月には私もノースカロライナへ引越すが、時を同じくしてベッツィーとアンドリューも、アンドリューの転職でアリゾナ州ツーソンへ引越す事になった。(オースティンはNY州にあるRPIという大学に進学する。)ニュージャージーにいなくなるのは寂しいけれど、再び離れたほうが、会う頻度が増すんじゃないかって思っている。ツーソンは私が留学しベッツィーたちと暮らした町。再びツーソンに拠点ができるのはちょっと嬉しい。

ところで今日訪れたリトルイタリーだけれど、今やLittlest Italyになっている。もう2ブロック区間くらいしかイタリアのレストランがある地区がなく、広がり続ける中華街が直ぐそばまで押し寄せている。Little Italyの入り口には、歩行者専用区とするための柵が置いてあるのだけれど、それがまるで中国よ、これ以上入ってくれるな!と訴えているよう。

・・・でも時既に遅し、中も既に中国に冒されておりました…。

2010年6月19日土曜日

サウジ徒然記 Vol.5

私たちが迎えのバスに乗り込むと、日本人は全員戻っていたけれど、ガイジンのほとんどはまだやった。1時間後の便に乗るんやろ。それにしても、こんな何もないところで、ようそんなに長時間すごせるなぁ。感心する私らを乗せてバスは出発。

翌朝、そんな物好きなガイジンの一人に出くわした。
「昨日は遅いほうのバスで帰ったの? そんなに見るものあったっけ?」と聞けば、すごい剣幕で、
「あんな何もないところで誰が! バスの時間に合わせて戻ってみたら、出口でムタワに捕まって、お祈りの時間になったから終わるまでここを出てはいけないって言われたのよ! ようやくお祈りが終わって外に出たら、バスが5分早く出て行くところだった。あんな所に誰も長時間いるはずがないと想像して、皆が戻るまで待つべきだったのよ!」と、逆に私が責められてしまった。

そんなん知らんやんね。

ジャナドリア・フェスティバルの話はこれでおしまい。

壁の中で暮らす普段の私たちの生活からは推し量れないこの国の素顔に振れ、「極楽」とばかり笑ってられへんことを実感。しかもちょうどこの時、この国に関するある本を読んでいて、そこに書かれたことからの恐怖心も重なって、自分の考えを少し改めた。知りたいはずのヴェールの向こうも、知らずに帰るほうが幸せなのかも知れん。でも、私の好奇心はそれを許しそうにもない。

ここへ来て9ヶ月。いまだにまともにサウジの人と出会ったことがない。外国に住んで、その地の人と直接接することがない国も珍しい。彼らを良く知っているある人は、「知り合わんでえぇ」なんて言うけれど。

周りで話されていることが分からへんのもじれったい。そこで3ヶ月前からアラビア語を習い始めた。最初の授業で、今まで一体どこで切れているんかさえ分らなかったあの文字が、あれでも1文字と分って、目の前が明るくなった。でも、それも一瞬。後が続きまへん。

まず、使う機会がない。カタカナでもアルファベットでも表すことのできないあの発音も問題。30を越えると覚えも悪い。

私がアラビア語を習っているのを面白がっている運転手のマヒューブが、車に乗るたびに熱心に指導してくれる。この時は心行くまでリピートしても、車を降りてものの2,3分ですっかり忘れてしまう。このごろは彼の方から、「ほれ、書け」とばかりに、紙と鉛筆を差し出して来る。

あと言い訳にならへんけど、忙しすぎる。もっとちゃんと復習せなあかんのに、それを阻む、お茶、子供、買い物ツアー、刺繍。そしてこのライフスタイル(刊行誌)・・・。

それでもスークで覚えたての言葉を繰り返すだけで、相手は態度を軟化させる。2つで10リヤルのスイカが、3つで10リヤルになる。絶対負けへんと頑張っていたゴールドスークのおっちゃんが、私の差し出す額で折れてくれたりする。

投資の授業料の元が取れるまでは、まだまだ時間はかかりそうやけど、何とか帰るまでに片言で会話ができるようにならへんかなぁ。

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と言うことで、ひとまずサウジ徒然記は終わります。実際にこれはVol.17まで、サウジアラビアやイスラムの起源について書いたり、休暇の出来事を書いたりして続きました。途中の6回は飛び入りでコイオの会社の所長さんが書いたものを挟んだから(執筆料はあげるから、代わりに編集してと言われた)正味私が書いたのは11回でしたが。

上記で触れた「この国について書かれていたある本」とは、Princess: A True Story of Life Behind the Veil in Saudi Arabia (邦題:プリンセス・スータナ)でした。サウジアラビアでは発禁だったため、私たちはそのコピーを回し読みしていました。当時はまだ翻訳本も出ていない、出版されて間もないころでした。

その内容や、本当に恐ろしかったです。例えば(記憶が正しければ)スータナと友人2人は、若いころ好奇心から内緒で男性と会い、それが家族にばれ、一人の友人は自宅牢に閉じ込められて発狂、もう一人は父親の手で家のプールに沈められて殺されました。こうした父親は正しいことをしたと褒め称えられるのだそうです。

華やかなロイヤルファミリーの暮らしと同時に、厳しい戒律と私たちの目には不公平、時には非道とも映る女性たちの暮らしが浮き彫りにされていました。

スータナはこの後2冊の本を出版しますが、3冊目は既に母親になった彼女が描くサウジのロイヤルファミリーの生活で、彼女自身がだんだん保守的になっていることがわかります。

既に発行されて20年近くの月日が経っていますので、現在のサウジアラビアや中東諸国の実情とはマッチしない部分も出て来てはいると思うのですが、まだまだここに描かれた儀式や伝統・しきたりが今も息づいている地域や家庭がたくさんあると確信しています。

さて、私が多くのお金を投資したアラビア語は、結局モノにはならず、今や1から10までの数と、「こんにちは、こんばんは、ありがとう、Let's go、ゆっくり(少し)、No problem、神のご意思があれば」これくらいしか覚えてません。

この最後の「神のご意思があれば」ですが、アラビア語で「インシャアッラー」と言います。

ムスリムは決して約束事をしません。

例えば、クリーニング屋さんに洋服を持って行って、「これは火曜日までに要るんですけど、大丈夫?」とお願いすると(サウジーはクリーニング屋さんで働いてませんが、働いているパキスタンの人はムスリムですから)
「火曜日ですね、インシャアッラー」
「つまり、火曜日は大丈夫なの?」
「だから、インシャアッラー」
てな具合。

何事も自分が決めるのじゃなくて、神様のご意思によってそうなるってことだから、勝手に決められないって言うんでしょうか・・・。私たちに取っては、とっても都合のいい方便に聞こえるのですよねぇ。

さてサウジネタも、面白いことを思い出すまでは、ひとまずおしまい。

さ、今日と明日で、家を整理するぞ!
インシャアッラー!

2010年6月18日金曜日

サウジ徒然記 Vol.4

今度は顔までスカーフでぐるぐる覆って、アバヤの下に鞄を隠し持ち、アバヤの前の結び目を解いて重ね合わせ足元まで隠した(結んでいると足が少し見える)。スカーフの正しい巻き方を習っといたら良かった。どう見てもネイティブには見えない。

丁度、サウジ女性の団体が前を通りかかったのを見て、咄嗟にメイドを装うことを思いつき、彼女たちの後におずおずとピッタリ付いて従った。

大勢のムタワ(宗教警察)がいる入り口までやって来た。思わずメイドを装っている自分たちに笑いがこみ上げてきたが、笑っている場合ではない。万一見つかったらどうなるのかと不安になる。

でも何のお咎めもなく、すんなりと難関突破。やっぱり顔まで覆っている敬虔な者に特別な注意を払ったりはしないらしい。

ほっとしたのも束の間。会場の中にも大勢ムタワがいて、臆病な私らは、なかなか顔のスカーフが取れない。

前日のメンズデーに野球帽とジーパンをはいて、旦那と息子に紛れて行ったわよというフランス人の女性が、「ムタワはいないし、写真も取り放題」と言うてたのに。その言葉をまに受けて、私らは捕まったんやと、彼女を恨んでみる。

ライフスタイル(コンパウンドの刊行誌)に「サウジの伝統、文化を知る良い機会」とあったので張り切ってきたのに、中は人でごった返し、砂埃がもうもうとたちこめるばかり。大して見るものもない。確かに工芸品のデモ販売みたいなのはあるが、スークにでもある代物。値段も安くはない。お客もガイジンは少なく、ほとんどはサウジー。

30分ほどで見尽くし、路肩に腰を下ろした。迎えのバスまでには、まだ1時間はある。

「一体、これ何やのん?」
「なんで、こんなに人が集まるん?」
「サウジーが見ても面白いんやろか?」
「それにしても、何であの一家にだけハエがたかってたんやろ?」

私は広場で何を売るでもなく、固まって座っていたベドウィンの家族を思い出していた。その人たちにはハエがたくさん止まっていた。特に目の周りは、まるでオアシスに集まる動物がごとく。しかも驚いたのは、その誰一人もが、追い払おうとしないこと。

だいたい皆の周りに同じだけハエが飛んでいるならともかく、その一家だけと言うのも妙な話。

「砂漠にはお風呂ないもんねー」
「自分の匂いを大切にするから敢えて入らへんって聞いたよ」
「ほんまー??」

真偽のほどは不明。

2010年6月17日木曜日

クロージング

6月10日に予定だったクロージングは、ローンの審査に時間がかかり、結局昨日に延期となっていましたが、無事にクローズすることができました。

クロージングなんて日本の皆様には聞きなれない言葉。アメリカで家を購入する際には必ず出てくるので、私も言葉は知っていたし、その日が「実際の譲渡日」と理解はしていましたが、具体的に何をするのかは知りませんでした。

元々予定だった10日は、購入側の専任エージェントであるマージに全てを一任していたので立ち会う積もりはなく、私は16日に免許のことや引っ越し前に必要なことをするために日帰りで行くべく飛行機を取っていました。延期されたお陰でクロージングを体験出来てよかったです。

クロージングは販売会社と購入者の双方を代表する弁護士の事務所で行なわれました。参加者は弁護士とマージと私。

マージの話では、これがNY州だと、買い手側の弁護士、売り手側の弁護士、ローン会社の弁護士と、弁護士が3人もいて「弁護士が3人もいたら、決まる話も決まらない。お昼に何食べるかだけでも、すんなり合意が取れないのよ」(笑)。

私が持参したのは、前日に連絡のあった金額の小切手。「家の代金+クロージング諸費用-ローンの金額-頭金」の額です。ありとあらゆる書類にサインさせられましたが、全ての書類に関して、ひとつひとつ弁護士が内容を説明していきます。(わたしは自分の名前だけをサインすればいいので早いのですが、コイオの代理人であるマージは、いちいち「コイオの代理人として署名します、マージ・ビッシュ」って書かなくちゃいけないから、大変。

別に驚く内容の書類はなく、ローン手数料に関して「詳細の説明を受け、依存はありません」とか、「ローンの申請書の内容に相違ありません」「ローンの支払い月額を確認しました」「ローンの書類に印字ミスがあった場合は修正に同意します」「家の審査書類は受け取りました」などというローン関連の書類に始まり、次は家に関して「光熱費の名義を3日以内に書き換えます」「害虫駆除のシステムは理解しました」「サブディビジョンの規則は理解しています」「管理費について理解しています」。中には「連邦法に触れるローン詐欺の罪は犯しておりません」というのもありました。全部で20から30くらいの書類にサインしたでしょうか。そして最後は「権利書」にサインして「おめでとうございます」と握手して鍵をもらっておしまい。あわせて1時間半くらい。

クロージングで一番最初に説明があったのはHUD-1という書類でした。
弁護士が「それでは、ハッドの説明をします。まず3ページ目のクロージング手数料の内訳から見てみましょう。」

「…すみません、ハッドって何の略ですか?」
家を購入したことのある人なら承知の書類でも、なんせこっちは生まれて初めての素人ですから。

「ああ、そうですね。HUDはDepartment of Housing and Urban Development (住宅都市開発省)の略で、そこが指定するローンの合意文書です。」

HUD-1の項目を全て説明してもらい、内容に誤りがなければ署名、だったのですが、実は一点確認したいことがありました。

それは、マージと2人で弁護士事務所に向かうときに初めて打ち明けた話。自分のミスだと恥ずかしく思っていたのと、もしかしてマージも気付いていて黙っているのかと思っていて、確認するのを躊躇していたのですが、思い切って尋ねてみました。

「マージ、やっぱりひとつ確認しておきたいことがあるんだけど」
「何?」
「購入を決めたときに、マージが販売会社と交渉してくれたでしょ? 冷蔵庫・洗濯機・乾燥機を買うためのお金に3,000ドルと、クロージング手数料として3500ドルを販売会社が出すようにって?」
「そうよ」
「でも3500ドルはもらえなかった。昨日送られて来た明細には含まれてなかった」

新築物件ではしょっちゅうあることらしいのですが、販売会社にはお抱えのローン会社と言うのがあり、その会社を使えばインセンティブとしてクロージング費用の一部を負担するというもの。あの家を見に行って、購入しようと決めたときに、マージが交渉条件として家電とクロージング費用の一部負担をお願いしてくれたのです。でも我が家の場合はコイオが日本にいることなど特殊事情があるので、予めそう言う事情がよくわかっているローン会社を使いたいという希望がありました(結果的には、パット君、全然わかってなかったんですけど・・・。)

「だから、あの時にわざわざ私が確認したでしょ? お抱えを使わなくてもこの3500ドルはくれるかって? それでOKってことだったじゃない。同時にあの場でパットにも電話して確認したじゃない?」
私はそこまで全然おぼえていなかったのですが・・・。

「でもちゃんと契約書には但し書きがあった。あの時、契約書を向こうの担当が、ひとつずつ簡単に説明して、ページごとに私がサインして行ったでしょ? そのとき彼女はその但し書きのところは、故意かどうかわからないけれど、説明はしなかった。その後、購入物件が違うものに切り替わって、再度契約書にサインしてファックスしたんだけど、実は契約書にきちんと目を通したのは、それから更に1週間以上経ってから。そこで初めて但し書きに気付いて愕然としたけれど、もうサインしてたし…。めくらサインをした自分が悪いから、言うに言われず黙ってた…。」

マージも契約書のコピーは持っていたけれど、読んではいなかったのです。と言うのも、ファックスで送信した契約書は、元々のリーガルサイズがレターサイズに縮小されて字が潰れていて読めなかったから。

余談ですが、今回の経験で、なぜアメリカで通常使われる紙のサイズであるレターサイズ(A4を少し短くして太くしたサイズ)を更に15センチ位くらい長くした縦長の紙のことを「リーガルサイズ」と呼ぶのか良くわかりました。契約書などの法的文書はこれが標準サイズなのですね。

で、「とにかくこのことは弁護士に相談しましょう」と言う事になっていました。

弁護士に事情を説明すると、とにかく販売会社に確認しようと言う事になり、最初に署名するはずのハッドは後回し。

全ての書類を確認した後、「販売会社が3500ドル払う事に合意しましたよ、ハッドを差し替えます」という朗報がもたらされ、私はめでたく差額の3500ドルの小切手をもらって帰ってきました。ヤッホー! 

アメリカは契約社会だし、ダメだろうとあきらめていただけに、なんだかタナボタ気分! ルンルン。
コイオにもめくらでサインして3500ドルもらい損ねた話は内緒にしてたから、これはこっそり自分の口座にもどしましょう。マージも、言うなって言うし。わはは。

2010年6月13日日曜日

サウジ徒然記 Vol.3

大方の皆様はここへ来る前にこの国のことについていろいろと本を読んだり、勉強して来はるのに、私は「外国に行ける」と喜ぶ以外何もしなかった。アバヤは知っていたけど、リヤドの空港で初めて頭の先から足の先まで黒づくめの装束をみて驚いた。顔までとは知らんかった。

そのせいで、余計にここに来てからのすべてが、見るもん、聞くもんおもしろかった。

嫌なはずのムタワ(宗教警察)さえ、会うのを楽しみにしていた。でもその機会はなかなか訪れなかった。

4月も半ば、ジャナドリアフェスティバルと言うのがあった。ライフスタイル(コンパウンドの刊行誌)で知って、レディースデーに皆でバスで行った。

バスが着くなり、運転手が慌てて「頭を覆え」と言うから、なんやと思って外を見たらムタワがいる。しかもリヤド中のムタワを集めて来たんちゃうかと思うほどウヨウヨ。

バスを降り、何も悪いことをしてへんのにドキドキしながら彼らの前をすり抜けようとした時、むんずと鞄をつかまれた。スカーフをしていたつもりが、ずり落ちて前髪があらわになっていたのだ。それを正しても、私の大きな鞄を見て「カメラ?」と聞く。カメラも大丈夫と聞いてたから、カメラどころかビデオまで持ってきていた。親切な私は、ご丁寧にかばんが小さくて自分のカメラが入らない友人のカメラまで預かっていた。

嘘ついて捕まるんも怖いし、とりあえず私のカメラだけ差し出したら(自分のを出すところが偉い)お預かりとなってしまった。

気がつくと友人二人も、カメラ所持とストレッチのスパッツ着用のかどで、お咎めを食らっていた。スパッツでは中に入れない、車へ戻れと言われている。(アバヤの丈が少し短く、スパッツに覆われた足首の線が見えていた。)

後からカメラが無事に戻ってくるか心配やったし、何と言ってもスパッツ一人を残されへん。ここは中に入らないでバスに戻る事にした。イカマ(サウジ政府発行の身分証明書)を見てフィリピーノやないとわかってから幾分優しくなった気がするムタワは、すんなりとカメラを返して、私たち3人を解放してくれた。

バスの所にまで戻ったけれど、そこにはバスはいなかった。ピックアップの時間までどこかに行ってしまったらしい。駐車場には女性を待つトーブ姿の男性たちがヤンキー座りをしてたむろしている。

彼らの容赦ない視線に戸惑った私らは再度中に入ることを試みた。

(次号へ続く)

+++++

<補足>
サウジで暮らしたのは今から15年ほど前のこと。
アメリカのアフガニスタン攻撃やイラク戦争で、中東やムスリムの生活がメディアを通して報道されるようになり、今や誰だってムスリムの服装や習慣、伝統についてはある程度の知識を持つようになったと思うのですが、当時はまだまだ知られていなかったと思うのですよね。私の無知もかなりのものでしたが。

今のサウジアラビアがどのくらい変わったのか良くわかりませんが、当時は建設ラッシュだったので、恐らく外観は大きく変化していると思います。でも人々の生活はどうなんでしょう。

再びあの地を訪れてみたいと思っても、観光ビザが発行されない国なので遊びに行くことはできません。特に女性にはその機会はほぼないでしょう。(時折ビジネスにかこつけた観光ツアーがあって女性も行けたりするのですけれどね。)

サウジには出稼ぎ者が多く、単身でパキスタン、フィリピン、インド、スーダン、イエメンなどからの大勢の男性が働きに来ていました。メイドや看護婦として働く単身の女性たちはフィリピン、マレーシア、エリトリア人が多かったように思います。空港では出稼ぎの人たち用の特別の入国の列があり、彼らは階層的にも下に見られ、そのような扱いを受けていました。多分今でもそれは変わらないのじゃないでしょうか。ムタワ(宗教警察)に嫌がらせを受けるのも、圧倒的にこうした国から来ていた人々でした。

サウジアラビアでは基本的に外での写真撮影、ビデオ撮影は禁止でした。

サウジ全土で最も締め付けが厳しいのがリヤドでした。紅海沿いのジェッダや湾岸のアルコバールあたりもっと開放的でムタワも少なく、スカーフなしで出歩けたのですけれどね。

2010年6月12日土曜日

サウジ徒然記 Vol.2

前任者と比べて文章に知性が光らへんとの噂もありますが…。

それはさて置き、びっくりと言えば、先日の我が家のハッジ旅行。<ハッジとはメッカ巡礼のこと。この時期、サウジは祝日でお休みとなる。> 大方の日本人の皆さんが、豪勢に海外へお出かけになった中、私たちは寂しくアル・ジュベイルへ。<アル・ジュベイルは、アラビア湾沿いのローカルなリゾート地。>

それでもプライベートビーチで家族で泳げると聞いてたんで、勝手にサウジとちゃうところをイメージしてたんやけど、大きな勘違い。

夫は私の旅行鞄の中から、ショートパンツやノースリーブが出てきたのを見て「あほか」の一言。実際、ホテルのロビーでショートパンツでいたら。「マダム、ベリーショート」と注意を受けた。(ほんまは、背ぇ低いって言われんたんかな(笑))

いつもは欧米人でにぎわっているはずのこのホテルも、ハッジのこの時期はサウジーで一杯。(それもここだけの話、あんましリッチそうでないところの。やっぱしお金があったら、海外行くわ)。

ところがこれが意外に楽しかった。普段身近に接することのない彼らを目の前で観察できて、私は大満足。

特にビーチでの彼らの様子は特筆に価する。私は彼らを5つのカテゴリーに分けた。

第1のカテゴリーは純正統派。トーブ<男性が着る足元まである白い装束>とアバヤ<女性を服の上からすっぽり覆う黒い装束>姿でビーチから泳いでいる人を眺めるだけ。(そんなんやったら来ーへんかったらええのに。)

第2は、男と子供は泳ぐけれど、女性はアバヤ姿で眺めている。このタイプが最も主流。

第3は、女性も泳ぐけれどアバヤは脱がず。子供も水着を着ないで洋服のまま泳ぐ。伊達に浮輪なんか持ってきているところを見ると、満更泳ぎに行かないわけでもなく、しばしばこの姿でやっている模様。

第4は、アバヤは取れど、服のまんま。裾をまくるでもなく(まくったらあかんのやろうけど)躊躇もせず、きれいな洋服のままズブズブ入って行くところは、ほんま見上げた心意気。

最後はぐっと進んで水着姿。でも下にスパッツはくのは忘れたらあかん。

唯一水着姿だった私は、なんか気恥ずかしくて、常時タオルを巻いていた。フランスのトップレスビーチで一人胸を隠しているときにも感じた、妙な気分。どっちがほんまなのか、わからなくなる。

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<補足>
ハッジホリデーのこの期間、このホテルでは子供たちのための特別なイベントを用意しており、中庭には「ディズニーキャラクター」もどきがおり、子供のための音楽が流れていました。

しかしこのディズニーキャラクター…恐らく中国政府も顔負けのコピー…いえ、コピーと呼ぶには余りにもかけ離れすぎ。ミッキーマウスもどきには眉毛があって、背中が寒くなる。極めつけは、どう頑張ってもエレファントマン(古いですが怖い映画でした)にしか見えないダンボ。

泣く子も黙るを通り越して、わが子達は姿を見ただけで火がついたように泣き叫ぶ始末。それでもサウジの子供たちはキャラクターが珍しいと見え、喜んでいました…。

耳を澄ませば、流れている子供向けの歌は、"Jesus loves me, yes I know. Holy bible tells me so…" (イエス様は私を愛しています。聖書にそう書いてあります)じゃないですか! クリスマスを祝うことさえ禁じられているこの国で何ゆえ…。恐らくこの曲をかけているホテルの従業員は歌詞の意味も知らずにいるのだと思いますけれど、聞いている私の方が心配になっておりました。

サウジ徒然記 Vol.1

引っ越しモードで荷物の整理をしていたら、出てきたのがこれ。

サウジアラビアに住んでいた時、最初の2年間に住んだ「アラビアンホームズ」と言う名のコンパウンド。コンパウンドとは壁に囲まれた居住区のこと。ゲートがあって、アメリカでもGated communityなんていうのがあるけれど、あれに似ている。違いは、サウジの場合コンパウンドの中と外では天と地ほどの差がある。コンパウンドの中は西洋、まさに別世界。短パン・タンクトップで闊歩できるし、よそのご主人や息子さんなんかと言葉を交わしても咎められない。でも一歩外に出ると、厳しい戒律が待っている。

そのアラビアンホームズでは、週に1度の割合でコンパウンド内の広報誌が刊行されていた。A3の紙を2つ折りにした4面しかない刊行誌。その週のイベントやお買い物バスのスケジュール、コンパウンド内のレストランのメニュー、メンテナンスからのお知らせなど。その中の3分の1ページが日本語コーナーに割り当てられていた。このコンパウンドには日本人が大勢住んでいたから。

で、ある日、このコーナーを以前に担当していた人から「是非引き継いで」と言われ、しばらく書いたことがあった。今回読んでみたら、昔の話だけれど、なかなか面白い(自画自賛)。

と言うことでその一部をご披露します。

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某氏に泣きつかれ、原稿料の百リアルに目が眩み、OKしたものの、締め切り2日前だったという現実。いったい何を書いたらええもんやら。帰国までに一度は書きたいと思ってはいたけれど、こんなに早う回って来るとは思わなんだ。とにかくゴールドスークで、太っと~いネックレスとブレスレットのセットが買えるくらいお小遣いを稼ぎたいと思ってますんで、しつこく続くかも知れませんが、よろしゅう。

リヤドに来て早8ヶ月。極楽、極楽言うてるうちに飛ぶように過ぎた。あんまり極楽言うたら僻地手当てが減らされるからアカン、と諸先輩方から注意を受けたけど、こんな楽しい生活、言わいでおれますか。

なんたって、午前中、子供から解放された。日本じゃ幼稚園前の子を連れて、公園めぐりに明け暮れているはずの主婦が、やれブリッジや、テニスや、お茶にヨガ、エアロビのスケジュールを苦心して調整する。晴れた朝には、早から起きて布団を干し、洗濯を干してたのが、ベッドやから当然万年床。乾燥機があるから、別に朝やなくても、24時間、時間を気にせず洗濯できる。お宅によってはメイドさんが洗濯して、挙句の果てには引き出しにまでしまってくれる。これを極楽と呼ばずになんと呼びましょう。

それはさて置き、リヤドに来てびっくりしたことが数々あります。まず関西人が多い。東京に住んでいた頃は、家の中と外で、自由に関西弁と標準語を使い分け、バイリンギャルの異名をとっていたこの私。今じゃ誰かれかまわず「あんた、なにゆうてんのん」と語りかける始末。

あと世の中狭いということを実感。叔母の家の隣に住んでいたというT夫妻。同じ小学校だったと言うK夫人。偶然大学の同級生だったY夫妻。みーんな日本じゃ目と鼻の先にいながらすれ違っていたのが、こんな砂漠の真ん中で出会うなんて。

笑っても3年。泣いても3年。仲良く楽しく過ごさなソンソン。

引っ越しモード (8)

今の間に要る物と要らない物、日本に送る物とこっちに残す物を整理してしまおうと、ちょこちょこ片付けています。

まずは机の周りからと、引き出しや棚の中、そしてファイルケースの中身を改め、不要な書類を整理。次は本棚の下にあった書類。出てくるものが大判小判だったらいいけど、要らない物ばかりざっくざく。一部は税金がらみで5年間は保管しなければならないけど、多くは処分できるもの。2年前の引っ越しの時に整理したのに、2年の間にたくさん溜まっておりました。シュレッダーも大活躍で何度満杯になっちゃったか。

地下に降りれば、2年前の引っ越しの時にすら空けなかった箱。つまり日本から持ってきてそのままの箱が幾つか。同じく「紙類」。

それにしても物持ち良すぎ。家電のマニュアル類は全部取ってあった。あ、誤解しないで下さいよ。処分した家電のマニュアルまでは持ち歩いてませんから。全て現存のものばかり。でも、それも今回は全部ばっさり捨てました。何故って、そんなもの今まで見たこともないのに、今後も見るわけないと、生まれてウン十年経て、ようやく悟りを開いた次第。

もうひとつ潔くなれた理由は、一昔前は紙の情報が全てでした。でも今や何かあれば全てインターネットで調べられてしまう。何も紙でおいておく必要はないのですよね。(気付くの遅すぎ。)

いたるところの地図なんかも取ってましたけれど、それもばっさり。グーグルマップで調べたらいいし、車で行くときはナビがあるし。

それにしても、出るわ出るわ…。

その昔、自宅で子供に英語を教えていた頃の教材。殆どは処分しますが、一箱セットで買った本があるのですよね。おばあちゃんになって通訳や翻訳の仕事ができなくなったら、近所の子供たちでも教えるかなと・・・取っておくことに。

食器類。これが悩みどころ。趣味で買い集めたコーヒーカップやティーカップ。気に入ったのを色んな所で一客ずつ買ってコレクションをしてました。これはどうしようかな。今でも紅茶を飲むときは、その日の気分で選んでるのだけれど・・・。日本かなぁ、NCかなぁ。

独身時代にロンドンに行ったとき、セールしていたから買ったフルセットのウェッジウッド、サウジ時代に買ったフッチェンロイターのお皿のセット。いずれは娘たちにあげようと思っているから、日本に持ち帰らずにNCかなぁ。(聞いてみるか。そんなもの要らん!とすげなく言われるかも。)

子供たちにお弁当を作っていた頃の名残の品。お弁当箱、サーモの水筒、運動会とかイベント時の大きな3段重ねのお弁当箱(使用しないときは重ねて小さくなるの)。そして、この私がお菓子を焼いていたこともあったのだと思い出させる品々。ケーキの型各種、クッキーの型、パイ皿、パイの皮が浮かないように置く重し、パイ生地やクッキーの生地を伸ばすローラー、クレム・ブリュレ用の型、バーナー…どれもこの4年間殆ど使わなかった。いや、サウジから帰ってからは殆ど使ってない。と言うことで全て処分。

あ、処分と言っても廃却じゃありません。使えそうなものは全てSalvation Army行きの箱に詰めてます。

サウジ時代に水彩画を習っていて、その時の作品と水彩画セット。まぁまぁうまいじゃん。でもこんな作品を取っててどうする。ほとんどばっさり。水彩画セットは…もしかしてNCで時間があったら描くかな? 一応取っておこう…。

おびただしい数の写真。オハイオ時代の途中くらいまでは全てアルバムになっている。これがまたものすごい数。30冊くらいあるんじゃないか。しかもクラシックな糊で貼るタイプのアルバムが好きで、全部それだから重いし、嵩張るし。加えてアルバムになっていない写真が箱一杯…。どうするかなぁ。もうアルバムにはしないから、時間があったら、取捨選択するかな。(これらは日本行き。)

極めつけは手紙や年賀状。それはもう、ものすごい数。これでも引っ越しの度にかなり中身を見て捨ててはいるのですが。これまでは年賀状で写真付きのものは、友達の子供たちの成長を見るのが楽しみで全部とってたのですよね。でも今回はそれもみんな処分! 前メール時代に海外で暮らしていたことが多いから、かなり手紙を交換していたのです。しかも、私は筆まめ。だから来る手紙の数も多くて。勿論ありとあらゆる人の手紙を取っているわけじゃないですけれど。サウジ時代はこれがファックスに代わり、そのファックスもかなりある。

さてこの手紙、どうするか。全部は捨てたくないのよね。スキャンして保存するとか、読んで仕分けすればいいのだけれど、そこまでの時間もない。と言うことで、ざっと見て要らなさそうなのだけ捨て、残りは温存。(だけど、いつかこれらを紐解く日が来るのか? やっぱり捨てるべきかなぁ。)

娘たちが子供のころからの作品、作文、成績表なども取ってきた。引っ越しの度に整理してきたけれど、今回は本人たちに取捨選択させることに。キニコはあっさりしてて、読んで大笑いしたような作文や日記帳を少し残して、あとはばっさり。シナコはまだ目も通してない。あいつは私と同じでパックラット(溜め込み屋)だから・・・「温存」ばっかりかも。

2010年6月10日木曜日

引っ越しモード (7) - Done Deal

さきほどGermanと握手を交わしました。

昨日は色々な引っ越しオプションを検討して、ネットで検索したり、いろんなところに問い合わせましたが、コレ!というものには出会えず。

今朝起きて、「普通免許でU-Haulトラックが運転できるなら、私がするか。荷物の積み降ろしだけ人を雇えばいいし。そうだ、甥っ子が夏休みに遊びに来たいと言っていたから、体格のいい友達を連れてきてもらって、彼らに頼もう!」と思って、早速実家に電話をしてみた。甥っ子は昨日はおじいちゃんおばあちゃんの家に洗濯機を借りに来ていたから、まだいるかと思って。

父親が電話に出て「あいつは大学4年だけれど、アイスホッケーは冬がシーズンだから、夏もずっと練習があるって言ってたぞ」だって。「かぁちゃんのほうが詳しいから、かぁちゃんに代わるよ。ちょっと待ってて。おーい!」

そこで母親が出てきた。
「今、アカン、テレビ観てるねん。『同窓会、ラブアゲイン症候群』のめっちゃいいところやから、悪いけどまたね」とあっさり切られてしまった。

電話を切って、やっぱり甥っ子に頼むと、飛行機代を出せとか言われたら余計に高くつくし、彼の都合とか確認してたらしばらくは予定も立たないし、現実的な策じゃないなぁと考えた。

今日は大工のGermanたちは、斜め前の家の下のガレージのドアの付け替えをやっている。その作業の音を聞いていて、再度計算しなおした。

身の回りのものだけ持ってで引っ越しをする際、本来は持って行きたいけれど処分しなければいけない家具の購入総額=2730ドル。

Germanにお願いした場合、帰りの飛行機が幾らか調べると120ドル。2人お願いするから120x2、プラス、ホテル代として150ドル。1500+240+150=1890ドル。チップ込みでこれでお願いしようと思った。

外に出て、作業しているGermanを呼び止めて、チップ込みで1500ドルでホテルと飛行機代は持つからお願いしたいと言いました。8月21日にこっちを出て、22日にNCで運び込むことで、契約成立。

昨日から今日にかけて、コイオは出張からの帰路で全く相談は出来ず。決まってから、こうすることにしたと伝えたら、「保険は? 何か事故があっり、怪我した時はどうなるの? お前が訴えられたりはしないのか?やめたほうがいいんじゃない」とのこと。

家具はU-Haulを借りるときに最高で6000ドル(だったと思う)の保険に入り、車両と乗客も保険に入る。荷物の積み降ろしの際に、何かあっても家具の保証はないし、また彼らの怪我の保証もない。家具の方は、安く引っ越しようとする私のリスクだからいいとしても、怪我に関しては、責任を問われても困る。

これから、Germanにメールして、私は家具や家に損傷を与えても彼らの責任は問わない。彼らもこの作業で何か自分たちに損害を被ったとしても、私の責任を問わないことを、一筆交わしておこうと思う。

2010年6月9日水曜日

引っ越しモード (6)

怒涛のようなアップデートで申し訳ないですけど、またまた新たな情報。

引っ越し業者でもフルサービス(積み降ろしと輸送、家具の解体・組立て含む)で全部やってくれるところと、自分で積み降ろしをしてトラックだけ使わせてもらうセルフサービスのところもあって、とりあえずネットで見積を幾つか申し込んでみた。

すると・・・。

あるセルフサービス業者(PackRat)の見積:3188ドル (ぎょえ! 自分でやってこの値段!?)

もうひとつの業者(WE HAUL)は、セルフとフルサービスの両方があって、それぞれ:

 フルサービス: 1600ドル、ピアノ付けて1775ドル
 セルフサービス:1950ドル

え?? 何でセルフサービスの方がフルサービスより高いの??

すごく不思議で、騙されてるんじゃないかと思って尋ねた。「セルフのトラックの方が少ない」とか「8月はピークシーズンじゃないので74%割引が適用されているから」とか、「セルフサービスの方がずっとお客様には便利だから」と、なんだか怪しげな説明。全然わからなくてしつこく質問していると、担当者君は説明しきれなくなって、スーパーバイザーと交代。

スーパーバイザーも言うことは同じ。「セルフサービスの方が便利」という意味は、セルフは必ず翌日にトラックが到着するけれど、フルサービスの方は他の貨物との混載。色んな所で積み降ろしをするし、恐らくある程度荷物がまとまらないと運ばないからでしょう。そして「7月はピークなので、6000ドルになるけど、8月だから74%割引適用。わが社は容積じゃなくて重さでチャージしてるけど、見積はずっと多めに見積もっている。例えばQueen bedも450ポンドで見積もってるよ。課金は実際の重さだから。トラックが到着前にWeight Station(トラックの重量を計るところ)で重さを量り、その証明書のコピーを提示する。配達時に再びWeigh Stationの証明書を見せます」


そこで「じゃあ引越し荷物を積んだあとに、他のものも積んでるかもしれないじゃない」と言うと、「あなたは信用するってことを知らないんですか?」だって。
「私たちはお客様に一緒にWeigh Stationに行かれることを奨励していますから、是非一緒に行って下さい」だって。

そして「見積はずっと有効じゃないですから、数日で決めて下さい。但しデポジットはフルリファンドだから、キャンセルしたら返します。1日2500件の引っ越しを20年以上やっている信用ある会社です…」などと並べてくれる。信じてもいいのかなぁ。ちょっと考えさせてって言ったので、金曜日に電話くれるそうです。

トラックが一体いつ着くのか事前にはわからないから、常にドライバーと連絡を取らなくちゃいけないし、現地で待ちぼうけになりそう。何にもないところでひたすら待っていなくちゃいけないし。5日~2週間と幅も広いし・・・。


うーん、安いけれど、やっぱりだめかなぁ。

じゃ、やっぱり家具は処分かなー。だけど身の回りのものたって、結構重いものがあるのよね。そこでUPSで荷物を送ることも考えた。オデッセイで荷物を運んだとしても、余りに重いもの乗せたくないし。UPSで出したらどうなのかなぁと調べると、60ポンド(30キロ)くらいで35ドル。本とか書類とかUPSで送っちゃうか。あ、だけど荷受しないといけないから、私が先に出発して、子供たちにUPSで送ってもらわないと。

引っ越しモード (5)

やっぱりCraig's Listを見ていたら、結構安くて家具とかありそうだし、全部置いて行って一から出直そうかな。しばらくエアマットレスで寝ればいいし。基本的にテレビを観ないから、今でもリビングのソファーに座ることなんてないし。コンピュータデスクと椅子さえあれば、私は大丈夫だもんなぁ。

あぁオハイオ時代の最初のころに逆戻りだなぁ。
いや、待てよ。あの時は先にマットレスとソファーは買って入れたのでした。
お金もないから雇用主から2000ドルを前借させてもらって、月給から毎月500ドルずつ返したんだったな。

元同僚の皆さん、みんな身の回りのものだけでオハイオに移ったはずだから、懐かしいでしょ?

引っ越しモード (4)

パティオへのドアの取り付け終了しました。

で、取り付けに来てくれていた大工さん(ドア屋さんじゃなくて大工さんだった)に、「ね、ここからNCへ引っ越しするんだけど、U-Haulトラック借りて自分でやりたいけど、トラックは運転できないし、荷物の積み下ろしも私はできない。誰かやってくれそうな人知らないかなぁ」と尋ねて見ました。

ジャーマン(ヘルマンと言うのが正しい発音のよう)という大工の頭?が、「僕がやってもいいけど、幾ら出す気があるの?」
「・・・うーん、1000ドル」
「1000ドル? 2人で分けないといけないんだよ。1000ドルじゃなぁ。ホテル代と飛行機代は出してくれるンだよね」
「ええ、出すわよ。じゃ幾らだったらやってくれるの?」
「そうだなぁ、僕等が大工仕事して1日に稼ぐお金に見合う額じゃないといけないからな。じゃ1500ドル。経費は全部そっちもちで1500ドルならやってもいいよ」
「…1500ドルか…。税金なしで丸々入るんだよー。じゃ、ピアノは運んでくれる?」

ピアノの所に行って、ちょっと試してもらう。
「こりゃ、重すぎてダメ。ピアノはダメ。ピアノを運ぶなら料金割り増し」
「そっか…。ま、じゃあ考えてみる。やってもらうことにしたら連絡するから」

「うん、やる気あるよ。誰かに頼むなら、是非僕やるよ。僕たちこのあたりでもう20年大工やってるから。信用はあるし。マイケルに聞いてみて。安心して大丈夫って言ってくれるから」(と、がぜんやる気を見せてきた)

と言うことで、とりあえず、この作戦でやるときは人を確保した。でもピアノなしで1500ってちょっと高いな・・・。積み下ろしの業者雇って、さっきの運転だけの人のほうが安上がりだけど、でも会ったこともない人だしなぁ。

やっぱ、中古家具探そうかな。